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川口洋さん(写真右)と藤本蓮風さん=奈良市学園北の藤本漢祥院

 4月になりました。読んでくださっている方の中には新社会人や進学した学生さんもいらっしゃるかもしれません。慣れない環境に戸惑ったり、新しい経験に驚いたり…。これまで知らなかった文化に触れた方も多いはずです。今回は違う文化同士が互いに触れ合ったときに、どのような影響を与えるのか、という話題から対談が始まります。では「蓮風の玉手箱」の第8回。歴史地理学者の川口洋・帝塚山大学教授と、鍼灸師の藤本蓮風さんのお話を味わってください。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 先生が歴史地理学を通じて色んな文献をお読みになったり、事実をご覧になったりしてきたなかで、異文化には双方に浸透する関係があるように見えることはありますか? 私は東洋医学という世界から、ほとんどが西洋的な考え方が主流になっている世の中に影響を与えています。ひとつの文化に異文化が入ってきて影響しあうことに関心があるんです。例えば、平安時代の安倍晴明で有名な陰陽師という存在。怪しげではありますけど、天文学の専門家でもあったわけですから非常に科学的な知識を持っていたわけです。でも幕末になって「よろず相談所」のようになって祈祷もしているという風に形態が変わってきていますよね。時代や社会の需要と供給の関係のなかで陰陽師の文化が影響を受けて変容してきていると思うんですが…。

 川口 そうですね。需要と供給の関係が、文化変容に一番影響しているのかもしれません。以前、アメリカの方と話していて、日本の生活スタイルとアメリカの生活スタイルが、ずいぶん違うのか、ほとんど変わらないのか意見が分かれたことがありました。横で聞いていたスウェーデンの先生が「じゃあ、ディベートを始めてください」と言われたので、一つ一つ例を挙げて比較してみました。生活スタイルの形の上では少し違うところがあるにしても、生活の基層にある文化の違いって、どんなもんなんですかね。よくわかりません。

 蓮風 そうですか。

 川口 安くて美味しいオーストラリアビーフが日本に輸入されて、調理されるようになったというのは、需要と供給の関係で説明できるのかもしれません。しかし、輸入された物を利用することと、先生の言われるように、考え方の根本部分を受け入れるというのは、随分違うことだと思います。

 蓮風 違いますかね。

 川口 人はどうしても母国語で考えてしまいます。我々の場合は、日本語で考えてしまうので、日本流の理解と言いますか、自分の生きてきた脈絡の中での理解になります。それを文化の受容というのかどうか、簡単に判断できることではないように思います。たとえば、キリスト教を自分で理解したつもりになることはあったとしても、その本質をヨーロッパの人達がキリスト教を理解しているのと同じように理解できるかって言ったら、そこのところは疑問です。

 蓮風 そうですね。だけど日本に西洋医学が入ってきてから、わずかの間でこれだけの勢力を持って、国から認められるところまで来ている。それを一つの異文化と捉えると日本人は結構器用に受け取っているんじゃないんですかね。ある意味では欧米の医療を越えるところまで来ていますよね。例えば万能細胞を発見して、それを移植手術に使ってみようと考えたり、次の新しい薬の開発に利用しようとしたりする。日本人は、そういう文化を受け止めて応用していくのがうまいですね。理解していないかもしれないし、猿真似かもしれない。そういうことを言うのは失礼かもしれませんが…。

 川口 たとえば、赤ちゃんが夜泣きします。疳(かん)の虫封じに、東北の山の中では、山伏さんのところへ行って、ご祈祷してもらうとか、お札を貰うだとかしています。あるいは赤ちゃんのヘソの緒を切ったら、下手くそやったらデベソになります。デベソを治すのに、お医者さんのところではなくてベテランの産婆さんのところへ行って対処してもらうのは、今でも行われています。それを医学というのかどうかは別としましてね。困ったことがあったら先祖返りして、伝統療法が脈々と生きているような気はします。しかし、伝統療法を利用する方も、血圧が急に高くなったとか、心臓発作で倒れた場合には、迷わず病院には行かれると思うんです。共生と言いますか、西洋医学も伝統療法も両方とも脈々と生きていて、生身の人間は、こういう場合にはこう、こういう場合にはこうと、使い分けをしているのかなという印象は受けます。
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 蓮風 そういう風に実際にはあるんじゃないかということですね。で、唐突なんですけど、先生にとって命、生命ってなんでしょうか?

 川口 ふだん考えた事がありません。考えなければいけない重要な問題ですが…。痛いところがない人は、健康や病気を意識しないと思います。自分もそうでした。ぎっくり腰で歩けなくなって初めて、改築前の近鉄学園前駅にエスカレーターもエレベーターも無いことに気付きました。障害のある方にとって、つらいことなのだと気付きました。生命についても、普段の生活では意識していませんが、阪神大震災の時にポートアイランドにおりましたので、緊張感がガッと高まって、ふだん考えない命の尊厳のことまで考えさせられました。生死の場に立ち会いますからね。

 蓮風 どこにおらはったって?

 川口 父が入院していたので、神戸のポートアイランドの病院の中におりました。

 蓮風 現場を見られたわけですね。

 川口 そういう時には、否が応でも感じます。

 蓮風 たくさんの人が亡くなりましたからな。

 川口 そういう時には、普段考えないことも考えてしまいます。

 蓮風 もう僕ら50年やっているんですよ、この仕事。そうするとね、まぁ軽い病気は軽い病気でやるんだけどね、重症も結構多くて、亡くなったって方も年間下手すると数十人になる場合もありますね。で、そういうことと常に繋がりながら診療をやっているわけで、なかなか人間が生きているというのは、ある意味で奇跡だなと思います。色んな点でね、本当は色んな力が支え合ってくれているんだけど、それを気づかないというのがほとんどですね。だから、そういう意味で昔から「賜る」ということを言いますね。貰ったもんやと。そういう感じはありますね。

 先日、初診で腎臓癌(がん)の方がいて、酸素吸入しながら電車で来たんです。舌とか脈とか診るとよくなることがわかったんで、それ以降、何回か治療して調子がよくなったんですよ。もう吸入器を外しても動けるようになっていた。ところがある日、可愛がっている自分の娘から、きつい事言われてそれがショックで一気に身体が弱ってしまった、電話で往診でもしようかと言ったら、「ぜひ来てくれ」と言われたので、行くつもりだったのに、その前に亡くなっちゃった。

 ちゃんとやれば助かるんだけど、その腕だけでどうにもならんこともあるんですよね。で、それはやっぱり運命というか、色んな大きな力で生かさして貰っているんだなってつくづく思いますね。だからそういう本当は助かるべき者が助からんっちゅうのは、人間の努力でどうにもならん部分がかなりある。で、そういうことに対して、生命というのはひとつの運命で繋がっているなという感覚を持っているわけです。だから大変な仕事でね、本当は。それを深刻に思っていくとね、ノイローゼになる位大変な仕事ですね。だけどもう、とにかく自分の存在を、鍼を持って少しでも苦痛を取ってあげる役目だと。人が助かる事をやろうということでね、自分の中で決着をつけるんですよ。だから後は、「人事を尽くして天命を待つ」という、もうこれしかないですね。そういう点で、生命と運命は繋がっているんだなという感じはしますね。<続く>