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「蓮風の玉手箱」は今回も蓋が開きました。お届けするのは、蓮風さんと小山修三さんの対談の第3回目。変幻自在、融通無碍のお二人の話はドイツ、縄文時代、明治時代…と時空を超え、そして日本の信仰の姿を通して「鍼(はり)」を見つめます。(聞き手は「産経関西」編集担当)
小山・蓮風7

小山修三見出し1

 小山 ドイツに行った時にね、ドイツっていうとガチガチの合理主義の医者の国だと思ってたんだけど、 漢方薬屋みたいな店があるんですよ。普通の薬局でも、リストがきちっと出来ていて、品がそろえてある。ああ、これならこれ、と出てくるんです。

 

 蓮風 それ、ちゃんと学問になってるわけ? ある意味でマニュアル化されてる…。

 

 小山 そう。どんどんマニュアル化していったというか。しかし、別に変な奴があらわれて、この薬は万能、というようなおかしな教祖的なものが出てきたりする。

 

 蓮風 朝鮮人参と一緒ですわ。適応・不適応があるのに、これさえあれば命は助かるというような。人間というのはああいうのが好きなんですね。宗教心とよく似てるんで、これさえあれば救われるという気持ちが。

小山修三5
 小山 あの頃、縄文時代の三内丸山遺跡で(落葉低木の)ニワトコが出土したことから、(私は)ニワトコに凝っていました。ドイツにはいっぱいあるから、ニワトコのジュースがあって、お酒がある。それ飲むと通じが良くなるとか、みんな意外と薬草の知識があるのにおどろきました。

 蓮風 東洋医学には薬の神様があって、日本では少彦名命(スクナヒコナノミコト)、漢方では『神農本草経』という本があるのだけれども、その神農様が一日に百何種類、そこらの草を食べて、薬になるか試したと書いてある。ああいう時代にフィールドワークをやっているの。これはこんなんに効くというのが書いてある。ああいう民間薬的な発想の中にもうすでに学問の芽生えみたいなのが入ってるんですな。 

 ――小山先生の話を伺っていますと、西洋の方がむしろ西洋医学と東洋医学の区別がなくて、西洋医学と東洋医学がきっちりと分かれているのは日本だけかなという気もしてきたんですけれど。 

 小山 それはハッキリしてるんじゃないですか。日本の東洋医学の受難の歴史を考えると、それは幕末から始まっている。東洋医学は切り傷とか鉄砲に撃たれたりしたものに弱い。(西洋)医学は、戦争を考えてたんじゃないですか。だから、ゆっくり治すのじゃなしに、兵隊には当て木したらすぐ走って行けるというような感じがあったような気がします。

 蓮風 それと伝染病ですね。 

 小山 それもあって、(幕末から)ぐーっと舵を切りかえた。日々の健康というようなんじゃなしに、怪我したらもうお前は死ね、みたいなのが。ほら、青森の八甲田山の遭難(明治35年)。あれで生き残った人たちは、ほとんど日露戦争で死んでるでしょ。百姓の子供とかを使って訓練してつかう、日本には人間的な資源しかないという考えがあったのでしょう。そういうのがあって、東洋医学というのを医学として否定したんだと思う。ところが意外なことに東洋医学は滅びなかった。よう耐えてきた。 

日本的な「等置」という在り方

 ――前に東洋医学の命脈を保っ てきたのは天才のひとつの成果であるという話が出ましたけれど、反対に西洋医学はどの医者でも同じ成果が出るように標準化されているといえるかもしれません。いま、医学が進んできて、個人によって症例が違うんだ、身体の様子は違うんだ、ということが客観的にわかってきた。それでもっと細かい対処 をしなければならないということで、東洋医学に帰ってきたというようなことはないでしょうか。

小山・蓮風4
 蓮風 中国は最近、東洋医学と西洋医学の融合、というようなことを言います。原理的に考えると、僕はこれはどう考えても難しいと思う。形のある医学と形のない医学とでは根本が違うから。でも患者のために協力 ということはありうることです。西洋医学である程度ここまでやって、これから先は難しいから手伝ってくれと言われたら出来ないことはない。ただそれをひとつの医学にできるかというと、それはならない。

 いま『鍼灸ジャーナル』という雑誌に難病シリーズというのを連載しているんだけれど、(鍼の治療経過に併行して)西洋医学のデータを貼り付けているんです。これは何を意味するかというと、ひとつの医学を作ろうというのではなしに、形のない医学を形のある医学に置き換えられる部分もないわけではない、ということなんです。もし置き換えられたらわかりやすい、だからやっているんです。本当は形のない医学が在るためには(形のある医学に)置き換えてはいけないんです。

 小山 梅棹(忠夫)先生は、神仏混淆というのはない、というんです。神仏は混淆していない。家の中を見れば、神棚は神棚で、仏壇は仏壇ではっきり分けられているではないか。共存とは言わなかったな。「等置」といったかな。両方とも等しく置いている。それでわたしらは、都合の良い方を拝むと。

 蓮風 それは重要な考え方ではないでしょうか。ひとつにするんではなしに、それはそれ、これはこれと。この発想はものすごく大事なことだと思う。事実、そのことを証明できる。僕らが鍼で治していって、良くなって、生活がいろいろできるようになる。ところが西洋医学のデータは悪い。治ってないと言われる。そういうやつは沢山あるんです。腎臓疾患の重症のやつで、鍼をやるとものすごく良くなっても、西洋医学のデータでは良くなってない。実際、形(データ)で良くなるやつもあるが、ならんやつもある。だからものの真実からいうと、これはこれ、それはそれとしてあったほうがいいんじゃないかと、いまの神仏混淆の話を聞くと、そう思いますね。

 生活は向上している。西洋医学でQOL(クオリティ・オブ・ライフ、生活の質)と言いますが、西洋医学ではQOLが良くなった面は認めてくれるが、データが良くならないと治ったとは言わないから。でも僕はそれはそれでいいのではないかと。ある癌(がん)を患った歯医者さんが痛みが止まずにどうしようもなかったやつが、鍼して痛みが取れた。それで歯医者さんの仕事に復帰できた。最終的には亡くなったけれど、彼にどれだけの希望を与えたか。医学は形を治すことも大事だけれども、人間的に生きて希望を与えるということがいかに大事かと、僕は東洋医学でそれを実感する。

 小山 だから統合でなく「等置」なのかもしれない。

  ――「等置」というと、その二つ境目のというのは患者の側としてどういうふうに考えて選んでいったらよいのでしょうか。

  蓮風 それは効く方で選んだらいいですよ。西洋医学でも東洋医学でも治る、という病は沢山ありますから。相性もありますよ。患者さんで「わしは東洋医学が好きなんだ」とか「西洋医学の薬や注射しないと納得できない」と言う方はおられますよ。

  小山 「等置」という言葉に僕は最初、ストンとは(腑に)落ちなかったんです。考えていっても山伏とかもおるやないか。混淆現象はある。だけどコアなところはやっぱり違う…と。こっちで神様拝んで、あっちで仏様拝んで、人間はそういうふうなもんや。〈続く〉