薬師寺執事・大谷徹奘さんとの対話(5)

 「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」という説(?)があります。確かに緊張していても深く呼吸をすると不思議と落ち着くことがありますから「心」は身体の状態から影響を受けているのは確かなようです。お経では心より身体を先に置いて「身心」と書くということから話が広がった前回までの「蓮風の玉手箱」も腑に落ちます。今回も薬師寺執事の大谷徹奘さんと鍼灸師の藤本蓮風さんの対談をお届けします。身体が心に影響を与えるとともに心の状態も身体に反映されるという心身が一体である事実や、欲に向き合う方法など、本来の自分を自然に生きるコツが語られています。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 荘子の中に(なにも人為的に手を加えず自然のままという意の)「無為自然」というのがある。だけどね、実際は鍛錬して本当の自然に戻るんではないでしょうか。元々は仏さんの心で、仏さんの身体で生まれたんだけど、色々な経験をしてそれが垢になってなかなか取れない。本当に(自然に)戻る為にはやっぱり鍛錬せないかん。馬の障害競走に参加するため、この間から練習してるんです。もうかなり障害競走はやってないんです。本来1年どころか半年やってないと本当は馬で飛べないんです。ところが、やったら飛べる。考えたらね38年、馬に乗っている、この鍛錬がね、知らん間に「無為自然」を出してるんです。だから最初は形(かた)にはめなければいかんですよやっぱり。書道などでもよく「守・破・離」って言いますね。最初は形を「守れ」と。それから形に入って守ったら今度は「破れ」。そして最後は「離れろ」と。だからもう離れる段階で身体の解放をやればもっともっと大きいエネルギーを頂ける。だから私がね、ブログにいろんなこと書いてるけど、無駄なエネルギーを使うなというのが僕の一つの主張なんですがね。

 大谷 朝早く起きて仏さんの前行って祈るのは祈りじゃないですよ。これはね、おつとめ、役目ですよ。僕にとっては仕事です。僕は(祈りのことを)そういう風に思ってないんです。たとえば夜、自分が仏さんを描いて胸の前で手を合わせて、「今日一日ありがとうございました」って。それが祈りだと思います。坐禅何時間します。滝に何時間打たれます。朝早くから起きてますっていうのは、それは形の話であって…。
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 蓮風 だから、その形がいる時代もあるんですよ。

 大谷 そうなんです。

 蓮風 それを離れていくとね、今度は本当の自然な姿が出てくる。私もそういう事についてずいぶん考えたんですけども、やっぱりこう無理なく自然を起こそうとすればまず最初は形にはまる。それが一つの修行なんでしょうね。そこから良くなっていく。で、患者さんに鍼をして(患者さんの)気持ちが楽になったというのも、禅という言葉をよく使います。禅宗の禅ですね。だから坐禅も禅だけどね、(患者が横になって鍼治療を受けるので)"臥禅(がぜん)"という名前をつけた。それから私はよく散歩を患者さんにすすめる。これ“歩行禅”なんだ。だからそのとき必ず身体をゆったりと動かしなさい。あちこちの景色を見なさいと。「先生。せかせかと部屋の中で動いたらあきませんか」って聞くけど、それはダメ。心が動かん。だからゆったり歩いてあちこちの景色を見てるうちに心が移る。移ると一つの執着が取れてくる。そういうことを私は患者さんにすすめますし、自分も実行してます。

 大谷 歩行禅は、間違いなくあると思います。私もですね、時間があると歩くんですね。いつも考え事してるから下向いて歩いてるんですね。だけど時たま奈良なんかでも見るとこう山がグワーっとあるじゃないですか。30年もいてですね、奈良が山に囲まれてるなんて今頃気づくんですね。不必要なこともやってるんですけど、これっきゃないっていうとこへどんどんどんどん入り込んでしまって、結局自分で自分に詰め込んでいる。本当はもっと自由なのに。

 蓮風 だからね、それを私は患者さんに気づかせるんですよ、できるだけ。どうにもできないやつはやっぱり鍼をしてね、身体の方からほぐすと心もゆったりする。その時に、「よう寝ましたわ先生、鍼をしてもらって」っていう。「それ、今のあんたが本当の自分だよ。今までいろんなこと、くしゃくしゃくしゃくしゃやっとったやろ。今どうや」って言ったら「なんにもない」。それが本当の自分。それを忘れちゃいかんぞってよく弟子にも教えます。本当の姿にねぇ、戻すには、やっぱりいろいろ工夫が必要ですね。

 大谷 ですけどねぇ、僕思うんですけど、人間はねぇ、やっぱり欲が深くて…。今度の被災地でも、食べ物がない時にね、おにぎり持ってったらね、冷たいおにぎりでも泣いて喜んでくれたんですよ。その次なんて言ったかってね、「おにぎり冷たいなぁ」って言ったんですよ。僕の山形の知り合いの人がね、山形の芋煮を持って行ったんだそうです。そしたらね、山形の芋煮はしょうゆ味なんだって。そしたら向こう側の人の、太平洋側の人はみそ味だからみそ味にしてくれって言われたって。もう喜んでいながら文句言う。もう本当に…。
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 蓮風 それはありますね。私もね、子供の頃、家族がよく亡くなったんだけど、お葬式やって、形見分けがあるじゃないですか。ほんなら泣きながらね、えぇもん取ろうとする。「あっこれが本当やな」と思っとった。そやけどねぇ、それが本当の実体か言うたら違う。徳本上人の話=大谷徹奘さんとの対話(1)参照=のように、ほんとは清らかな心やったはずがだんだん変な汚れをつけてしまって…。だからその汚れを取るにはやっぱり修行とかね、鍛錬っていうのが…。

 大谷 いやだけど先生ね、世間がね、これだけ欲望的なことを推奨してるとね、よっぽど訓練してるか、よっぽど「もうこれでいいや」っていうとこまでいかないと、それ治まらないと思いますよ。もう持って持って持って持ちきれない。僕もですね、すごく太ってる。これは言い訳かもしれないけど職業病の一つだと思っています。毎日旅に出るでしょ。そうするとせっかく薬師寺から来てくれたって言って出してくださった会席を食べるわけですよ。もう超高級料理店に月に何度も行くようになったんですね。若い時は食べられる。またうまいし…。だけど今は、これを食べて病気になって命短くするなら「いや今日はちょっと、明日都合があってご飯食べられませんけど」って断って、夜おかゆさん一杯でもいいなって思うようになったのは、持ちきれなくなったから言えるようになったんであって。世間をみてみると、そうはいきません。一昨日も銀座ってとこ行ったらね、住職のお供で。そしたらですね、まぁ見事な洋服屋さんと見事な鞄屋さんと見事な時計屋さんのかたまりでしたよ。そりゃね、あんなとこ歩いてたらね、欲しくなりますよね。で、時計みたいなのを一個持ったらね、自分よりも長生するんですよ、時計の方が。

 蓮風 そうそう。
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 大谷 だけど私たちは、人よりちょっと変わったのを持って評価されたいという根本的な欲望を持っているから、借金してでも買おう、その借金を払うために自分の身を売ってでもみたいな行為になっていっちゃう。欲という字もですね「谷のように欠けている」からということだそうですけど、本当は(「欲」の)下に「心」がついたそうですね。

 蓮風 はいはい。

 大谷 だから心に栓をしない限り、欲は埋まらないっていつも言っているんです。これが感謝になるんだと思います。

 蓮風 そうですね。

 大谷 うん。で、「今日は凄い、だって本当だったらアフリカで飢えている人がいる中で俺こんなご飯食べられる」って言えるその喜び。私たちは高い方から削って自分を確認しますけど「ないよりもマシだ」って言って、その加算する思想に頭の中を持っていけば、感謝もその思いもポジティブになっていくと思うんです。両手が使えないと駄目だっていうのは、考え方がその先にあるんですね。だって僕にしてみたら両手がない人から比べたら片手、命が無い人からみたら命があるって言って、加点法で物事をとっていくと「わぁ良かった、これだけでもあったから」「わぁ良かった、死ななかった」っていう加点法になっていけば、まず喜びが出てくる。で、喜びが次は感謝で、感謝が出てくると敬いが出てくると思うんですね。
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 蓮風 そうですね。でね、あの、喜びも一つは形があると思うんですね。僕は笑顔ということを提唱している。で、笑っているとね、だんだん、だんだん、心がそのようになってくる。やっぱり「器」の方からのアプローチですね、だから僕の場合は笑う癖をつける、最初は作り笑いやけど、だんだんそれが自然になってくる。で、鏡を見る、あっ笑ってる。その笑った顔を他の人たちが見た時、やはり笑っている。

 大谷 そうですね。

 蓮風 下を向くというのはね、ロダンの「考える人」っていうのがありますね。

 大谷 はいはい。

 蓮風 あれは「考える」じゃない。迷っている姿やと思う。だから、必ず弟子達に下向いたらいかん、上を向いて。坂本九がせっかく教えてくれた「上を向いて歩こう」をやれっていうのですけどね。やっぱりね、心が暗いとだんだん下を向く。だから、それで大体、何考えているかわかるんですよ。

 大谷 僕も、子供達に言うんです。立たせてですね、「お前下向いてみ」って。「下向いた時にお前どの位の範囲が見える?」ってやるんですよ。「お前見える範囲、こっちだろ、あそこだろ。線で繋いでこの位だろ?」って。で「上向いてごらん」って。「もう枠にくくれない位広い範囲があるじゃない」って。「そんなちっこいところで迷わないで、もっと大きなとこ見た方がいいじゃねぇの?」っていつも言うんですね。

 蓮風 やっぱり心がなかなかこう外に出ないっているけれど、実際は形に出てますね。

 大谷 いや、出ますよ。出ます。人間は本当に。

 蓮風 で、「どうなんだ」って(弟子に)尋ねると「何もない」っていう、まずその目の動きを見ますね。それから目を瞑(つむ)らせるんです。何がわかるかというとね、異常に緊張したものは必ず瞼がピクピク動く。「あんたまた緊張したな」っていうと…。「してません」って。なかなか強情なんですよ。

 大谷 そうなんですよ。

 蓮風 素直にね、そう認めれば自分も楽になるんだけど、強情なんですわ。

 大谷 だって評価が下がってしまいますから。緊張していることが悪いって思っているから。だから嘘つくんですよ。

 蓮風 だけど、身体にはちゃんと出てきます。触れば、「お前、なんぼこれ嘘言うたかって、ちゃんと出てるんだから仕方がないだろ」って。

 大谷 昨日、僕、法話の旅から家に戻って来まして、夜たまたまテレビ見てたら、好きな人見ると瞳孔が開くっていうのをやってました。まさに人間の正直なところだと思いません? あの、女の人を見てですね、自分が好きだと思っている相手には瞳孔が開くってやってたんですよ(笑)。で、嘘ついても、そこは正直に動くって、本当そう思います。だから、お寺の境内を歩いている人を見ますとですね、わー、この人は悩みを持っている人なのか、今日はリラックスしている人なのかっていうのは、まずすぐわかりますよね。

 蓮風 東洋医学の場合、「脈診」っちゅうのがあります。

 大谷 はい。

 蓮風 脈診をやりながらね、質問するんですよ。で、嘘言った時、キッと脈が固くなる。 嘘発見機(笑)。

 大谷 そうですか。

 蓮風 ハッキリ出てきます。だから、これはねぇ、やっぱり、先ほど言うように心と身体が密接に繋がっていて身体を診れば、だいたい心の状態もわかる。 〈続く〉

薬師寺執事・大谷徹奘さんとの対話(6)

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 大谷 一時期、もの凄く頭痛がしまして、もう吐き気がするんですよ。

 
 蓮風 そりゃ、危ないね。

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 大谷 そう。で、医者行けって言われて(体内を画像化する)MRI(核磁気共鳴画像法)の検査を受けたんです。そしたら、MRIの台に乗って準備している間に、もうイビキかいて寝てたらしいんですよ。 で、MRIの機械にかかったのを覚えていないんです。そしたら、それを撮る先生が「いや、ここでイビキかいて寝る人はね、もう滅多におらんよ」って。だけど、それ見た途端に「あなたの頭痛いのはね、寝不足だってわかりました」って言われましたよ。だけどその位、肉体って正直なんだと思うんです。ですから、僕、ここに来させて頂いて、鍼を一番最初に打って頂いた時に、もの凄く調子が良かったんです。

 蓮風 あぁそうですか。

 大谷 身体に痛みが無ければ、神経を全部自分の思い通りに使えるじゃないですか。今(腰が)痛いんです。そうするとエネルギーが10あるうちの2くらいは腰に使っちゃいますもいんね。

 蓮風 そうでしょう。

 大谷 こっち(腰)を意識して夜、布団に入って休もうと思っているのに、痛いからどうしようかなって思って、休む時まで気を使って…。そして朝、目が覚めたときに「身体痛く無いかな?」って思って目が覚めるんですよ。

 蓮風 人間の中には四苦八苦といって、その四苦の、生老病死ということをお釈迦様は説いてらっしゃると思うんですけど、その中で言っている病の位置づけというか、同じ四苦の中でも、病をどういう風にみるか聞いてみたいのですが。

 大谷 あぁ、そうですか。ちょっと他の方々とはちょっと理解が違いますけど、得意中の説法の一つなんです。「命」という色紙を貰って、これをそのまま画鋲で貼る。

 蓮風 はい。

 大谷 確かにこれも意義があるんですけど。これをですね、額に入れるんです。

 蓮風 ほうほうほう。

 大谷 そうするとですね、大きく見えます。その四辺が生老病死だと思います。四苦八苦の「苦」というのは嫌なものと受け取りがちなわけですけど、これは「現実」とか「ありのまま」だと受け止めるということだと思います。この「生」はですね。ご存じのように、生きるということを言うんじゃなくて、お母さんの産道を出てくる時に、お母さんが苦しいように、子供も苦しいという「生」。で、私がこういう風に思っているんです。お釈迦様というのは人間観察をした時に「生まれた人は引き返せない」と…。これが「生」だと思います。その次に「老」は人間は、やっぱり使っていけば古くなってくる。で「病」はですね、故障する。そして最後は、壊れる。

 蓮風 そうですね。

 大谷 私は、そういう風に受け取っているんです。
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 蓮風 そこの前に、医学との関わり合いは出てくると思うんですよ。西洋医学ばっかりじゃなしに、こっち(東洋医学)もあるんだと気づいて、上手にやれば病が癒える部分はかなりある。

 大谷 仏教の勉強しててよくわかるんですけど、ちっちゃい時から心の訓練をして心の揺れ幅のことを知っていると、大人になってから悩まないでいい。それと一緒で先生は今、病気を治されておられるけども「人間というのは故障するものだよ。だけどちゃんとメンテナンスをしておけば」という予防医学という意味でも非常に重要だと思う。で、故障した時にまた治していけばいい。

 蓮風 それをね、東洋医学では「未病」というのですよ。「未だ病ならざるを治す」。わかりやすく言ったら、予防医学なんだけど、単なる予防じゃなしに、生命のこの小さい歪み。結局病気っちゅうのは、気の歪みですから、その大きい歪みを出来るだけ小さい歪みの間に手を打っておくと、大きい歪みが治る。大きく歪むとそれこそまさしく死の方へ行く。

 大谷 そうですね。

 蓮風 だから、そういうことにおける、その病の捉まえ方が大切。だからやっぱり、名医にかからないけません。
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 大谷 薬師寺にはお医者さんがたくさん来られます。うちのお師匠さん(故・高田好胤薬師寺第124世管主)は若い人がお医者さんになる時のお祝いに「病気を治す医者になるな、人を治す医者になれ」って書かれましたね。だから先生がおっしゃっている「病」の部分はね、身の世界の部分なんですよ、だけど先生がおっしゃっている「病」というのは、身と心の両方が非常に深く関わっている。

 蓮風 そういうこと、そういうことです。先生が最初におっしゃったように、医学と宗教っていうのは非常に大事な問題。いつも興味を持って来たんですけど、まさしく、微妙なところなんです。だから、本当の名医は宗教的なものをある程度持っていると思うんですよ。私は自分なりの宗教観を持って患者さんに接するんですけど、また、立派なお坊さん、宗教者にかかると、病気を治す部分もあるし、事実、まぁ、薬師寺って言ったら、薬師如来様がおられるわけで、薬師如来さんっていうのは、即、人の身体も治すということだろうと思います。もちろん心も治されるのだろうけども、ある意味で非常に深い関わりがある。

 大谷 お釈迦様の時代、坊さん達は物を所有することが禁じられていたんですね。許されていた物は何かっていうと、着物、ご飯を食べるお鉢、それからもうひとつ許されているものが薬だったんです。やっぱり薬を与えることによって、肉体的に苦しみを持っている人を救ってあげることは、お坊さんの役目の一つでもあったんですね。東南アジアなんかに行きますとですね、もうだんだん減ってますけども、臨終行儀って言って、もうすぐ死にそうな人の枕元で、死は苦しいものではない、悲しいものではないということをお坊さんが説くんですね。日本でも鎌倉時代…、法然上人の時代なんか、盛んにやられているんですけど。

 蓮風 そうですね。涅槃経というのか…。

 大谷 涅槃経もそうですね。

 蓮風 亡くなっていく人に…。

 大谷 説法する。

 蓮風 それはチベット仏教にはまだ残っている。

 大谷 はい、残っています。カンボジアとか、東南アジアはまだ残っています。

 蓮風 僕らの子供の頃はね、もう亡くなるっていうたらね、涅槃経をあげにくるお坊さんを見たことがありますよ。

 大谷 今はもう死んでから坊さん来るから、葬儀屋の手先みたいになっちゃってる。

 蓮風 はっはっはっ(笑)。

 大谷 坊さんは生きている間に、人を生かすためのものであって、先生が死人に鍼打ったって、何も変わらんというのと一緒で、死人にね、説法したってしゃあないですわ。<続く>