蓮風の玉手箱

このサイトは、2011年8月7日~2015年8月29日までの間、産経関西web上において連載された「蓮風の玉手箱」を復刻したものです。鍼灸師・藤本蓮風と、藤本漢祥院の患者さんでもある学識者や医師との対談の中で、東洋医学、健康、体や心にまつわる様々な話題や問題提起が繰り広げられています。カテゴリー欄をクリックすると1から順に読むことができます。 (※現在すべての対談を公開しておりませんが随時不定期にて更新させていただます・製作担当)


医学ランキング

飛行8-1

藤本蓮風さん=奈良市の藤本漢祥院

 鍼(はり)の知恵を語る「蓮風の玉手箱」をお届けします。児童文学作家、ひこ・田中さんと鍼灸師の藤本蓮風さんの対談の8回目です。児童文学と東洋医学…。何のつながりもないような、この2つが実は相性がいいというか、密接な関係があるというか…。これまでの流れの中で、おふたりのお話に違和感を覚えた方はいらっしゃいますか? たぶんいらっしゃらないでしょう。それがどのような意味を持つのか。さまざまな見方ができると思います。一度、子供のころの気持ちに戻って現代の医療について考えてみられてはいかがでしょうか。(「産経関西」編集担当)

ひこ8-2
ひこ8-3
ひこ8-4

 蓮風 心・身体・魂は一体であり、切り離すことは出来ないものと考えます。先生の作品においては心・身体・魂の連続性というものを意識されますでしょうか?

 田中 はい、これはもう、人間を描く限り前提として、意識しないと書けませんから、もちろん意識はするんです。けれども、ただ、たとえば現代を舞台にして子供を主人公にした物語を書く場合、戦後すぐにいたような子供を描いても意味がないので、今の子供を書くということになります。だから、そうした場合、魂はとりあえず置くとしても、心と身体を考えると、両者の意識が切り離されている気はするのです。

 蓮風 そうです、そうです、そうそう。

 田中 ですから、そうした子供を描くことになりますね。どうしてそうなっているか、それはどういう状況なのか、そういう風になったらどういう風に生きていけばいいのかを子供に伝えようとするわけです。

 蓮風 それは食べ物とね、その人の生活環境との問題で取り上げても面白いんじゃないですか? ずぅっと肉食ばかりとか、しつこいもん食べとった者が急に、菜食中心に変えたら、しばらくしてなんか身体の状態も変わったけど、気持ち自体も変わったんだちゅうような、話の展開になりませんか?

 田中 なるでしょうね。うん。

 蓮風 ねぇ!ちょっと面白いと思いますよ。

 田中 ものすごくシンプルに言いますと、ここにも若いお弟子さんがいらっしゃいますけども、藤本先生の時代の子供時代と、私の子供時代と、彼らの子供時代ではおそらく、ぼぉーっと過ごす時間の量が格段に減ってると思うんですよね。

 蓮風 ああ!ぼぉーっと過ごす、そりゃその通りですね。

 田中 結局、今の子だったらほとんど休む時間は、寝る時以外ないです。特に都会の子供というのは。

 蓮風 携帯とかゲームとかにも夢中ですしね。

 田中 そう、塾の合間に携帯していますから。この前も、あるお父さんと小学3年生の子供の話をしていたら、「僕よりも息子の方が、忙しいですよ」と言ってましたね(笑)。

 蓮風 なるほどね(笑)。

 田中 「私が仕事から帰宅したときに、息子がいたことがない。まだ、塾から帰っていない」って。そういう風にして、一人でぼんやりする時間がないために、考える時間がないのです。そのために、自分がどんな人間か、自分は誰かが、ますますわからなくなっていく。

 蓮風 あー、そうか。

 田中 自分の欠点を見つめる時間も、いいところを見つける時間も少ない。だから、とりあえず周りの反応を気にするしかない。

 蓮風 そうそう、とりあえずそう、とりあえず、本当そうだよ。

 田中 そしてその反応をよくするために友達を増やしたいという形になっているので、それはすごくしんどい生き方だなと思うんですよ。自分が今、その立場の10歳の子供だったら、とても生きて行かれへんのちゃうかなと思います。

 蓮風 あー、それはありますね。私は特に子供の頃ね、ぼぉーとした男やったからね、「なんかぼぉーっとして、何を考えてるのか考えてないか、わからんような子やった」とよく言われるんですよね。今の子そういうのないですな。

 田中 なかなか、いないですねぇ。

 蓮風 ねぇ。もうしょっちゅうゲームやるか、携帯やって、パソコンでしょ? それがもう、休憩なんですね、彼らにとって。だけど、本当の意味で心の休憩になってない。

 田中 なってないんですけども、本当にもう、スケジュールがびっちり詰まって5分しか空いてない、10分しか空いてない時って、ゲームするのが一番気晴らしにはなるんですよ。
ひこ8-5

ひこ8-6

 蓮風 先生やってるんですか?

 田中 もちろんやらないと子供の時間がわかりませんから、やってますよ(笑)。

 蓮風 ああ、そうですか、仕事やからね(笑)。実際は休憩かも(笑)。

 田中 かもしれませんね(笑)。その場合「そういう生き方あかんでー」と、「そんな酒ばっかり飲んだらあかんでー」と大人にいうみたいに注意しても仕方がないのです。その子だけタヒチの孤島に行けるなら別ですけれど、それは無理で、子供たちはこんな時代のこんな状況の中で生きていくしかない。ですから、その状態そのものはまず肯定してあげたとこから、物語は紡がないとしょうがないなぁと、思うんです。

 蓮風 なるほど、なるほど。うん。

 田中 それは悪いことじゃないよ、そうして君はなんとか生き抜いてきてるわけだからって。彼らのサバイバルだと思ってますもん、私。

 蓮風 いまこんだけやったら、数時間休憩せないかんといった場合に、その休憩というものの本質ですね。「7時間寝たら大体いい」とか何とか言うけれども、時間の問題ではなく、質の問題なんですよ。

 田中 でしょうね。

 蓮風 はい。だから、その質を上げるにはどうしたらいいか。僕なんかね、この間、北辰会の定例会の時に、別室で打鍼の実技を1日中ずーっとビデオ撮りして、本会場の講義が終わるまで椅子に座ったままですよ、40分寝てんねん。一種の坐禅のやり方なんですけど、呼吸を整えて、フッーともうほとんど意識のないとこまでいきます。そうするとね、一気に疲れがとれる。そういう術を教えないけませんな、子供たちに。

 田中 ああ、それはいいですね。ぜひ子供たちに伝えてあげてください。

 蓮風 うん。短時間でもいいけど、本当に心から「ハァー、休憩したな」と…。

 田中 40分ってちょうど授業時間(笑)。

 蓮風 もうもう、いらん。授業聞かんでもええねん(笑)。

 田中 確かに。1回ぐらい授業聞かなくても困りません(笑)。

 蓮風 そうそう、命を守るために、自分を守るためにね、そのホーっと休憩する時間をね、作らないかんですな。それを、先ほどの話で、時間じゃないですよ、質の問題ですわ。だから私は(患者が)何時間寝た、どうこう言うけど、あんま信じてない。私もね、寝てるようで起きてるようで、起きてるようで寝てる。(患者から)「眠れんで困る」と訴えられたら「寝れんかったら色々本読んで勉強できないんか」と言ってあげます。「そんなことしたら眠くなります」「だから寝たらいいねん(笑)」。結局、天の邪鬼なんですよね、人間ちゅうのは…。

 田中 特に藤本先生は天の邪鬼ですよ(笑)。

 蓮風 そうですかねぇ、私は、まぁ素直な人間やと思うんですけどねぇ(笑)。<続く>

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


医学ランキング

ひこ7-1

藤本蓮風さん(写真左)と、ひこ・田中さん。今回は身体に「おいしい」話です=藤本漢祥院(奈良市学園北)

 鍼(はり)の知恵を探る「蓮風の玉手箱」をお届けします。児童文学作家、ひこ・田中さんと、鍼灸師の藤本蓮風さんの対談の7回目。農耕民族と狩猟民族のどちらが自然を破壊してきたか…という話題の続きです。田中さんは前回、農耕民族のほうが自然を壊してきたと推論しながらも、それだからこそ「里山」のように自然を人間向きに改良してきたし、狩猟民族の在り方を西洋型の自然征服志向と一緒にして「不自然」だと断じるべきではない…という趣旨のお話をされました。今回はその続きです。(「産経関西」編集担当)

ひこ7-2
ひこ7-3
ひこ7-4

 蓮風 2500年前(の中国)に老子という哲学者がおって、農耕民族に非常に密着した人なんですよ。その人が何を言ったかいうと…。「お前たち、田畑を耕すのに道具を使っちゃならん。道具を使うと、便利がいい。便利がいいから、その上また便利のいいもの作ろうとする。そのことは結局、本当の人間の幸せにつながらん」と説くんですね。だから、農耕は農耕なんだけど、自分が生かしていただいているという謙虚な気持ちがあれば、人間が生きるんだから、やはり多少は自然を侵したんかもしらん。しかし、広く考えた場合、謙虚な気持ちのもとにやって、しかも道具を使ってどんどん伐り開くのではない、ということであれば、農耕民族のほうが自然を大事にしてると、いうふうに思うんですよ。

 田中 老子はおもろいですよね。

 蓮風 ええ、「ラオズー」(老子の中国語読み)は、私ね中国語で読んでね。

 田中 私は翻訳ですけど。

 蓮風 老子の場合は「道」の思想、タオ(「道」の中国語読み)。

 田中 そうですね、タオ。

 蓮風 タオというのは一本筋の通ったという意味ですね。それの理論があるから「道理」と言うんですよね。普遍なるものをずーっと見続けていく、哲学者の一人が老子ですね。

 田中 老子に限りませんけども、老子を考えても、人間って、別に新しい人間やから偉いとかいうことは全然ない、という気がしますね。

 蓮風 ないないない!

 田中 時代を超えて使える考え方がある。

 蓮風 むしろ老子は「昔の人は立派やった。今の人間は堕落してしまった。だから昔へ帰れ」と言っている。一種の尚古(しょうこ)主義ですな。私は必ずしも尚古主義がいいとは思わんけども、しかし、人間が元々生きとった世界、子供のような本来のものを持てば、随分、文化も変わるし、生活も変わるように思うんですよ。節電の話が出たけど、元々みんな、ロウソクで暮らしとったんや。うん。確かに電気は便利だけど、便利がいいからってさらに便利を求める。それはやっぱり人間の欲望ですな。

 田中 そうですね。
ひこ7-5

ひこ7-6

 蓮風 はい。欲望にほかならない。だから欲望に突き進んでいくことが人を幸せにするかっていうと、必ずしもそうじゃない。むしろ不幸せにする。なぜね、農耕民族と狩猟民族の話をしたかいうと、農耕民族はね、まぁ言ったら、菜食人間…?

 田中 菜食主義者?

 蓮風 あぁ…。それから「肉食…人間」って、まぁ若い子言っとるけど。

 田中 ああ、草食系、肉食系。

 蓮風 あくまでもね、血を見る世界ですよ。で、私なんかほとんどベジタリアンやから、たまに肉を食うたらカッカッカッカして身体熱くなって仕方ない。

 田中 魚も食べられないんですか?

 蓮風 魚は食べます。やっぱり海洋民族ですし…。私が生まれ育ったのは島根県の出雲で、日本海の美味しい魚が獲れるところですから。

 田中 じゃ、ほぼ私と同じ。

 蓮風 やっぱりね、野菜を食べると気持ちも穏やかになります。これは本当なんです。極端に言うと食べ物によって性格まで変わってきますね。肉食だと、どうしてもね、猛々しい気持ちになりますね。今の若い子でほら、統合失調が多いでしょう。あれもね、実際よく調べたらほとんど肉食ですわ。野菜食べとらん。(弟子に向かって)この間(実際に症例を)たくさん見たな?

 だから結局、食べ物がその人の身体を作り、そして、すべてじゃないけどその人の精神をも育んでいく。これは東洋的な考え方です、東洋医学の。

 田中 あれは、不思議ですね。なんで段々みんな野菜食べんようになったんでしょうね?

 蓮風 やっぱり西洋に災いされたからですね。元々、日本人ちゅうのは、まぁ食べとったよ、ある程度は、肉を食べとったし、猪(イノシシ)を獲って食べることもあったけど、今ほど食べてませんがな。あれは西洋の肉食文化がダーっと入ってきて、病気も高血圧だとか、癌(がん)とかなんか、増えてんのも、肉食生活文化がね、はびこりすぎているのが原因じゃないですかね。
ひこ7-7

 田中 身体は割と正直で、玄米はタンパクが多く含まれているからでしょうか、30年位前から無農薬の玄米に切り替えた途端に、肉類を欲さなくなりました。

 蓮風 そう、そうでしょう。

 田中 驚きました。

 蓮風 陰陽の関係なんですよ。だから、少なくとも、今お気づきになったように食べ物で、生活の感覚が変わったでしょう。

 田中 面白いなぁと思いました。身体が要求しないのですもの。あれから自分の身体が愛おしくなりました。

 蓮風 だから、東洋医学では、そのことを陰陽でもって説明してる。こういう食べ物に偏っちゃいかん、こういう物を逆にもっと食べないといかんと。結局、農耕民族は植物を中心に食べます、で、少し海のものを食べます。たまに動物を食べていいんですよ。食べていいんだけど、ほんのちょっとで済むわけです。すき焼きなんかが流行りだしたのが明治の時代ですね。

 田中 そうですね。

 蓮風 はい、それまではまぁ、狐(キツネ)や狸(タヌキ)を獲って食べたこともあるだろうけど、それはほんのわずかで…。

 田中 ああ、あと兎(ウサギ)かな。

 蓮風 はい。それから鹿(シカ)。私の弟子に鉄砲撃ちがおって鹿肉で上手にシチューを作りますねん。一回食べに来てください。めっちゃ美味しいですよ。

 田中 鹿、美味しいですね(笑)。ぜひ今度ごちそうをしてください。

 蓮風 はっはっは。それはほんまに年に一回食べるかどうかなんですよ。それもね、ほとんど調味料入れないんですよ。塩と胡椒(コショウ)だけ。あとはお野菜で甘味、酸味、辛味、みんな出すんですよ。

 田中 『故郷』の歌詞に「兎追いし」というのあるでしょう?あれは(遊びで)兎を追ってるんじゃなくて、ホンマに兎狩りの歌なんですよ。

 蓮風 あ、そういう意味なんですか?

 田中 そうです。京都とかだとね、50年くらい前まではまだ、小学校のイベントで兎狩りに山へ入ったりしてたんですよ。

 蓮風 兎と一緒に遊んどったいうイメージやけど、実際は兎狩りを…。

 田中 追ってるんです(笑)。

 蓮風 ハハハ。食べとったかもしれんな。でもそれはほんのわずかなんで、ねぇ。<続く>

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ひこ6-1

談笑する藤本蓮風さん(写真左)と、ひこ・田中さん=藤本漢祥院(奈良市学園北)

 2013(平成25)年、第1回目の「蓮風の玉手箱」をお届けします。児童文学作家のひこ・田中さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談の続きです。疲れたときに「物語」という逃げ場がなくなると、生きることがしんどくなる、という前回の田中さんの言葉を受けた蓮風さんの言葉から始まります。では今年もよろしくお願いします。(「産経関西」編集担当)

ひこ6-2
ひこ6-3
ひこ6-4


 蓮風
 ひこ・田中先生の本質を表してるような感じで…(笑)。逃げ込む場所というのは、一つのポケットとしてあっていいんだけど、多くは、しんどいというのはやっぱり、心というより身体がいたんでる。身体の歪みがあると、心でなんぼ正そうとしてもしんどい。その場合に一つのポケットとして、物語に逃げ込むのはいいということは私は納得できる。その根本には身体ですよ。身体が弱いと、どうしても精神的に弱くなる。

 だから、身体を丈夫にする。それから、丈夫にするためにどうしたらいいか、という養生法を説きます。食べ物は、こうあるべきだ、運動はこうあるべきだって…。どうしても性格の問題もあるんでしょうけどね。一方、やはり物語の場合は、必ず帰ってこないかんわけで(笑)。それが自由にできればいいんだけれど、できなければやっぱりこの変な方向にまた行きますよね。ちょうど脱法ドラッグで現実にないことが自分に起こってきてるような状況なわけですから、だから逃げっていうのは所詮は逃げなんであって、私は医学として完璧にその人の「心・身体・魂のバランスをとる、そして、そのバランスをとる場合の基本はやっぱり身体にある」という考え方ですね。うん。

 田中 それはそうだと思いますね。物語は、書物という形なり、テレビドラマなりアニメなり、いろんなもので提供されていますけれど、そこにある機能というものは当然、限定的なものなんですよね。いま藤本先生がおっしゃったようなことというのは、もっと広がりのある世界すべての話ですから、当然、おっしゃるとおりだと思うんですよね。

 身体から自然までを視野に入れて考えた場合なんですが、今「節電節電」と言われるように、私たちは、電気という汎用性のあるエネルギーに身を任せすぎてしまっています。それは、個人電力消費の話と言うよりも、産業が電力を使って作る製品の話であり、その商品を買うことが個々人の幸せだとコマーシャルやドラマなどで欲望をあおり立ててきた資本構造の話でもあります。

 先ほどの近代とつなげてみますと、近代的な考え方は個が大事だからということで、人より優位に立つためや、他人に自分の存在を認めてもらうために、いい車、いいスマートフォン、いい家と買っていく、買い換えていくシステムを導いてきたのです。実際それで、近代資本主義社会は発展してきたわけですけども、その方向いうのは、どういう方向だったかというと、脱自然なんですよね。自然からいかに逃げていくか、もしくは抜けていくか、もしくは勝っていくか。

 蓮風 はいはいはい、征服していくしかないですな。
ひこ6-5

ひこ6-6

 田中 征服していく、という形の進化の仕方をしてきたわけですよね。そのある種の果てを私たちは、日本人は現在見ている。じゃあソローのように自然に返れと言われても、これはできない。児童文学の世界でも、子供たちはもっと自然の中で遊ばせなければいけないとか、子供を自然に戻そうとかいう人がいました。でも、今の日本で平地の緑のあるところに子供全部を返そうとしたって無理です。脱自然で来てしまったこと自体は、痛みと反省を以て受け止めて行くしかないとは思いますが、だからといって自然に返ろうなんていうのは極端な話です。

 蓮風 だからね、そこに自然に対する、ネイチャーに対する考え方がどうあるか。西洋の場合は人と自然をね、やっぱり対立的に見てますよ。だから東洋医学は自然の中から生まれて、相対的に独立したものを自然と共に、自然に生きるという、ひとつの考え方があるわけです。我々日本人は元々農耕民族ですから、もう自然の中におるのが当たり前なんであって、それから、はずれること自体おかしい。西洋の場合はもう完璧に対立、見るものと見られる側とがはっきり分かれてるでしょう。そこから自然に対する考え方が違うと思うんです。西洋的な意味で、自然と対立したものが自然に戻るいうのはもう無理だということになる。そこにも思想の回帰が東洋にあるように僕はむしろ思うんですよ。「気一元」という考え方自体がね。

 だから本当の意味でこの、医学として存在する東洋医学は基本的には正しいと思うんですよ。私の弟子には、西洋医学のお医者さんもようけおりますけどね。基本はね、やっぱ東洋医学的に考えないとと思うんです。そりゃ、事故でけがをしたとか、折った切れたいうのは、そりゃつなぐしかないんですけどね。だけど一般の雑病というか、田中先生が言うようにこう、「しんどい」というような病気が多いわけですよ、いま。それを癒やす思想はやっぱり東洋思想だし、それを本当に身体の方から癒やすのは東洋医学だというふうに私は思うんですよ。もちろん選ぶのは勝手ですから(笑)。そこにね、東洋医学の落ち着く場所があるんじゃないですかねぇ。

 児童文学も一つの物語で、癒やしながら助けてはくれるんだけども、東洋医学の場合はそのもう一つ人間としての根本的な問題をね、やってる。それを、まぁ極端に言えばまた、児童文学の世界はそれを活かされへんかいなというのが今日の提言。山彦海彦の話がありますよね。あれなんか中々良く出来てますよ。入れ替わったらどないなるか、全然だめやったと…(笑)。で、元に戻したらうまく生活できる。これが自然なんですよ。持ち場持ち場があるという教えを、たぶん持ってきてると思うんだけど、そういうことの中にネイチャー、自然があるんであって、単に山河だけを自然とするんじゃなく、本来の人間の気持ちの上での自然というようなものを考えるべきなんです。里山という発想ありますね。人間が開発したんだけど、自然との調和を図ってる。こういう発想もできるわけなんです。元々東洋医学はね、そういう意味で知られて欲しいから、この「蓮風の玉手箱」も開いてると、いう趣旨なんですよね。

 田中 里山の発想はいいと思いますね。里山は、またブームになっていまして今、里山関係の本がたくさん読まれています。今のお話に関して少し述べますと、農耕民族だからというのは若干違うとは思うのです。例えば、狩猟民族と農耕民族を比べてみた時、どちらがより自然を破壊したかといえば、森林を壊し、そして耕し、人間が食べるための穀物を作っていくという意味では圧倒的に農耕民族なんですよね。

 蓮風 まぁ、そうとも言いますね。

 田中 狩猟民族は自然を守ります。なぜならそれが破壊されると、狩りの対象である野生動物が絶滅するからです。

 蓮風 だけども、もとなるその自然とのバランスを常に考えながらやってますよ。焼き畑耕作にしても、単に焼いて灰にして肥やしを作るっちゅうことやなしに、順番を考えてます。今年はこっち、来年はあっち、で結局順番が回ったらまた元に戻るという。だから決してね、あの西洋がやったような自然を征服するという方向でのやり方でなしに、やっぱり大いなる大自然の下に私たちはやむなく生かしていただいてる、そして、あらゆる生き物を犠牲にしているという反省の下に生きてると思うんですよ。

 田中 おっしゃる通りだと思います。自然破壊をしてきたから、自然とのバランスを図ろうとし始めたのです。ですから、農耕が自然で、西洋が…という分け方じゃなくて、農耕民族いうのはそういう風にして、自然をどんどん人間向きに、改良していきましたから、だから自然とのやりくりの付け方はよく知っているというふうな言い方をしたほうが、私は誤解がないと思うんですね。それこそ里山なんかそうですね。<続く>

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ひこ4-7

「物語への逃避」の有効性を強調する、ひこ・田中さん

 今年最後の「蓮風の玉手箱」をお届けします。児童文学作家、ひこ・田中さんと、鍼灸師で「北辰会」代表の藤本蓮風さんとの対談の第5回目です。今回は児童文学の“効用”についてのお話が展開されます。2012年もさまざまなことがありました。課題が山積する時代のなかで、年末になって疲れが出てきた方もおいでなのでは? 「癒やされたいなぁ」と思っている大人は必読の対話かもしれません。(「産経関西」編集担当)

ひこ5-2
ひこ5-3
ひこ5-4

 田中 大人の本は小学校1年生の子にはわからないが、子供の本は50歳の大人でもわかるんですよ。ですからさっきの絆じゃないですけども、異年齢の人たちが本というか物語を通じて、たとえば心の繋がりを求めようとしたときに児童文学というのは非常にいい媒介になるんですね。ですから、ここ10年15年大人が急速に児童文学を読み始めた理由というのは色んなことで疲れている中で最初は多分癒やしを探し始めたと思いますが、読んでみるとそういう甘い癒やしよりむしろ、同じ世界に生きていることを実感されているのではと感じています。

 先に「大人の本と子供の本が扱う素材はほとんど同じようになってきた」と申し上げましたが、色々悩んでいる大人たちが読むと力になる。悩んでいるっていうのは、これは藤本先生が専門なのですけども、自分の中でごちゃごちゃになって訳が分からなくなっているんですよね。なんとなくモヤモヤとどうしていいかわからないと思っている人というのは、訳が分からなくなって自分でそれを制御したり整備したりする力も気力もなくなっているかもしれないです。そうした場合、子供の本は子供達も理解できる非常にシンプルな言葉とシンプルな構造でその問題が書いてある訳ですよ。そうするとこんな所でこんがらがらなくてもいいじゃないかと。

 蓮風 スッキリしているから。

 田中 ええ。大人って、シンプルであったり単純であったりすることを言うのが恥ずかしいという悪い癖があるんですよね。大人だからもっと複雑に考えないといけないとかね。ところがほとんどの多くのことはこれも藤本先生が専門だと思いますが非常にシンプルなんですよ。そこで子供の本を読むとスっと抜けて見晴らしが良くなる経験を沢山の大人がし始めているんですよね。もちろん子供の本は子供のための本であって大人は盗み見しているだけです。この前私が藤本先生の講義=2012年6月、森ノ宮医療大学(鍼灸学科)特別講義=を聴講させていただいたみたいに。でも、私は聴かせていただきながら、自分が知らなかった世界や見方を得ることができました。だからもっと大人の方も子どもの本を読む機会をお作りになった方がいいと私は思います。

 蓮風 私の素人考えでは今の話と関係すると思うんですけども、仏教の中でも仏教童話っていうものが膨大にありますね。

 田中 ありますね。

 蓮風 あれは児童文学と呼んでいいんですか?

 田中 児童文学として書かれているものはたくさんあります。

ひこ5-5

 蓮風 そうですよね、仏教童話と言うんですよね。私が読んで一番感動したのは鬼子母神(きしもじん)の話。訶梨帝母(かりていも)ともいう。これはお釈迦さんの時代に凄い女がおって、それも子供を沢山持っている。ところがその鬼子母神は他所の子をさらっては食べてしまう。世の中を大いに騒がしていた。その時、お釈迦さんが直接説法するんではなくて、ある日彼女の何十人といる子供を一人隠してしまった。鬼子母神も夢中になって探す。最後にお釈迦さんが隠匿していることに気づいて、そして…。

 鬼子母神:「お釈迦さん、何であなたのような人を救う人がこんな事をするんですか?」
 釈迦:「そうか、これは悪い事か。」
 鬼子母神:「私にとっては悪い」
 釈迦:「そうだな、あなたにとっては悪い。だけどね、あなたあれだけ沢山子供がいるんだから一人くらい居なくてもいいじゃないか?」
 鬼子母神:「それはいかん!何十人おっても全部私の子供だ。」
 釈迦:「そうか、そこまでわかるか」
 鬼子母神:「わかります」
 釈迦:「じゃぁ、他所の家庭はそんなにお前みたいに子供を沢山産まないけども一人取られるとどれだけ悲しい思いをしているか、少しはわかるか?」

 そこで鬼子母神(訶梨帝母)は悟った。

 鬼子母神:「私はあらゆる子供たちの守り神なんだ」

 だから鬼の子の母の神(鬼子母神)、訶梨帝母になりますと言って成仏したといった話がね、非常に簡潔にまとめられているわけですけども。やっぱり児童文学に通じるものですよね?

 田中 そうですね。

 蓮風 非常にわかりやすく、とにかく自分がされて嫌なことは相手も嫌なんだと。だからそれには気をつけようという多分そういう教えを言っているんだと思うんだけれども。子供の頃に沢山読まされましてね。地獄極楽の絵が一番怖かった。わかりやすく言うっていうのは大事ですね。おっしゃたように大人だからって複雑なことがいいかっていうとそうではなくて意外と真実は単純な事なんであって。そういうことが児童文学でどんどん示されていって迷う人々を救うとするならばこれはやっぱり凄い事ですよね。むしろ大人の方がしっかり読んで子供に学ばなければいけないということですね。
ひこ5-6

 田中 児童文学作家たちが常に子供の側に立って書く姿勢を失わないことなんですよね。たとえば親とか、教育の側に立ってしまうとかになってしまうとそれはまずいので、あくまでも子供の側から物事を考えて語っていく。結構しんどいんですけどね(笑)。

 蓮風 フィクションというかファンタジックな世界。これは児童文学ではどのように位置づけるんですか?

 田中 ファンタジーですか?

 蓮風 ファンタジーやフィクション。

 田中 私は「人間は物語なしでは生きていけない」と思うのですね。だから絶対物語は手放さないでほしい。フィクションを自分の側に携えておいてほしい。なぜ、そう思うかと言うと、『お引越し』でもかなり現実的なことを現実に近い形で書いていますけども、そう書かれていても物語は嘘なんですよ。

 蓮風 本来は…。

 田中 はい、本来は。嘘である物語を携えるというのは、私達が今生きている世界と別の世界を横に常に置いておくということです。そうすると、しんどかった時はそこに逃げればいいんですよ。よく疲れたからといって逃げたりするのは卑怯だという人がいます。そういう人に限って単に元気なだけな気がしますけども(笑)。私はしんどいときは逃避していいと思うんですね。逃避して元気になったらまた帰ってきて「やぁっ」って言えばいいし、それを受け入れるような社会のシステムがあれば一番いい。

 蓮風 なるほど。

 田中 旅に出てしまうとかいうのは大変なことですけれども、日ごろ疲れた時に、今、当面抱えている問題から逃れたい時とかに、物語の中へ逃げ込むというのは非常に有効な作業だと思うんですよね。でも、物語というのはなんぼそこで遊んでいても、ほんでほっこりしてても残念ながら終わっちゃうんですよね(笑)。

 藤本 そうですね。

 田中 必ず戻って来れますから、読んでいる間はゆっくりとそこで休んで、好きな物語の中でどんな夢でも見て、リラックスして、そして戻ってくる。そうして物語を持っていないと、逃げる場所がなくなるから非常にしんどいと思うんですよね、生きることが。<続く>

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ひこ4-1
ひこ・田中さん(写真右)と藤本蓮風さん=藤本漢祥院(奈良市学園北)


 「鍼(はり)」の知恵を語る「蓮風の玉手箱」も始まってから2回目の年の瀬を迎えています。児童文学作家、ひこ・田中さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんとの対談の4回目をお届けします。今回は児童文学執筆の“舞台裏”も明らかになります。前回に続いて東洋医学の根本原理といわれる「気一元」が主要なテーマです。年の瀬の慌ただしさもピークを迎えるころですが、この対談を読んでご自分の身体のことも考えてくださいね。(「産経関西」編集担当)

ひこ4-2
ひこ4-3
ひこ4-4

 蓮風 児童文学を通じて大人が、どうすれば心の安らぎを得られるか、そういう考えは児童文学にはあるんですか? というのはね、『お引越し』でもわかるように女の子の話ですね、子供の目線でずっといくわけです。そういうことをできること自体凄いなと私は思うんです。これはどういうワケなんでしょうかね?

 田中 どういうワケといいますと?

 蓮風 子供の視線で常にいけるということは子供の視線を持っておられるということだと思うのですが…。

 田中 実際は嘘なんですよ。子供心があるとしても自分が知っている子供、つまり自分の子供時代しか知らないんです。それは普遍的な子供ではありませんし、現代の子供でもありません。それを子供の本を書く人間はよく分かっています。分かっているから、日ごろから、子供だったらどう考えるんだろうか、どう感じるのだろうか、現代の子供の考え方感じ方は自分が子供だったときとどう違うのだろうかといった思考を重ねていて、物語を作るときにそのファクターを入れるんです。だから大人の文学よりひと手間多いんですよね。

 わかりやすい例で言いますと、藤本先生にお渡しした私の『レッツ』という幼年向けの3作ありますが、まずどういう作業したかというと、たとえば、2作目の『レッツのふみだい』は4歳児のレッツくんが、自分の背の高さで何が見えるかとかを調べていく物語なのですが、書く前に彼の背の高さまでしゃがんで、何度も何度も部屋の中を歩き回りました。外へ出ても、公園などでしゃがんでみる。そうすると、大人の目の高さでは気づかないことがたくさん分かってくる。空が思いの外広く見えるとか、机の裏がよく見えるといった風に。普通の大人は、馬鹿馬鹿しいし意味がないし、腰が痛くなるので、そんなことはやりませんけれど(笑)。そうして得た新しい発見を、今度は4歳児の言葉や思考方法にトレースしていきます。こんなことを言うと物語の神秘性が失われますかね(笑)。

 蓮風 面白いことを思い出したけども、古い患者がおるんですよ。もうおっさんになっておりますがね、何十年かぶりに会うと先生小さくなったと言うんですよ。あの時確か凄い大きな先生だったのに小さくなったと言うんですよ。今の目線の問題ですよね。目線の問題というのは直接目で見る目線という意味でも重要ですね。

 田中 直接、見る目線だし、心の目線でもあるのですが、子供心を持っていると自分で思ってしまうのではなく、まずそこから始めて、子供心が見えるかどうかの可能性にかけてみます。他にも自分が小学校時代、中学校時代に過ごした場所へ時々出かけます。風景が、全く変わってしまったところは仕方がないにしろ、神社や寺など、子供時代に遊んだ場所はわずかでも残っています。なぜ出かけるかと言えば、自分が変わったことを確認するためです。

 蓮風 変わって見えますね。

 田中 それを知っていれば、たとえば子供と接する時でも子供側の目線とか考え方に少しでも配慮した接し方を私はできると思うんですよ。177センチの視線だけで考えて上から見ていてもダメで、やはり60センチの時があったというのを常に忘れないようにするということが凄く大事で。

 蓮風 それは言い方を変えると本来の人間の純真な部分の世界に戻ることに繋がりますか? また別ですか?

 田中 子供の心が純真だというのも近代から生まれてきた考えの大きな一つで、だから藤本先生も近代の人なんですね(笑)。

ひこ4-5

ひこ4-6

 蓮風 だけどね、私もいくつか本を読んでいますが宗教家の考えが好きで、キリスト教関係も勉強したけど、特に仏教に非常に興味がある。うちの先代自体が仏教の信者で色々な事を教えてくれたんですね。前にも言ったけども、こう言ったんです。「幼子の しだいしだいに 知恵づきて 仏に遠くなるぞ 悲しき」。これはね、江戸の初期のころの坊さんの話なんですがね、宗教とか哲学の世界には時代に規定されない部分がかなりありますね。だからしきりに近代の考え方の背景に児童文学を入れるお話を頂いて、それはそれで面白いんだけども、必ずしもそれに規定されない部分があるんじゃないか。

 それと個と個の問題、個と家族の問題、個と社会の問題も私に言わせると、「気一元」ということからすると原因があって即結果じゃないという話ですね。わかりやすく言うとアサガオの種があるからといって芽生えるとは限らない。一定の条件があって芽生える。温度とか湿度とか、それから空気がないとダメですよ。すべて種があるから結果があるという考え方は実は西洋医学なんですよ。インフルエンザウィルスがあるからインフルエンザを発症するという発想なんですね。しかし種と成長を助長する条件というものを外して考えておるんですわ。それを東洋医学はやかましく言う。

 たとえばC型肝炎ウィルスが鍼で消えることはたくさんあるんですよ。鍼でC型肝炎ウィルスを殺したかというとそうではない。結果としてそうなるんです。体の中に免疫機構があってそれを排除しようとする力を鍼がたまたま引き出したという説明が正しいということですね。だからウィルスとか菌があるから病気になるという考えではないわけです。非結核性好酸菌症を鍼で治した例なんかも全く典型的な問題なんですね。そうすると己というものを考えた場合、己というのは絶対的な己、我というものがあるかっていうと、あらゆる条件が重なって己を作り出しているんです。ご両親も居れば、先祖からのDNAもあるだろうし、それから教育関係、宗教、哲学関連…。

 これも仏教寄りの一つの説明なんだけども、我があるように見えて実はないんだと。無我ですね。17世紀からの近代的な思考法っていうのは自分と他とを分けるところから始まっていく。常に鍵を持って歩いて自分のところに入られないように鍵を締めていく。そうじゃなしに東洋医学は2500年前から、元々(我々は)一つなんだと。この背景にはね、私は農耕民族の生活があると思う。農耕というのは一人では出来ませんよ。少なくとも狩猟はね、やろうと思えば一人でもできるけど、農耕は広範囲に皆の手がわたる。そこには、天には天の神、地には地の神、御日様、まんまんちゃん(仏様)とやっている。この多神教的な発想が実は気一元をもたらしたと思うんですよ。

 今はバラバラに見えているけど本当は一つなんだと。それが相互に影響したら個というものは成り立つ、個というものがあれば…。でも本当はないんだという発想が東洋医学には僕はあると思うんですよ。絆なんて言っているけども元々絆はなくていいんですよ、だって一つのものなんだから。これは先生を引っ掛けるような形に言っていると思うんですけどね。元々要らないんですよ。本来の自分に気づくということがね。だから本来の自己とは何かというと、子供心の中に原点があると思うんですよ。先程の話にも出てきたように、こういう世界が僕の憧れとしては児童文学の中にあってほしいし、ないといけないなという気もするんですがね。

 そういうわけで児童文学を何でもかんでも押し付けるわけではないけども何かそういうものがあったらいいなぁとは思うんですがいかがですか?

 田中 子供の本は先程言いましたように、作家たちが10歳なら10歳の子供にも世界が理解できるように物語を創るわけです。それは今、藤本先生がおっしゃったように、「今はバラバラに見えているけど本当は一つなんだ」ということにも通じます。つまり、大人から子供まで、子供から大人までが、バラバラの個としてありながら繋がってもいるってことを、子供に伝える作業です。

 蓮風 大変な事やな。<続く>

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ