蓮風の玉手箱

このサイトは、2011年8月7日~2015年8月29日までの間、産経関西web上において連載された「蓮風の玉手箱」を復刻したものです。鍼灸師・藤本蓮風と、藤本漢祥院の患者さんでもある学識者や医師との対談の中で、東洋医学、健康、体や心にまつわる様々な話題や問題提起が繰り広げられています。カテゴリー欄をクリックすると1から順に読むことができます。 (※現在すべての対談を公開しておりませんが随時不定期にて更新させていただます・製作担当)


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談笑する杉本一樹さん(写真右)と藤本蓮風さん=奈良市・藤本漢祥院

 鍼(はり)の知恵を語り現代の医療を考える「蓮風の玉手箱」は宮内庁正倉院事務所長の杉本一樹さんと鍼灸師の藤本蓮風さんの対談をお届けしています。第1回の前回は杉本さんもおっしゃったように「お経を読むみたいに」正倉院に納められた薬の名前が並びましたが、今回も薬の名前から対談が始まります。そこから浮かび上がってくる千年以上も前の「国」の医療制度の輪郭や医学の姿に思いをはせてみてください。医療の進歩について考えるときにまた別の発想が浮かんでくるかもしれません。「鑑真」という名前が出てくるのも興味深いですよ。(「産経関西」編集担当)

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 杉本 まだあります。芒消、蔗糖、紫雪、胡同律、石塩、●皮、新羅羊脂、防葵、雲母粉、密陀僧、戎塩、金石陵、石水氷、内薬。そして最後には、狼毒、冶葛という、これ毒薬みたいなもので、容れもの、置き場所まで別になっている。以上が60種なんです。(●=けものへんに胃)

 蓮風 そうですか。

 杉本 今の残り方を見ますと、やっぱり使いやすい薬とか、人気薬もあるんだなと思います。

 蓮風 はい。

 杉本 逆に不人気だった薬もある。毒性の強いものっていうのは使いこなすのが難しかったと思いますけど。

 蓮風 そうです、そうです。やっぱり名人級でないとね。

  杉本 化石のもの、例えば龍骨とか、そちらの系統の薬は、割に手つかずで残っているんですね。それから巴豆というのは、下剤なんですね。

 蓮風 巴豆。あれなんかも恐い薬として有名ですね。

 杉本 これもやっぱり使いこなし切れなかったのか、大分残っています。逆に、少量の貴重な良い薬っていうのはやっぱり使われたようで、人参も、まぁ残ってるんですけど、よくよく見るとその根っこだとか殻の部分だけだったり…。

 蓮風 多くは、やっぱり大陸から入ってきたものですね?

 杉本 ええ、そうですね。日本で栽培できたものもあるかもしれませんけれど、やっぱり大陸から、由来はそちらということですね。特に、大仏様にセットとして納めるにあたっては、全体の監修者じゃないですけど、鑑真さんが一役買ったんだろうなというふうに私は考えています。目はきかなくなっていたというふうに言われていますけど、それでも鼻で薬を嗅ぎ分けていたということですし。

 蓮風 そうそう、嗅ぎ分けることできますねぇ。利き分ける。

 杉本 本当に名人だったら、舐めてみたらその質の良し悪しもわかるだろうと思います。

 蓮風 そうそう、全くそうですね。こういう中で、ほとんど薬が中心ですが、鍼灸についての記録みたいなものは…?

 杉本 これがあるんです。

 蓮風 ああ、あるんですか!それ、是非教えてください、我々はそれが知りたい。

 杉本 ちょうど今日も持ってきました、これ書名にそのものズバリ『律令』(日本思想大系)というタイトルがついてるんですけど、要するに8世紀、奈良時代は、これが六法全書です。

 蓮風 ほぉ、いわゆる律令ですね。

 杉本 ええ、律と令なんです。この中に色々な部門がありますけれど、医疾令っていうのがあるんですね。要するにこれ医学、それから病気関連ということですけど、中を読んでみますとね、国家の医療制度について定めてあるものなんです。

 蓮風 医療制度はもう既に『律令』の中に入っとったわけですね。

 杉本 入ってます。きちんとそこの中にセットされて、国に憲法があり、民法がありというセットの中で欠かせない一つの部門としてあるわけです。ただ、これは当時としてやむを得ないことですけれど、やはり国を支えるお役人といいますかね、そちらに対する制度であると。一般の人々は地方自治体に相当する、都で言えば京、地方で言えば国というレベルで面倒見るようにということになってますけど。これ、拾い読みしていくだけでおもしろいです。

 蓮風 ああ、そうですか。

 杉本 この中に出てくるのが、今度は医業関連の専門家集団の話ですね。一番が「医」のグループ。「医」という医師があり、「医博士」もあり、それから「医生(いしょう)」、学生もいるということです。二番目が「鍼(しん)」、はりです。そういう位置づけで出てきます。その後に按摩が出てきて、呪禁(じゅごん=おまじない)が出てきて、あとは薬草を管理するという、そういう体制による国の医療システム。

 蓮風 その順序というのは、一つの医学としての序列を示すものなのでしょうか?それともただ並列したものなのでしょうか?

 杉本 そうですね、やっぱり「医」という方を一番上においてあったんだと思いますね。それはね、官位という基準をモノサシとして当てると、はっきり序列で見えますので。まぁ、単なる上というよりは、より包括的なものであるから、ということもあるかもしれません。

 蓮風 なるほど。中国なんですけれども、周の時代の、これもやはり『医疾令』に出てくると思うんですが、「食医」というのを一番上に置いてますね。食べ物で調節するという。それで、「疾医」というのはいわゆる鍼灸とか漢方薬を使って治す者で、「食医」の方が上だというのは学者さんの説なんですけれども。そういうようなものはまだなかったわけなんですね?

 杉本 そこは…。そうですね、令の条文に直接には出てこないですね。

 蓮風 ああ、そうですか。とりあえず鍼灸が出てくるわけですね。で、それはやっぱり実施されとったんでしょうかね?実際に。
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 杉本 まぁ、実施しようとは思っていたと思います。必ずしもその、内実が本当にそれだけのことができて、どの程度機能したかどうかっていうのはちょっと確かめようがないですけれど。

 蓮風 そうですね。

 杉本 でも制度としてね、医のシステムの中に置くんだと。

 蓮風 一応あると。意識されとったわけですね。我々素人が、古い時代の医学についてちょっと興味持つと行き当たるのが『病草紙(やまいのそうし)』という書物です。『病草紙』というのは平安時代の医療状態を鎌倉時代に筆写されたと。その中にはあきらかに鍼でもって血を出したり、ちょっと図が出てきて詞書もあるんですよね。そういうようなものは…?

 杉本 そうですね。眼の治療やら何やら…。

 蓮風 そうそう、血出して。

 杉本 あれ面白いものですから、切れ切れになっていろんなところに行ってますね。

 蓮風 そうそう。そういったものはまだこの時代にはないわけなんですね?

 杉本 ええ、そういう絵で描いて示すことは必要だったはずですが、実物はちょっと残ってないですね。

 蓮風 わかりました。とりあえずその鍼のことについてね、正倉院にそういうのが残ってる…。

 杉本 正倉院の中にというかね、写本の形で『律令』…。

 蓮風 『律令』の中には残ってる。だからその時代の医療には鍼灸があったということですね。

 杉本 はい。まぁ日中古代史にまたがる分野ですがね、中国で天聖令という北宋時代の令が見つかり、そのなかにこの『医疾令』に相当するものが出てきた。日本の律令の手本になった唐の規定が分かってきたのでね、また研究が進んでいくと思います。

 蓮風 ああ、そうですか。まだこれからですね。

 杉本 またあの、機会があったらこれ(医疾令)、お読みになると面白いですよ。えーっとね、一番面白かったのがね、鍼の実習をするのに、名人が施術するところを付き従って傍で見とれと、いうのが書いてあって。ああ、ここ(藤本漢祥院)と一緒だなと。

 蓮風 ほぉー。ちょうど正倉院ができる100年位前に、大体、仏教と共にこの鍼灸医学が入ってきたという風に聞いてるんで、100年でどこまでそれが浸透しとったかなというのが私の興味対象の一つやったんですけども。

 杉本 それでね、やっぱりここでも医術、そういう特殊な技術を持った氏族、世襲のところからそういう幹部クラスの人は取るようにというような規定がありますのでね、やはりそういう、まぁ、医学だけではないかもしれませんけど代々蓄積された知識、それがまた継承されてどんどん厚みを増していくというところ、そこが、この令が日本で成立した8世紀初頭の時点で、特に医術に関してははっきりと重視されてるなと、読み取れるわけですね。

 蓮風 なるほど。まぁしかし、この鍼灸がこういった時代にもちゃんと出ていたというのは嬉しい話で、たぶん皆もまだそこまで知らないと思うんですよ、薬物に関してはね…。

 杉本 それこそ『黄帝内経・素問』、2500年前ですか? そうすると、この中間の折り返し点くらいの所にこの医疾令が来て、そして、今があると。

 蓮風 なるほど、折り返し点と見ることできますか。

 杉本 折り返し点というのはあれかな、ちょっと適切じゃないかもしれませんけど、数字としてはそうなる。<続く>


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初回公開日 2013.4.20

鍼(はり)の知恵を探る「蓮風の玉手箱」は今回から新しいお客さまをお迎えします。鍼灸師の藤本蓮風さん(北辰会代表)と対談されるのは宮内庁正倉院事務所長の杉本一樹さんです。奈良、平安時代の美術工芸品などを収蔵してきた校倉造りで知られる建造物が鍼灸や医療と関係があるのか? そんな疑問を持たれる方も多いと思いますが
……。時を超えて往時を彷彿させる宝物の数々のイメージとは少し違った正倉院の“奥”の深さをあらためて感じてください。(「産経関西」編集担当)

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杉本一樹(すぎもと・かずき)さん 

 宮内庁正倉院事務所長。
1957(昭和32)年東京生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。同大学院人文科学研究科中退。文学博士。主な著書に『正倉院』『正倉院あぜくら通信 宝物と向き合う日々』など。

 

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 蓮風 「蓮風の玉手箱」ではこれまで奈良を中心とする文化人の先生方に来ていただいて、お話をうかがっています。先生をご存じの方は多いと思いますが、私との関係も含めて簡単に紹介させていただきます。「宮内庁正倉院事務所長」という重責におられますが、私の中国語の恩師杉本雅子先生(帝塚山大学教授)の夫君でもあらせられ、我が藤本漢祥院の患者さんでもいらっしゃいます。どうぞよろしくお願いします。

 早速ですけども、正倉院は聖武天皇の遺品が主に納められているようですが、当時の医療はどのようなものでしたでしょうか? 素人にわかりやすくご説明頂ければと思います。7世紀の前半には鍼灸医学が大陸から伝わったとされています。こういうことも含めてどういう医療だったかという概要をお話し頂きたいと思います。

 杉本 はい。昨日この(対談で出てくる)質問項目のペーパーをいただきましてね、「試験問題」が出てきた!と思ったんですが(笑)、それから慌てて色々調べたんです。正倉院の物は、正倉院の宝物という呼ばれ方をしています。毎年秋に行っている正倉院展で少しずつお見せしているような、いわゆる工芸品が中心というふうに世間では考えられています。それはそれで正しいんですけど、もう一つ今日の話のテーマに即して言うならば、薬が、非常にたくさんの分量で、あるんですね。

 蓮風 それは現物としてあるんですか?

 杉本 はい。記録とともに、現物としても存在します。正倉院に薬が納められたのが西暦の756年。当時の年号で言いますとね、天平勝宝8歳といいます。これ難しい言い方ですね。余談になりますけど、奈良時代の真ん中頃のその時期だけ、4文字の年号が使われたことがあるんです。天平というのはよく知られた年号ですけれど、天平に続いて、例えば大仏様の姿が出来てそれにメッキするための金が東北で見つかったということになると、「天平感宝」、天がその志に感じて宝を地上に遣わしたというような意味をこめて、そういう天平感宝という4文字の年号ができる。それから天平勝宝、天平宝字というような4文字年号が続いて、その内のひとつなんですけど、「天平勝宝8歳」という年です。「歳」というのも中国風の言い方でね、8年と言えばいいのを、ちょっと気取って8歳という、人間の年齢の「歳」を使っています。その年、西暦の756年に聖武天皇が亡くなるわけです。で、亡くなられた後ですね、後に残された光明皇后、お妃が。

 蓮風 光明皇后ね。はい。

 杉本 有名な方ですけど、皇后が、聖武天皇の冥福を祈って、天皇が生前に愛用なさっていた品々を大仏様に納めるということがありました。

 蓮風 元々それは東大寺に寄進なさったんですね。

 杉本 そうなんですね。大仏と共にあることによって、後の世までずっと伝わっていくようにというのが献納の主旨でした。

 蓮風 なるほど。

 杉本 ところがね、その宝物が納められた、まったく同じ日に、またわざわざ別のやり方として、薬を60種、大仏様のところに納めています。別のやり方というのは、先のご遺愛の宝物目録とは別に、薬だけの目録を作って納めている、ということです。
 同じ日ですから、一連の物だったら一つに纏めれば良いのですけど、わざわざ分けているというのは、薬の方はどうやら一旦大仏様の方にお供えする。しかし、「お下がり」じゃありませんけれど、薬の方は病に苦しむような人々、当時の事だから多かったと思います。そのような、薬を必要とする人がいたならば、その薬を使ってその苦しむ人を救って欲しいという願いが、目録の中には記されています。

 蓮風 ほぉ。

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 杉本 こちらの方は少しずつ使っていって、結果として、いつしかなくなっても仕方がない。それが本来の目的、前提ということで納められたわけです。で、使った残りの薬と言いますか、それが今まだ正倉院に伝わっていると。

 蓮風 そうですね。光明皇后は施薬院や悲田院というものを作られて、たくさんの病者を治してあげられたということを聞いておるんですけども、そういうこととやっぱり繋がるんでしょうかね。

 杉本 おそらくそうだと思います。元々薬が大仏様のところに行く前に、どこから来たかということになりますけれど、やはり光明皇后、あるいはその出身の藤原氏、その富がバックにあったと見られます。お金で買ったか、自分のところの薬園で採取・栽培したかは別として、やっぱり藤原氏の力というものがあって、それだけの薬のラインナップを揃えて大仏様に納めたと。

 蓮風 あれは確か光明皇后自体が、藤原不比等という方の娘さんだと聞いておるんですが、それでいいですか?

 杉本 はい。

 蓮風 だからそういうバックアップもあったわけですね。

 杉本 それで聖武天皇の時代の一つの政策では、やっぱり今で言う社会福祉みたいな関心の強い政策が目立ってくる。例えば疫病が流行った時に、非常に具体的な、こういうことをすると身体に良いとか、これは身体に良くないとか。大仏に納めたレベルの薬は、当然全国の人々に行き渡るというのは不可能ですから、多くの人が実行できる民間療法的な方法で、衣食住にわたって細々と。

 蓮風 どっちかというとね、漢方医学の法則というよりも。

 杉本 だけれど、こういうことは迷信に基づくものだから、やらない方が良いよとか、ひじょうに具体的なお触れが出ていますけど、私はそれなんかも光明皇后がおられて、最終的には聖武天皇の命令として出てくるんじゃないかなと思っています。

 蓮風 なるほど、大きな働きをしておられるんですね、奥さん。

 杉本 いつの世でも奥さんの影響力が強い(笑)。

 蓮風 はははっ(笑)。そうですか、それで結局漢方薬が数十種類、60種類ですか、大体どういう系統の薬なんですか。漢方医学の原理とか法則とかじゃなしに、この病気にはこれが効くというような対症療法的な治療に用いられたんでしょうかね?

 杉本 そうですね、逆にね、蓮風先生が見たら、これはこういう法則があるというようなのがわかるかもしれないと思っていますが、いつかまた機会を得てお尋ねしようと思っています。薬の種類が60種類、今残っているのがその内の、何種類になるのかな、ああ38品目。胡椒などは、全部使って、なくなったと思っていたら、専門家の調査の折に、別の薬のなかに紛れて欠片が一粒出てきた、というような、そういう発見もあるのですけれど。

 蓮風 そうですか、確かに胡椒も使いますね、漢方に。一般にそこらの漢方薬は大体100種類あればなんでもできるというくらいですから、その当時の60種類というのはかなり多いですよね。

 杉本 お経を読むみたいに、目録(種々薬帳)をズラズラと読みますよ。麝香、犀角、犀角器、朴消、ズイ核、小草、畢撥、胡椒、寒水石、

 蓮風 はい寒水石。

 杉本 阿麻勒、菴麻羅、黒黄連、元青、青葙草、白皮、理石、禹餘粮、大一禹餘粮、龍骨、五色龍骨、白龍骨、龍角、五色龍歯、似龍骨石、雷丸、鬼臼、青石脂、紫鑛、赤石脂、鍾乳床、檳榔子、宍縦容、巴豆、無食子、厚朴、遠志、呵梨勒。この後は有名なやつで、桂心、芫花、人参、大黄、臈蜜、甘草、

 蓮風 ほとんど現在も通用する薬ですね。<続く>

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川口洋さん(写真右)と藤本蓮風さん

 歴史地理学の視点を交えて鍼灸に迫った川口洋・帝塚山大学教授と、鍼灸師の藤本蓮風さんの対談も最終回となります。これまでの各界の著名な方々のお話をお届けしてきた「蓮風の玉手箱」をお読みになってきた方は東洋医学と西洋医学に優劣はないという印象を強くされたと思います。今回も、そんな話題から今後の医療の在り方や人間の幸福について話が及びます。「正解」がない問題を探る醍醐味を楽しんでください。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 日本で医学・医療というとほとんどイコール「西洋医学」というのが現状ですが、これまでのお話では、先生は西洋医学と、鍼灸などの東洋医学とを、患者がうまく使い分けできるほうが良いという、お考えですね。

 川口 それが正解かどうかわかりません。私も、(蓮風さんの藤本漢祥院に)通院するチャンスがなければ、鍼灸の治療がどこまでカバーしているのか、知らずに過ごしたと思います。恥ずかしい話。

 蓮風 いえいえ。

 川口 鍼灸にこういう治療効果があることを知る機会が増えたら、苦しみが少なくなる方が増えると思います。

 蓮風 そうですね。僕はもうすぐ70歳で年がいってますけど、できれば私の存命中にね、鍼灸専門の病院を創ってみたい。

 川口 いいですね。ぜひ実現させてください。健康保険が適用されると、我々患者は助かります。

 蓮風 これでやれたら、自分の本望だなという風に思うわけです。やっぱり僕らの患者さんの中には、西洋医学でどうにもならん病気がたくさんあるんですよね。医学が発達したといいながらもね、実際は難病で、もう治らん病気もたくさんあります。で、ある程度それは医学が発展する事によって、解決するわけですけども…。そういう意味でもね、発達するということは逆にいうと未完成だということです。

 東洋医学の場合はね、根本は変わらんのですよ。気の歪(ゆが)みを治す、陰陽の調整という事で変わらない。この原則を外れないので、そういう意味では西洋医学ほど発達しない。逆に言えば発達しなくてもある程度対処できる、ということがいえると思うんです。だから、どれだけのことができるかということを実証してみせないかんわけです、だから「鍼灸病院」みたいなのがね、必要だなという思いがあるんですよ。こういう良い医学もあるんだよっていうことを知っておればいいけども、知らないのが大方ですよ。だからそういう意味で、この「蓮風の玉手箱」も、その使命の一環を成すものという風に思っているわけなんです。

 近現代においては西洋文化が圧倒的優位に立っておりますが、今後これが逆転するということはあるでしょうか、先生の歴史地理学から見て、どう思われますか?

 川口 地理学がどうということではなくて、価値観の問題ですのでね。どちらが優位かという設問自体が価値観の問題ですので、簡単に予測できません。

 蓮風 あぁ、そうかそうか。

 川口 価値観というのは、常に相対的です。近代の工業化社会、産業化社会に適する価値観を生んだのが、200年前のヨーロッパでした。その論理が世界を席巻して現在に至っているわけです。

 蓮風 そう、そういうことを、まぁ優位だと言っているわけです。

 川口 それは、あくまでヨーロッパ、西欧の主張です。2011年でしたか、ブータンの…。

 蓮風 はい、はい、はい。あの国王夫妻が来日されましたね。

 川口 ブータンというのは貧しい国です。しかしブータンでは「幸せですか」と尋ねられると「幸せです」と答える方が多いそうです。日本独自の価値観を主張する事がかなえば、つまり、一人一人が自分の幸せはこういうことですよと主張できれば、どちらが劣っているとか、優れているという議論は、成り立たないような気がします。

 蓮風 なるほどね。

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 川口 自分が見た感じではアジアは元気です。台湾に行っても、ベトナムに行っても、タイに行っても、日本ほど豊かではないですが、エネルギーが街を覆っているように思います。(1983年4月から1年間、日本で放映されたNHK連続テレビ小説の)「おしん」が、途上国で翻訳されて、視聴率がすごく高いです。日本を見習えというわけです。これほど頑張れば幸せになれるぞ、とベトナムだとか発展途上国の方が考えておられる。「おしん」の世界に同調して見ておられるわけです。日本の若い世代、自分の教えている若い世代が「おしん」を見て、心からシンパシーを感じるかと言ったら、感じないんじゃないかと思います。経済が成長して豊かな生活ができることが、本当に幸せなのか、よくわからなくなります。若い者は…と言い出したら、年寄りになった証拠ですかね。

 それにしても、今の若者は、頑張っておられる方も、たくさんおられるとは思うのですが、元気がないように思います。学生さんの年代で男女を比べたら、女性の方が元気です。一人一人がオーラを出して、幸せ感を持って生きることのできる社会を作るのが、政治の役割かと言ったら、ちょっと違うような気もしますが、我が国は心配な状況だと思います。活力が感じられなくなっているので心配です。

 蓮風 まぁ、心配ですね。ある歴史学者が言っているんですよね。古くは東洋医学が優勢であったと、で近現代になってグーッと今度は西洋の方が勝っていく。そうするとこの波からいうと次には東洋文化が中心になるんじゃないかという説を立てておられる。それと先ほど先生が仰ったように幸せ度っちゅうのは、宗教と深く関わってきますね。例えばブータン(の国教)はチベット仏教の一つであって。何をもって幸せとするか、なかなか難しいですね、英語で言えば確かにハッピーなんですけど、じゃあアンハッピーとは何か。その幸福感というのは、全くそれぞれが持つ価値観によってまさしく変わりますね。だけど一応、まぁ幸せだと。僕もたぶん彼らは日本人から見れば幸せだろうなぁと思うけれど、大きく宗教というものが関わっております。で、東南アジアの方でもそういう傾向がありますよね。

 ところが、この間、浄土真宗の佐々木恵雲先生(医学博士、藍野大学短期大学部教授)と話した時にも仰ったんですが、宗教というのは非常にまた難しいんですよね。凄く良い面と同時に、オウム真理教を生み出すような力も持っている。非常に爆弾を抱えているような、ある種の文化ですよね。だから、僕が一番言いたかったのは、先ほど歴史学者が言った、非常に古い時代は東洋が勝って、近現代においては西洋が勝って、次の時代に東洋文化が出てきた場合に、そのバックボーンとなる思想や考え方というものが、大いに見直される時代が来るだろうと思っています。僕は常に言うんだけど、東洋文化っちゅうのは根底には農耕文化があると思うんですよね。で、農耕文化というのは皆で手を携えて力を合わせないとできないんですよ。狩猟ちゅうのはある4、5人おればできるんだけど、農耕っちゅうのは、今は機械が発達したから、ある少人数でできるけど、基本的にはたくさんの人が協力してやる。ここにはある種の宗教性もあるし、多神教的でもあるし、そういうところに僕は人間の救済みたいなもんがあるじゃないかなという感じがしたわけなんですけども。今日は長い事、先生ありがとうございました。

 川口 ありがとうございました。きょうは、日ごろ考えたことのない大きな問題を考えるきっかけを作っていただきました。江戸時代から明治時代までの東洋医学と西洋医学との関係について、これからも考えていきたいと思います。<終>

次回は正倉院事務所長の杉本一樹さんとの対談をお届けします。

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川口洋さん(写真右)と藤本蓮風さん=奈良市学園北の藤本漢祥院

 4月になりました。読んでくださっている方の中には新社会人や進学した学生さんもいらっしゃるかもしれません。慣れない環境に戸惑ったり、新しい経験に驚いたり…。これまで知らなかった文化に触れた方も多いはずです。今回は違う文化同士が互いに触れ合ったときに、どのような影響を与えるのか、という話題から対談が始まります。では「蓮風の玉手箱」の第8回。歴史地理学者の川口洋・帝塚山大学教授と、鍼灸師の藤本蓮風さんのお話を味わってください。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 先生が歴史地理学を通じて色んな文献をお読みになったり、事実をご覧になったりしてきたなかで、異文化には双方に浸透する関係があるように見えることはありますか? 私は東洋医学という世界から、ほとんどが西洋的な考え方が主流になっている世の中に影響を与えています。ひとつの文化に異文化が入ってきて影響しあうことに関心があるんです。例えば、平安時代の安倍晴明で有名な陰陽師という存在。怪しげではありますけど、天文学の専門家でもあったわけですから非常に科学的な知識を持っていたわけです。でも幕末になって「よろず相談所」のようになって祈祷もしているという風に形態が変わってきていますよね。時代や社会の需要と供給の関係のなかで陰陽師の文化が影響を受けて変容してきていると思うんですが…。

 川口 そうですね。需要と供給の関係が、文化変容に一番影響しているのかもしれません。以前、アメリカの方と話していて、日本の生活スタイルとアメリカの生活スタイルが、ずいぶん違うのか、ほとんど変わらないのか意見が分かれたことがありました。横で聞いていたスウェーデンの先生が「じゃあ、ディベートを始めてください」と言われたので、一つ一つ例を挙げて比較してみました。生活スタイルの形の上では少し違うところがあるにしても、生活の基層にある文化の違いって、どんなもんなんですかね。よくわかりません。

 蓮風 そうですか。

 川口 安くて美味しいオーストラリアビーフが日本に輸入されて、調理されるようになったというのは、需要と供給の関係で説明できるのかもしれません。しかし、輸入された物を利用することと、先生の言われるように、考え方の根本部分を受け入れるというのは、随分違うことだと思います。

 蓮風 違いますかね。

 川口 人はどうしても母国語で考えてしまいます。我々の場合は、日本語で考えてしまうので、日本流の理解と言いますか、自分の生きてきた脈絡の中での理解になります。それを文化の受容というのかどうか、簡単に判断できることではないように思います。たとえば、キリスト教を自分で理解したつもりになることはあったとしても、その本質をヨーロッパの人達がキリスト教を理解しているのと同じように理解できるかって言ったら、そこのところは疑問です。

 蓮風 そうですね。だけど日本に西洋医学が入ってきてから、わずかの間でこれだけの勢力を持って、国から認められるところまで来ている。それを一つの異文化と捉えると日本人は結構器用に受け取っているんじゃないんですかね。ある意味では欧米の医療を越えるところまで来ていますよね。例えば万能細胞を発見して、それを移植手術に使ってみようと考えたり、次の新しい薬の開発に利用しようとしたりする。日本人は、そういう文化を受け止めて応用していくのがうまいですね。理解していないかもしれないし、猿真似かもしれない。そういうことを言うのは失礼かもしれませんが…。

 川口 たとえば、赤ちゃんが夜泣きします。疳(かん)の虫封じに、東北の山の中では、山伏さんのところへ行って、ご祈祷してもらうとか、お札を貰うだとかしています。あるいは赤ちゃんのヘソの緒を切ったら、下手くそやったらデベソになります。デベソを治すのに、お医者さんのところではなくてベテランの産婆さんのところへ行って対処してもらうのは、今でも行われています。それを医学というのかどうかは別としましてね。困ったことがあったら先祖返りして、伝統療法が脈々と生きているような気はします。しかし、伝統療法を利用する方も、血圧が急に高くなったとか、心臓発作で倒れた場合には、迷わず病院には行かれると思うんです。共生と言いますか、西洋医学も伝統療法も両方とも脈々と生きていて、生身の人間は、こういう場合にはこう、こういう場合にはこうと、使い分けをしているのかなという印象は受けます。
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 蓮風 そういう風に実際にはあるんじゃないかということですね。で、唐突なんですけど、先生にとって命、生命ってなんでしょうか?

 川口 ふだん考えた事がありません。考えなければいけない重要な問題ですが…。痛いところがない人は、健康や病気を意識しないと思います。自分もそうでした。ぎっくり腰で歩けなくなって初めて、改築前の近鉄学園前駅にエスカレーターもエレベーターも無いことに気付きました。障害のある方にとって、つらいことなのだと気付きました。生命についても、普段の生活では意識していませんが、阪神大震災の時にポートアイランドにおりましたので、緊張感がガッと高まって、ふだん考えない命の尊厳のことまで考えさせられました。生死の場に立ち会いますからね。

 蓮風 どこにおらはったって?

 川口 父が入院していたので、神戸のポートアイランドの病院の中におりました。

 蓮風 現場を見られたわけですね。

 川口 そういう時には、否が応でも感じます。

 蓮風 たくさんの人が亡くなりましたからな。

 川口 そういう時には、普段考えないことも考えてしまいます。

 蓮風 もう僕ら50年やっているんですよ、この仕事。そうするとね、まぁ軽い病気は軽い病気でやるんだけどね、重症も結構多くて、亡くなったって方も年間下手すると数十人になる場合もありますね。で、そういうことと常に繋がりながら診療をやっているわけで、なかなか人間が生きているというのは、ある意味で奇跡だなと思います。色んな点でね、本当は色んな力が支え合ってくれているんだけど、それを気づかないというのがほとんどですね。だから、そういう意味で昔から「賜る」ということを言いますね。貰ったもんやと。そういう感じはありますね。

 先日、初診で腎臓癌(がん)の方がいて、酸素吸入しながら電車で来たんです。舌とか脈とか診るとよくなることがわかったんで、それ以降、何回か治療して調子がよくなったんですよ。もう吸入器を外しても動けるようになっていた。ところがある日、可愛がっている自分の娘から、きつい事言われてそれがショックで一気に身体が弱ってしまった、電話で往診でもしようかと言ったら、「ぜひ来てくれ」と言われたので、行くつもりだったのに、その前に亡くなっちゃった。

 ちゃんとやれば助かるんだけど、その腕だけでどうにもならんこともあるんですよね。で、それはやっぱり運命というか、色んな大きな力で生かさして貰っているんだなってつくづく思いますね。だからそういう本当は助かるべき者が助からんっちゅうのは、人間の努力でどうにもならん部分がかなりある。で、そういうことに対して、生命というのはひとつの運命で繋がっているなという感覚を持っているわけです。だから大変な仕事でね、本当は。それを深刻に思っていくとね、ノイローゼになる位大変な仕事ですね。だけどもう、とにかく自分の存在を、鍼を持って少しでも苦痛を取ってあげる役目だと。人が助かる事をやろうということでね、自分の中で決着をつけるんですよ。だから後は、「人事を尽くして天命を待つ」という、もうこれしかないですね。そういう点で、生命と運命は繋がっているんだなという感じはしますね。<続く>

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日本での西洋医学の歴史について語る川口洋さん=奈良市・藤本漢祥院

 鍼(はり)の知恵を語る「蓮風の玉手箱」をお届けします。歴史地理学者の川口洋・帝塚山大学教授と、鍼灸師の藤本蓮風さんの対談の7回目です。前回は完成品としての身体の「歪み」を取るという鍼治療の“メカニズム”について蓮風さんがあらためて説明してくれました。今回は川口さんが研究者としての立場から日本で西洋医学が定着していく歴史に言及しています。新しいものが本当にいいのか、「進歩」に見えることに「退歩」の可能性がないのか…。時代の分岐点とも言われている現代を検証する参考にもなりそうなお話です。(「産経関西」編集担当)

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 川口 黒崎千晴先生(歴史地理学者、故人)の御研究によれば、漢方のトレーニングを受けた従来開業医と、明治政府が創った医学部や医学校を卒業した無試験免許医、あるいは自分で勉強して内務省の医師開業試験に合格した試験免許医といった西洋医学のトレーニングを受けたお医者さんとの割合が、半々になるのは明治の終わりです。

 蓮風 明治の終わりまでかかりますか?

 川口 20世紀に入った時にちょうど半々になります。長い歴史を考えると、今はお医者さんと言えば国家試験に通って…。

 蓮風 ドクターですけどね。

 川口 ドクターになるわけですが、それが医者の過半数に達したのはわずか100年前の話です。長い歴史のごく一時期の現象にすぎません。医学教育がスタートした幕末維新期から、西洋医学はすごい実力を持っているのではないか、という幻想があったのではないでしょうか。しかし、明治維新から医制が確立する明治10年代まで、日本に伝わった西洋医学と東洋医学を比べて、どちらに実力があったか判定するのは簡単ではないと思います。

 蓮風 いや、あれは記録が残っているんですよ。実は「脚気相撲」※といいましてね、ご存じですか?

脚気相撲:1878(明治11)年、政府が脚気病院を開設して、漢方医学と西洋医学に、当時難病の一つであった脚気に対して治療成績を競わせた。当時の人たちは、これを「漢洋脚気相撲」とはやしたてた。漢方医は、適切な食事指導をとりいれて、巧みに脚気を治した。明治天皇も西洋医の処方を拒み、麦飯で脚気を克服した。脚気の治療では、当時は西洋医よりも漢方医の方が優れていた。

 川口 はい。

 蓮風 まぁ、西洋医と漢方医が、公式に競い合って、漢方医学が実際は勝っているわけですね、結果的には。だけど一般の医者を全部集めてやったわけじゃないんで。だからサンプルを作ったということでしょうね。

 川口 オランダ、ドイツからやってきた医学の外科治療は、漢方より優れていたと思います。一方、感染症の要因がはっきりするのは1880年代以降です。コレラ菌の発見ですとか、ペスト菌の発見ですとか、結核菌の発見とか、1880年以降、コッホとパスツールを中心にドイツとフランスで細菌学の華が開いたわけです。1870年代に明治政府が、医制、つまり医学行政の方針を決める時に、西洋医学が優れていると判断する根拠があったのか、もう一度考えてみる必要がありそうです。

 蓮風 そうですね。

 川口 江戸時代の終わり頃になると、漢方医であれ蘭方医であれ、熱心なお医者さんは、自分が読める漢訳の医学書を読むわけです。漢訳というのは、漢文に翻訳された西欧の医学書です。
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 蓮風 あれって先生どうなんですかね? 向こうから直接日本語訳したものより、漢訳の方が多かったですか?

 川口 江戸時代は漢訳の方が多いのではないでしょうか。中国へは西欧から人も書物もたくさん来ましたから。

 蓮風 交易やなんやもありますからね。

 川口 ヨーロッパの最新医学書が漢訳されるんです。その漢訳医学書で…。

 蓮風 日本人が勉強したと。

 川口 はい。漢方医のなかにも、漢訳の西洋医学書を勉強していた臨床家が少なくなかったと思います。そうでなければあのように劇的に明治前半で変化しないと思います。勉強家が多かったという気がします。今のように、お医者さんと言えば、医学部を卒業して西洋医学のトレーニングを積んだ方々だということになったのは、それほど長い歴史があるわけではないのです。自分が国外で見る限りでは、漢方だけではなくて、代替医学と訳される地元の伝統療法、ヨーロッパで言えばハーブを使って身体の不調を改善させるような、その地域その地域で身体の不調を整える方法は、伝統的に持っているわけです。そういったものが見直されてきたのかなという印象は持っています。

 蓮風 「自然と人間は一体」という僕の考え方。これが、現代のエコロジーというか…、自然環境を大切にせなあかん(そうしないと)結果として人間の身体に影響するんだという発想が今やっと出てきたんじゃないかなぁという気がするんですね。

 「生気論」と「機械論」の問題も実は古くからあったんだけども、なかなか医学の中で徹底できなくて漢方医学を本当に忠実にやると当然そんなことになるんです。そうでない文化に対しては違和感を持つ人が多いわけですよね。一般にはなかなか分かってもらえないですね。どっちかというとちょっと怪しげな雰囲気を持っているという印象をもたれるわけです。でも生命を本当の意味で説明するにはこっちの考え方でないと説明できないことが多い。特に先生のように不定愁訴を持っておられる方(笑)、西洋医学がなんぼ頑張ったかといって私の身体を何にもわかってないじゃないかという論に繋がってくるわけですね。そういう考え方が今後の科学とか、哲学に影響するかどうか知らんけど、そういうものによって影響した場合、文化が大きく変わるような気がするんですけどね。

 川口 そうかもしれないですね。我々は、分析的な考え方のトレーニングを生まれた時から受けています。戦後教育は、日本の伝統的なトレーニング方法というよりも、アメリカのトレーニング方法に大きく影響されて、幼稚園からずっと機械論的にトレーニングされています。そのため、『素問』や『黄帝内経』を訓読することは不可能ではないにしても、教育の土台が東洋風になっていないので、何が書かれているのか、考え方の基本を理解するのが難しくて意味が分かりにくいのではないでしょうか。

 蓮風 それはありますよね。<続く>

 


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