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初回公開日 2013.4.20

鍼(はり)の知恵を探る「蓮風の玉手箱」は今回から新しいお客さまをお迎えします。鍼灸師の藤本蓮風さん(北辰会代表)と対談されるのは宮内庁正倉院事務所長の杉本一樹さんです。奈良、平安時代の美術工芸品などを収蔵してきた校倉造りで知られる建造物が鍼灸や医療と関係があるのか? そんな疑問を持たれる方も多いと思いますが
……。時を超えて往時を彷彿させる宝物の数々のイメージとは少し違った正倉院の“奥”の深さをあらためて感じてください。(「産経関西」編集担当)

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杉本一樹(すぎもと・かずき)さん 

 宮内庁正倉院事務所長。
1957(昭和32)年東京生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。同大学院人文科学研究科中退。文学博士。主な著書に『正倉院』『正倉院あぜくら通信 宝物と向き合う日々』など。

 

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 蓮風 「蓮風の玉手箱」ではこれまで奈良を中心とする文化人の先生方に来ていただいて、お話をうかがっています。先生をご存じの方は多いと思いますが、私との関係も含めて簡単に紹介させていただきます。「宮内庁正倉院事務所長」という重責におられますが、私の中国語の恩師杉本雅子先生(帝塚山大学教授)の夫君でもあらせられ、我が藤本漢祥院の患者さんでもいらっしゃいます。どうぞよろしくお願いします。

 早速ですけども、正倉院は聖武天皇の遺品が主に納められているようですが、当時の医療はどのようなものでしたでしょうか? 素人にわかりやすくご説明頂ければと思います。7世紀の前半には鍼灸医学が大陸から伝わったとされています。こういうことも含めてどういう医療だったかという概要をお話し頂きたいと思います。

 杉本 はい。昨日この(対談で出てくる)質問項目のペーパーをいただきましてね、「試験問題」が出てきた!と思ったんですが(笑)、それから慌てて色々調べたんです。正倉院の物は、正倉院の宝物という呼ばれ方をしています。毎年秋に行っている正倉院展で少しずつお見せしているような、いわゆる工芸品が中心というふうに世間では考えられています。それはそれで正しいんですけど、もう一つ今日の話のテーマに即して言うならば、薬が、非常にたくさんの分量で、あるんですね。

 蓮風 それは現物としてあるんですか?

 杉本 はい。記録とともに、現物としても存在します。正倉院に薬が納められたのが西暦の756年。当時の年号で言いますとね、天平勝宝8歳といいます。これ難しい言い方ですね。余談になりますけど、奈良時代の真ん中頃のその時期だけ、4文字の年号が使われたことがあるんです。天平というのはよく知られた年号ですけれど、天平に続いて、例えば大仏様の姿が出来てそれにメッキするための金が東北で見つかったということになると、「天平感宝」、天がその志に感じて宝を地上に遣わしたというような意味をこめて、そういう天平感宝という4文字の年号ができる。それから天平勝宝、天平宝字というような4文字年号が続いて、その内のひとつなんですけど、「天平勝宝8歳」という年です。「歳」というのも中国風の言い方でね、8年と言えばいいのを、ちょっと気取って8歳という、人間の年齢の「歳」を使っています。その年、西暦の756年に聖武天皇が亡くなるわけです。で、亡くなられた後ですね、後に残された光明皇后、お妃が。

 蓮風 光明皇后ね。はい。

 杉本 有名な方ですけど、皇后が、聖武天皇の冥福を祈って、天皇が生前に愛用なさっていた品々を大仏様に納めるということがありました。

 蓮風 元々それは東大寺に寄進なさったんですね。

 杉本 そうなんですね。大仏と共にあることによって、後の世までずっと伝わっていくようにというのが献納の主旨でした。

 蓮風 なるほど。

 杉本 ところがね、その宝物が納められた、まったく同じ日に、またわざわざ別のやり方として、薬を60種、大仏様のところに納めています。別のやり方というのは、先のご遺愛の宝物目録とは別に、薬だけの目録を作って納めている、ということです。
 同じ日ですから、一連の物だったら一つに纏めれば良いのですけど、わざわざ分けているというのは、薬の方はどうやら一旦大仏様の方にお供えする。しかし、「お下がり」じゃありませんけれど、薬の方は病に苦しむような人々、当時の事だから多かったと思います。そのような、薬を必要とする人がいたならば、その薬を使ってその苦しむ人を救って欲しいという願いが、目録の中には記されています。

 蓮風 ほぉ。

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 杉本 こちらの方は少しずつ使っていって、結果として、いつしかなくなっても仕方がない。それが本来の目的、前提ということで納められたわけです。で、使った残りの薬と言いますか、それが今まだ正倉院に伝わっていると。

 蓮風 そうですね。光明皇后は施薬院や悲田院というものを作られて、たくさんの病者を治してあげられたということを聞いておるんですけども、そういうこととやっぱり繋がるんでしょうかね。

 杉本 おそらくそうだと思います。元々薬が大仏様のところに行く前に、どこから来たかということになりますけれど、やはり光明皇后、あるいはその出身の藤原氏、その富がバックにあったと見られます。お金で買ったか、自分のところの薬園で採取・栽培したかは別として、やっぱり藤原氏の力というものがあって、それだけの薬のラインナップを揃えて大仏様に納めたと。

 蓮風 あれは確か光明皇后自体が、藤原不比等という方の娘さんだと聞いておるんですが、それでいいですか?

 杉本 はい。

 蓮風 だからそういうバックアップもあったわけですね。

 杉本 それで聖武天皇の時代の一つの政策では、やっぱり今で言う社会福祉みたいな関心の強い政策が目立ってくる。例えば疫病が流行った時に、非常に具体的な、こういうことをすると身体に良いとか、これは身体に良くないとか。大仏に納めたレベルの薬は、当然全国の人々に行き渡るというのは不可能ですから、多くの人が実行できる民間療法的な方法で、衣食住にわたって細々と。

 蓮風 どっちかというとね、漢方医学の法則というよりも。

 杉本 だけれど、こういうことは迷信に基づくものだから、やらない方が良いよとか、ひじょうに具体的なお触れが出ていますけど、私はそれなんかも光明皇后がおられて、最終的には聖武天皇の命令として出てくるんじゃないかなと思っています。

 蓮風 なるほど、大きな働きをしておられるんですね、奥さん。

 杉本 いつの世でも奥さんの影響力が強い(笑)。

 蓮風 はははっ(笑)。そうですか、それで結局漢方薬が数十種類、60種類ですか、大体どういう系統の薬なんですか。漢方医学の原理とか法則とかじゃなしに、この病気にはこれが効くというような対症療法的な治療に用いられたんでしょうかね?

 杉本 そうですね、逆にね、蓮風先生が見たら、これはこういう法則があるというようなのがわかるかもしれないと思っていますが、いつかまた機会を得てお尋ねしようと思っています。薬の種類が60種類、今残っているのがその内の、何種類になるのかな、ああ38品目。胡椒などは、全部使って、なくなったと思っていたら、専門家の調査の折に、別の薬のなかに紛れて欠片が一粒出てきた、というような、そういう発見もあるのですけれど。

 蓮風 そうですか、確かに胡椒も使いますね、漢方に。一般にそこらの漢方薬は大体100種類あればなんでもできるというくらいですから、その当時の60種類というのはかなり多いですよね。

 杉本 お経を読むみたいに、目録(種々薬帳)をズラズラと読みますよ。麝香、犀角、犀角器、朴消、ズイ核、小草、畢撥、胡椒、寒水石、

 蓮風 はい寒水石。

 杉本 阿麻勒、菴麻羅、黒黄連、元青、青葙草、白皮、理石、禹餘粮、大一禹餘粮、龍骨、五色龍骨、白龍骨、龍角、五色龍歯、似龍骨石、雷丸、鬼臼、青石脂、紫鑛、赤石脂、鍾乳床、檳榔子、宍縦容、巴豆、無食子、厚朴、遠志、呵梨勒。この後は有名なやつで、桂心、芫花、人参、大黄、臈蜜、甘草、

 蓮風 ほとんど現在も通用する薬ですね。<続く>