「鍼(はり)」を可能性を見つめる「蓮風の玉手箱」は今回も薬師寺執事の大谷徹奘さんと、鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談をお届けします。おふたりの話題は病気の原因から「自他」「生死」への視点へと及びます。健康を考えるという行為はとても深遠な思考活動なのだ、とあらためて感じる方も多いかもしれません。テレビや雑誌の「健康特集」ではなかなか得られない知恵もいっぱいですよ。(「産経関西」編集担当)

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 大谷 お釈迦様の考え方を見てますと、やっぱりものすごく医学のことについてもご存じだったと思うんですね。

 蓮風 「仏医経」というのがあるんです。私も少し見ましたけれど、非常に短い経典です。たぶん、いろいろお釈迦様も修行したうえで、やっぱり身体というものは大事だと気づいておられたと思うんです。
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 大谷 あの「倶舎論(くしゃろん)」という(仏教論書の)中にね、お母さんの中に受精してから子どもがどういうふうに育つか、ということが現代の医学書のように書いてあるんです。そしたらやっぱり身体が先なんですね。で、身体が育ってきて、脳が出来てきて、だんだん脳が大きくなっていく、というのが書かれてまして。そういう面で見ると、順番どおり、まず容れ物を頂いて、そこから内容が育っていく、という考え方だったんですね。

 蓮風 病気の大きな原因のひとつに、七情というのがあります。喜び、怒り、憂い、悲しみ、思い、驚き、恐れ、これがバランスを崩すと病気をする。この中で違和感があるのは、「喜びすぎる」ことですね。現代の世の中で、なかなか喜びすぎというのはないんですよ。だけども、昔の人はどうもあったみたいで。それこそ、博打で大当てして、喜びすぎて、笑いすぎて死んだというのがどうもあったみたいで、東洋医学的にはこういう分析をしているわけですけれども、こういう偏りについて、先生のお立場で、仏教のほうで、解決する方法は…。

 大谷 たくさんの人に会って、悩みを聞いたり、駅のベンチで人を見たりするのが好きなんです。そうするとですね、日本人は申し訳ないけれど、いま表情がありません。喜びも悲しみも、表情に出さない。もうほんとに冷たい顔をしている。たぶん、自分をさらけ出すことが、自分の評価を下げるように思ってしまうのでしょう。だからこうやって、たとえば面談で、2人で会っていても、なかなか本性が出てこないんです。私は、その人が、どういう心のコンディションなのか、言わせるようにしているんです。徹底的に言わせるんです。自分で言わせるんです。

 蓮風 僕らの場合はねぇ、これを身体の体表観察というんですけれど、手足の大事なツボ、背中、お腹、これを触ることによって、この人がどういう(七情の)傾きがあるかがわかるんです。ただ、その傾きをどういうふうに整えていけばいいかというと、もちろん病因病理を立てて、証を立てて、そして鍼をしていくわけなんですその場合に、なかなか心のクセというのは修正しにくいですよね。そういったことについて、「あんたはイライラしすぎやで」とか「ものにビクビクして、もう不安でしゃあないやろ。それは非常に身体に悪いから、自分を反省してやりなさい」と言うんですけどね。
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 大谷 僕はいつもこんな質問を説法を聞く人たちにするんです。「人はどんな時に腹が立つのか」。これ、学校ではされない質問ですよね。結論は簡単なんです。思い通りにならない時に腹が立つんです。先生の仰っている、たとえば、人はどんな時に、喜ぶのか、怒るのか、憂うのか、と。そしてこの「人」に「あなた」の名前を入れてください、と言うんですね。大谷徹奘がどんな時に喜ぶのか、怒るのか、憂うのか、と。その中で感じた時に「なんで?」「なんで腹立ってるの?」「なんでその人が憎いの?」「なんで殺したいほどなの?」と問うていくと、最終的に出てくるのが、「思い通りにならないから」という答えなんです。
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 蓮風 そうですねぇ。その思い通りにならないことも、その内面はもちろん最終的なものだけれども、いろんな要因がありますよね。親が愛してくれなかったとか、社会に出て会社でなかなか上下関係がうまくいかないとか、自分でどうにもならない部分もあるわけですよね。

 大谷 私は、お寺の修行があまりうまくいかなかったんですね。もうこの性格だから、ものすごくぶつかったんですね。高田(好胤)というお師匠さんはものすごく好きだったんです。で、高田にくっついていったら、そこが薬師寺だったんです、ま、言っちゃ悪いけれど。高田が他のお寺や企業の人だったら僕、そこに行ってたと思うんです。で、行きましたら、そこに兄弟子という人たちがいるんですよ。僕は望んでないんですが、いるんですわ、そこに(笑)。その人たちとぶつかるんです。そうすると、習おうという人に対しては人間って素直だから、自分のものさしの尺度の幅を変えるんです、価値観を。だけど自分の持っている価値観はなかなか変わらない。そうすると、人間は、「自分は○、相手は×」。これが基本中の基本だと思っているんです。これを修行の中で、「自分も○、相手も○」にしてみようと。いまはこれくらいまである程度わかっているんです。だけど、僕はいま、究極の目的は、「自分+相手=◎」にしようと。時に悪い人は「自分×、相手×」。これが一番やりにくい。それからもうひとつ、「自分×、相手○」、これもやりにくい。もう全部譲っちゃって、自分の意志じゃない人。これは救いにくい。

 蓮風 私もそう思います。

 大谷 で、私は自分の修行の中ですごく先輩達を否定してきた。その否定した、この○はなにかというと自分の価値観。だから、会社に嫌な人がいて、会社をやめたい人がいっぱい来るんです。辞めようかって相談に来るんです。その時に「おまえ、相手が悪いって言うけど、自分だけ突っ張ってるんじゃねぇの」って言います。それで自分のツッパリで、自分を喜怒哀楽させて、通じた時だけ良かったと。人間はゴリ押しして通そうとして通るときはたくさんありますよ。だけど、後から必ずツケが来る。後からはじかれるというツケが来るんですよ。

 蓮風 基本的にやっぱり何か感情が起こるというのは、その人の感情の欠けている部分だと思うんです。欲しかったものがない、という、あるものを喜ぶというのではなく、ないものが欲しいという人間のスタンスのようですね。ないものねだり、というは多いですねぇ。そこで、一番大事なことは、「死と生」の問題ですが、自分と相手を分けるということがもうすでにして問題だと思うのです。東洋医学では「気一元」というのがあるんです。

 大谷 気一元?

 蓮風 本にも書きましたが、もともと(生と死は)一つなんだという、それが分かれたんだと。ところが西洋の場合は、もう最初から分かれていて、分かれた中で仲良くしようという発想です。だから自分の所がやられたらいかんから、壁をつくる、鍵をかける、もうひとつ悪いのは、先生もいま仰ったように、心の鍵をかけてしまう。だけど東洋医学は、もともと一つだったものが分かれた。で、こっちの生と死の問題も、気というものが集まると「生」、これが散ると「死」という。荘子哲学ではこれを非常に重要視します。「千の風になって」という歌がありますが、あの発想に近いですね。だから生と死というのはひとつの変化過程なんであって、全く別物じゃない。

 それをホントに体感したのはインドに行ったときですわ。ガンジス川の流れるところに、朝早く起きて行くんです。行ったらもうすごい人で。川の中で洗濯してる人もおれば、沐浴する人もおるし。それからその洗濯ジャブジャブやってる後ろで、野菜を洗ってる人もいる。もうひとつ目を上げて川岸を見ると、火葬の煙がもうもうと上がっている。あの国では、死というのが当たり前みたいですね。その中でお釈迦様が生老病死ということもお説きになったと思うんですけれども。気という考え方からすると、自分と相手を分けるというのは基本的にはおかしいんですよね。

 大谷 おかしいですよね。

 蓮風 だからその根源にもし目覚めることができたならば、そういう問題は解除すると思うんです。大谷先生が仰ったように、おできが一つ出来ても、結果なんだと。それは必ず中から起こっているんだと。そういう考え方からすると、人間の身体はひとつの有機体で、つながっているわけなんです。我々の身体はバラバラなんだけれども実はもともとはつながっておったんだ、という発想がもしできるならば、これはまた変わった考え方になると思うんですよね。

 それと生と死の問題も、気の集散で説明しております。荘子という哲学者は面白いですねぇ。自分の嫁さんが亡くなっても盆を叩いて踊ったというんです。そしたら友人達が来て「おまえ、自分の嫁さんが亡くなったときくらい悲しんだらどうや」と。そしたら「いや、元の世界に戻ったんやからな、ほんとは喜ばないかんのや。それを喜べないのは、生と死を分けてるおまえの姿が間違いだ」と。こういう荘子の考え方がありますね。それは東洋医学の非常に重要なところだと思うんです。やっぱり有るものが無くなったら寂しいですよ。うちの親父なんか面白いですよ、骨董趣味がありましてね。お抹茶の道具を大事にするんです。で、人が壊したらものすごい怒るんですよ。自分が壊したらどうするかというと「あぁ、諸行無常や」(笑)。だけどそれで納得しますね。人が壊して怒るんだけれど、「あっ、怒って悪かったな。ほんとは壊れるんだ」と言いましたね。だからその、形あるものにこだわるのは、我々のまさしくこの器がそういうことを思わすんじゃないですかね。
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 大谷 僕はちょっと他の方々と違ってですね、独特の生死観を持ってまして、それをいま説いて歩いているんです。

 蓮風 ほう。

 大谷 たとえば、こうやって生きてますけれど、今日こうやって皆と仲良くいますけれど、あと50年も経てば、だれも居なくなります。世間の人たちがですね、「死んだらしまい」と言いますけれど。

 蓮風 そう言いますね。

 大谷 いやそれが僕の修行の目的のひとつだったんです。死んだらしまいだったら、生まれてこなくてもいいじゃないか、っていうのが僕の考え方なんです。僕が持っている一番の基本は、「生まれたものは必ず死ぬ」ということです。奈良を大和といいますが、1300年前に大和言葉というのを使っていて、その大和言葉で「現在」という言葉を「中今(なかいま)」と言うんです。私たちは現在のことを「今」しか使わないじゃないですか。そうすると、この「今」という字だけを見ますと、今さえ良ければいい、自分さえ良ければいい、という思想になってくるんです。

 だけど、「中」が上についているということは、「先(さき)」があって「後(あと)」があるということを考えたときに、私たちには先祖というものがあり、先祖があって私たちは生まれてきた。自分も死ぬ。そして死んだら今度は自分が先祖となって、子孫が存在してくる。その時に、この「中今」を生きる人たちがどういう生き方をするかだと思うのです。たとえば、先輩達の言うことをよく聞き、僕らの時代に拡幅させて次へ伝える。電柱の間を電線が延びて電気が伝わっていく。電気は放電していくから、前の電柱で電気が100だったものが次の電柱では80になっている。減っていく。その時に、次の電柱にトランスをつけて、拡幅をして100にして次に送っていくことが大事じゃないかなと。僕は「中今」しか生きられないですけれども、ちゃんと先輩方の長い命の流れの中にあって、自分がそういうものをしっかりと、時代的なものを合わせて、現代的にして、拡幅して伝えていく。だから先生も14代目でしたっけ…。

 蓮風 そうそう。

 大谷 先生のところの先輩方がずっとやってこられたことを先生が現代的にアレンジをして、それを強くして、これ(電柱)で強くして、80を120にして、でも構わないと思いますが、拡幅していく命ということを考えると、いまの自分を尽くすだけじゃなくて、未来のことを考えながら生きていく。自分の迷いは先輩方から答えをもらえばいい、っていう生死感をもって毎日修行しているんです。

 だからお師匠さんが死んで、お師匠さんが持っていたものを僕が絶やしてしまったら、ただの1本の電柱だけだったら、たぶん次に伝わらずに消えてしまうと思うんです。自分に与えられた役目というのは、次の人のためのことを考える。「今」という言葉だけを考えたら、快楽主義が出ちゃうし、死んだらしまい、という考えも出てきてしまうんで、自殺者も出ちゃう。この「中今」というのは「広辞苑」にも載っている、生きてる言葉なんですね。知らなかったんですけど。だからいま、中今を生ききる、ということを説法してるんです。それがわからないと、結局、僕もですね、先生もさきほど僕に身体を大事にと言ってくださったけれども、今さえ良ければいいと、人からの評価が欲しいから一生懸命走るわけですよ。認められたいというのは、どっかに媚びているから。だけど、少しでも良いものを育てていければ、エゴを超えて生きることができるので、エゴを超えて生きたときに、人間というのは、さきほど先生が仰った、皆がつながっている、自分は先祖とつながっているという、縦軸と横軸の命の連続性について理解することができると、人間はすごく静かになるし、優しくなれる気がするんです。〈続く〉