「鍼(はり)」の本当の姿を探る「蓮風の玉手箱」は、春日大社権宮司の岡本彰夫さんと、鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談の4回目をお届けします。今回は嘘が通らない霊妙な世界から本当の芸術家の“条件”まで、幅広いテーマで東洋医学についての話が展開されています。本当の自分を感じることが病気を防いだり、健康になったりする秘訣かもしれません。でも色々なものに所有している現代人にはなかなか容易ではないようです。では、いかに「捨てる」か…。そのヒントが明らかにされています。(「産経関西」編集担当)


岡本 近頃、とみに思うんですけどね、形のある世界っていうのは嘘が通用しますわね。
蓮風 まぁそうですね、ごまかせますね。
岡本 形のない世界っていうのは嘘が通らない世界なんですよね。
蓮風 普通一般の人達はその反対のように見えるんですよね。

せやけど目に見えない世界っていうのは嘘が通用しない世界ですから、神や仏や先祖に対してね、見返り求めたらダメなんですな。だから無償の愛をね、捧げ尽くす。代償のない愛を捧げ尽くさないと、この世とあの世の壁は破れません。せやからこれほど難しいことはない。「神頼みは楽やろ」って、そんな馬鹿なことはない。かえってしんどいですよ。
蓮風 たくさん患者さんを診てきたし、今も診てるんですけどね、「あんた感謝が足らんな」と言うことが多いです。ありがたいっていうのを漢字で書いたら「有ることが難しい」。そのおかげで頂いてることに対して目が向けられない人が多いんです。もう自分が心からうれしい、ありがとうございましたという言葉が出てくる、これが大事やと私は思う。
岡本 おっしゃる通りですね。
蓮風 感謝の気持ちのある人は早く治ります。これ正直なもんですわ。それが足らんとね、まさしく気が枯れて「ケガレ」の状態になってしまう。結局、そういう感謝の気持ちがないと生命力というか人間の器なんかが活き活きしてこないという風に思うんですよ。患者さんは「あっちがつらい、こっちがつらい」と言う。せやけど、理由もなしに悪くなったんではなく、「あんたの日頃の所業が間違っとるからや」という話をよくやりますね。実際たくさん体験するとはっきり出てきます。まずその人の精神の高さというか、魂の、気位の高さというか。今おっしゃるように、物ばっかり見て、お金の高さでばっかり見てる人たち は(精神の高さが)低いです。それを高めるのはなかなか難しい。
岡本 そうですよねぇ。
蓮風 (漢方医学のバイブルの)「素問」にも関する話ですが、医者にも生活習慣に目を向けていく「食医」や、一般的な医者にあたる「疾医」というのがあります。
岡本 ほうほう。
蓮風 食医のほうがレベルが高いんです。
岡本 なるほどねぇ。
蓮風 せやけど今、食医のようなことは、なかなかできない。もう生活習慣病にまみれきってる人達がほとんど。だからそのためにまず救いとしては身体を楽にしてあげる。私の弟子にもいろいろ迷い人が多いんで、鍼をしてやる。うっとりして寝だすんです。鍼をし終わって「はい起きてごらん、ほら、今のあんたが本当のあんただよ。雑念にまみれてるのは本当のお前じゃないんだ」と言ってやるんです。
岡本 なるほど。
蓮風 だからそういう意味でね、肉体の問題は、今の世にはむしろ大事で、それが落ち着いてくると勝手に、感謝とか、有り難いとかそういう気持ちが起こってくるように思うんですわ。だから内と外の問題ですから、一つと言えば一つなんですけど、人を救うにはいろいろな方法があるみたいです。だけど、僕らが春日大社にお参りに行った場合に何を一番感じるか言うたら、なんか神々しい感じなんですよ。清々しい。それがもの凄い有り難い。そういう気持ちを大事にしてまた患者さんにあたれる。だから自分をまず神々しいというか清々しい気持ちにさしてもらうっちゅうのは非常に有り難いですね。
岡本 充電して頂かないといけないですもんね。
蓮風 そうそう、そういうことですね。
岡本 やっぱり接しておられる方が全てそういう気を持ったりとか、いろいろな方がおられるから、それだけに治療される方は常にどこかで充電を、清らかな気を充電して頂かないと。
蓮風 まさしく疲れてきます。その疲れも肉体的な疲れは、それこそまた鍼とかでできますけどね、魂はそうはいかない。何かで覆われてくるんですが、やっぱり神さんに参ったらたらスッとしますな。仏さんをお参りするとか、先祖参りするとやっぱりだいぶ違いますけどね、一番清々しいのはやっぱりそれこそ春日大社さんの清々しい雰囲気。だからやっぱり大事なんですね、建物とかその場所の感じとかね。
岡本 何千年も前からの霊地ですからねぇ。いやそれだけにね、本物がどこにあるのかっちゅうのが、これが一番の考えどころでしてね。せやからマスコミに出てるのが本物だというのは疑問やと思うんですな。むしろ本物の人ほどね、隠れたとこにおられてね、そもそも偉い人っちゅうのは偉そうにしませんわね。偉いから。
蓮風 ほんまに偉い人はね、そうそう。(偉そうに)する必要が無い。
岡本 偉そうにする奴っちゅうのは偉くないから偉く見せる為に偉そうにするんで。だから本物っていうのはそんなにかき分けて人前も出て行かないし、自分に自信がある。本物を持ってはるさかい。そういう人にめぐり会うっちゅうのは難しいですわな。でむしろそういう人でない人ほど表に出ていくので、ついそっちが本物かと思いますけど。
蓮風 それはね、我々の業界でもそうなんです。
岡本 でしょうね。

岡本 で、また巡り会えますね。そういうことを思っていれば。
蓮風 このコーナー(「蓮風の玉手箱」)もね、うちの漢祥院(=蓮風さんが治療にあたっている「藤本漢祥院」)にたくさん奈良の著名人が来ておられるので、一人ずつね、対談さしてもらって、それで啓蒙運動しよかと、いうことでやったんです。これも今言うように自分から求めたんじゃなしに、知らん間にそういう縁を頂いて、本当に有り難いですわ。だから鍼に関してはねぇ、もう「鍼狂人」と言うぐらいで、狂っていると思われるほど没頭していると私も思うんですよ。だけどそれはね、たった一人でできないです。あらゆる環境がね、整わんと。
岡本 だから、職人みたいな人やないとできませんね。私ね、芸術家と職人は違うと言われるけど、ただの芸術家っちゅうのは薄っぺらいと思うんです。職人が芸術家になるべきでね。だから、(書家の)榊莫山(1926~2010年)っちゅう先生ね、あのおもしろい字書きはると思てたら、なんのことない、楷書を書かせても一流、行書を書かせても一流、かな、書かせても一流。その人が捨てはった姿があれですからね。
蓮風 なるほどねぇ。
岡本 あれだけ習いに行く奴おるんですわ。あれはそうでなくてね…。
蓮風 その結果ですね。
岡本 結果ですわ。あの先生はあらゆるものやって、持つだけ持って、それで捨てはって、残ったもんがあれですわな。だから私ね、無駄やけどね、これからの若い人らにも言いたいんやけど、持つだけ持ったらいいと思うねん。なんでも。ほんでね、いつか捨てなあかん時くるんですわ。その時ね、何を捨てても大事なもんは残るねん。それが本物やわ。
せやから(蓮風)先生はいっぱいやらはって、それで捨てはった形が今やと思うねんな。せやから本物残ってんねん。だからそれがね、時間がかかるねん。なんぼ真似しよと思ても越えられへんわけ。弟子は師の半分ちゅうねん。越えられへんねん。そやから師匠から学んだもんを今度はどのようにして自分が熟成さしていくかっていう、これが腕の見せどころやね。それにはね、無駄なもんなんてこの世にあらへんわ。〈続く〉
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