ひこ・田中さん(写真右)と藤本蓮風さん(同左)=奈良市学園北の藤本漢祥院
「鍼(はり)」の知恵を語る「蓮風の玉手箱」は児童文学作家、ひこ・田中さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんとの対談の2回目をお届けします。前回は田中さんが鍼灸治療を受けた印象から話が展開しました。今回は西洋医学と東洋医学の違いについて質問された田中さんの意見から口火が切られます。おふたりの見解の相違が浮き彫りになります。真剣な討論を楽しんでください。(「産経関西」編集担当)
田中 2番目の質問としてご用意いただいた「西洋医学と東洋医学の違いは何でしょうか」というところに移ります。東洋医学と西洋医学と言うからややこしくなる、と私は思っているんです。東洋医学と近代医学だと思うんですよね、西洋医学ではなくて。というのは、もちろん藤本先生はご存じだと思いますが、近代医学以前の西洋でも行われていた多くの治療も、薬草を使うなど、今、東洋医学で行われているような治療に非常に似ています。
蓮風 手段としては似たところがありますね。
田中 そういうものが、もちろん西洋、東洋限らず、それこそアフリカも南米も、あらゆる地域で人はそういう治療方法をどんどん開発してきた。もちろんその中でも文字が早く発達した中国はより先端的に医学書を記し残し、知識と知恵を広めてきた。
一方西洋では、近代という時代が訪れることによって、西洋にあった今の東洋医学的なもの、人の身体も含めた自然全体をとらえて、その中でのバランスをどう取るかみたいな形の治療方法はしだいに排除されていく過程がある。どんな病かを特定し、分析して、それにどういう治療をすれば良いかを当てはめて、近代医学へと体系化されていく。たとえば産婆という存在は医学の場では女から遠ざけられるかたちとなり、近代医学がその場所に収まりました。女が再び治療の場に戻るには女医の出現を待たなければならなかった。そうして近代医学は独占権を得るわけです。
疾患を見つけて、分析して、というやり方は、どんどん細部へこだわっていくしかないわけですよね。そのため近代医学は、それぞれの専門家に細分化せざるを得なくなっていったと思うんですよ。
ただ、ひとつの疾患をその場で治せたように見えても、なんらかのマイナス面が生じる可能性があるわけですから、どんどん色んな種類のマイナスが重なってくる危険性が出てくる。それが今、近代医学がぶち当たっている壁だと思います。日本でもなかなか普及しませんけれども、「ホームドクター制度」(の必要性)を盛んに言い始めていますよね。
蓮風 プライマリ・ケア。
田中 そうですね。あれは単純に言えば、ひとりの患者さんをとりあえず全体のことを把握している医者。何かあったら、そこに行って話す。で、そのお医者さんに手に余るものがあれば、専門医でもいいし、東洋医学でももちろん構わないのですけど、割り振るということですよね。その仕事をする医者というものの必要性というものをようやく最近、気づき始めた。
蓮風 そうですね、あれは1970年代、アメリカで興ってますけどね。
田中 日本ではまだこれからですよね。ちょっと話は外れるんですが、このことは保険医療制度に対してもものすごく重要なことだと私は思ってるんですよね。というのは、ホームドクター制度があれば、「その程度の風邪やったら薬屋行って、何系の薬買ったらええよ」と、それで済む場合も、内科医へ行って血液検査したり体温測ったり、そして薬を出してもらったりするから、医者の数が足らなくなり、過重労働になる、ということになっていますよね。ホームドクター制度がもっと普及すれば、医療費も、医者の労働量も減ると思うんですよね。
蓮風 今の話について言うと、かなり乱暴な所があるんで、ひとつずつそれをひっくり返そうというのが私の目論見なんですが(笑)。真剣に討論することであなたの医療観が生まれると思うので。
田中 はい、ご教示ください。
蓮風 まずね、東洋医学と西洋医学、基本的にはそう違いはないのだと理解されていたということですね。で、西洋医学はいま、近代医学として、科学の様相を持ってきた。そのためには分析的になって、最終的にはプライマリ・ケアの方向に向かったという、お話なんですけれど、まず一番最初に言いたいのは、東洋医学と西洋医学はやっぱり根本的に違うということ。何が違うかというと、医学が発生した場所が違う。そしてその社会を規定する哲学思想がやっぱり違うんだね。特に古代中国2500年くらい前には、百家争鳴といわれるくらいで、様々な思想が出てきている。その中で覇者となった哲学思想が東洋医学の根幹をなすわけなんです。
たとえば「陰陽五行」とかね、気の哲学とか。そういうわけで、ひとつの個性を持った医学を展開する。仰ったように分析する医学とはまったく違う。強いて言えば分析かもしれないが、分析らしきことを通じて常にトータルな意識に持っていく。西洋医学の場合は分析を通じて更に分析していく。だからその反省としてプライマリ・ケアになっていると思うんだけれども、そこが全然まず違うということですね。
それと、人というものをどういうふうに見つめるか、ということ。人はやっぱり人から生まれているけれども、しかし大自然の子供だという考え方。これが古代中国医学、そして現代に伝わる東洋医学の基本だと思うんです。だから自然の中から生まれて、自然と共に生きる。しかし独立しながら、最終的にはやっぱり自然の中に生きていく、というね、こういう屈折した人間像というものを東洋医学は持っていると思うんですよね。
そういう中で見ると、近代医学というのはやはりサイエンスです。サイエンスだけれども、じゃあ今、トップクラスのサイエンスを西洋医学が使っているかというと、全然使っていないのではないでしょうか。古典物理学的な世界で収まっていると思うんですよね。ある対象物と、観察する側がまったく常に客観的に同じ状態だという前提です。絶対的に客観性がそこにはあるはずだという(暗黙の)認知のもとに対象物を見ている、だから「客観的に分析できるんだ」という立場だと思うのです。しかし、高等な現代の物理学とか量子力学からすると、もう見る側が対象物を見ることによって対象物自体が変わる、という発想がありますね。註 こういうことが近代科学には欠けているのではないでしょうか、それを入れると客観性がなくなるから。
蓮風さんからの「註」:量子力学の世界で「あの月はその人が見ている時にしか存在しない」とたとえられる。あらゆる物質(観察の対象物)は、電子や量子など小さな小さな要素から構成されているが、それらは常に運動変化しており、"実在"していない可能性もある。その時、その場で、その人が見た(観察した)モノと、別の時に別の位置から別の人が見た同じモノ(対象物)は、全く完全に同じモノではなく、別のモノの可能性がある、あるいは、そのモノは(その時点では)存在しないと観察されるかもしれない、ということ。
蓮風 要するに、考え方が違うという話ですね。だから西洋医学が近代化したところで東洋医学とは一緒にならないわけです。それから薬屋と医者の話をなさったんやけど、私もほとんど似た意見なんですよ。
田中 はい。
蓮風 だけども、医者がおってはじめて薬屋があるという話はこれ、当たり前のことなんで。日本の漢方でも、あるいは中国でもそうやったけども、薬屋というのはおったんです。で、医者もおった。だけども薬を使うのが医者なんであって、薬が先行して患者に与えるわけじゃない。虫に噛まれたから、薬欲しいといったらそりゃ、やるだろうけれども、基本的には西洋医学では病名診断、東洋医学では証の診断というのがなくなったら(投薬は)あり得ないことなんですよね。そういうようなことを考えていくと、薬屋と医者とはやっぱり違う。もちろん簡単なやつは、今仰るようにプライマリ・ケアの医者がやればいいんだけれども、ちょっと複雑で病気らしいということになると、薬屋では出来ません。
田中 出来ませんね。
蓮風 もともと薬という言葉の語源を言いますと、「くする」という言葉。「くすぐる」という言葉がありますが、身体触ってね、だから昔は「薬師(くすし)」と言ったんですね。それを医者と呼んだんだけど。結果的には医者と薬屋は違うということですね。もうひとつぐらいあったと思うんですけれど、まぁぼつぼつお話しながら…。
田中 私のほうは素人ですので、どんどんそういう話をしてくださいね。<続く>