蓮風の玉手箱

このサイトは、2011年8月7日~2015年8月29日までの間、産経関西web上において連載された「蓮風の玉手箱」を復刻したものです。鍼灸師・藤本蓮風と、藤本漢祥院の患者さんでもある学識者や医師との対談の中で、東洋医学、健康、体や心にまつわる様々な話題や問題提起が繰り広げられています。カテゴリー欄をクリックすると1から順に読むことができます。 (※現在すべての対談を公開しておりませんが随時不定期にて更新させていただます・製作担当)

2020年02月


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沢田勉さん(写真右)と藤本蓮風さん(同左)=奈良市「藤本漢祥院」

 鍼(はり)の力を探求する「蓮風の玉手箱」は公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談の2回目です。前回は鍼灸師の資格を取ってから大学で哲学を学び、35歳で医学部に入学した…というところまで話が進みました。今回は、その続き。蓮風さんが代表をつとめている鍼灸学術研究団体「北辰会」との関わりや首都圏から関西に移り住んできた理由などが語られます。遠回りに思えても人生に無駄はないという見本かもしれません。(「産経関西」編集担当)

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 沢田 友達が私の経歴を見るとね、「お前、何でこんな道草食ってんだ」って言うんですよ(笑)。

 蓮風 そうでしょうね。

 沢田 全くの道草好きというか、そういう人間なんだなと自分でも考えて思います。

 蓮風 なるほどね。それで結果としては、鍼灸師が先でドクターが後になるわけですけども、やっぱりドクターっていうのは、最初から憧れやから、鍼灸をやるにしても、とりあえず医師の資格をとっておこうということですかね。

 沢田 いや、そんなかっこうのいい戦略というのでは全くないですね。

 蓮風 あくまでも結果ですか。

 沢田 あくまで結果です。

 蓮風 そうですか。

 沢田 大学で哲学をやったけど、結局はモノにならない。でも、どうやって生きていこうか…?という問題があるわけです。元の鍼灸の仕事をやることも選択肢であったわけですよね。なんかね、物足りなかったんですよ。30歳を過ぎても何か物足りない、それだったら最初は医者になろうと思ったんだから、チャレンジしてみようかと…。で、受験勉強は何回もやってるもんですから違和感がなくて、頑張ってみようかっていうようなのがありました。

 蓮風 千葉大学の医学部でしたね、先生は。

 沢田 そうです。

 蓮風 千葉大学というのは、漢方・鍼灸にある程度興味を持っとった大学ですね。医学部の中でね。当時はそういう漢方・鍼灸に興味を持った医学部というのは少なかったですね。そういう中で選ばれたわけですか。

 沢田 そうです、はい。ありましたね、そういうのもありました。あとはまぁ、首都圏ですから、バイトもできるだろうとか、そういう打算もありましたしね。

 蓮風 なるほど。それから北辰会関東支部・初代支部長の中村順一君が肝臓病で亡くなるわけですけども、(北辰会の)みんなで手当てしながら、最後は沢田先生が勤務していた病院にお世話になったんです。だから沢田先生が主治医になられた。で、関東支部に在籍されておられたわけですけども、なぜ(関西の)本部に来られたのですか?

 沢田 関東では、埼玉協同病院という所で呼吸器を中心にした治療をしていたんです。何年か経って、東洋鍼灸専門学校時代の友達というか先輩から「たまに鍼灸の話を聴きに行ったらいいよ」という誘いがあって(北辰会とのつながりができた)。

 蓮風 それは誰ですか? お誘いしてくれたのは?

 沢田 ええー……。名前を忘れてしまいました(笑)。

 蓮風 そういうことを教えてくれる人がおったと。

 沢田 はい。それで、藤本蓮風という先生がいて、鍼灸をやっている先生の中で一番元気がいいと聞いたんです(笑)。

 蓮風 元気がいい(笑)。
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 沢田 実際に講演を聴きに行ったんですよ。

 蓮風 あっ、どこで?

 沢田 宇都宮(栃木県)だったか、あるいは群馬県のどっかですね。

 蓮風 ああ、はいはい。講習会をやりましたね、何回か。

 沢田 何回か行ったんですよ。で、その間にだんだんと、例えば(「北辰会」の)O先生だとかK先生だとか、そういう先生と面識ができたりとかして。

 蓮風 もうその時はドクターになっとった時ですか?

 沢田 もちろんあの、呼吸器科の仕事しながらちょっと悩んでたんですね。段々ね、医者の仕事がちょっとね、行き詰まるというか、同じ仕事ばかりしてるのが何か面白くない。たとえば若い人にも年寄りにも同じようにロキソニンとか、痛み止めを出してるじゃないですか。これで良いんだろうかとかね。

 (患者が)「痛い」って言って、凝(こ)ってるんだから揉(も)んでやればいいじゃないかと思うわけです。私は元々、鍼灸師でマッサージ師の免許もあるから触ってみたりするんですが…。なんか物足りないなというか、足りないものがあるなという感じがあったんですね。そのころ、友達の誘いで蓮風先生の講演を聴きに行ったりとかしたんですが、自分が知らんかったなと思って驚いたのは、内科の疾患をね、鍼灸で治してるという事ですよね。

 蓮風 それは藤本蓮風、それから「北辰会」を知ってからですか? それ以前にも鍼灸とは関わっておられたけれども。

 沢田 もちろん。それまではあんまり・・・。

 蓮風 これ非常に重要なことですね。

 沢田 藤本先生が内科の病気を治すと、「ああ、鍼灸ってそんな力があるのか!?」っていう(驚きがあった)。自分も鍼灸師やってたけど、実は、あんまりそういう考えで治療してたことがなかったし、また、そういう先輩も少なかったと思うんですよね。そういう事もあって、ちょっと違うものを見つけたという感じがありましたね。それがきっかけで、それから直接は中村先生の主治医になったりしたことで、中村先生に「こんなふうに年取ったけど、また鍼灸を再開してもなんとかなるもんやろか?」みたいなことを聞いたら、中村先生が「思い立ったが吉日だ」みたいな感じのお話とかがあったし、それから確か「お前ちゃんと勉強しろ」みたいなことで中医学の本を1冊もらったような気がするんですね。借りたって言っていいのか、亡くなったんで結局返してないので、いただいたって言っていいのか、よくわかりませんが、そういうこともありまして…。

 蓮風 初代支部長の中村順一君との出会いが、患者と主治医という関係であったけど、それを乗り越えて、鍼灸ということで非常に和んだ話ができたわけですね。

 沢田 そうですね、それはありましたね。医者は大抵、病院の寮に入るんですよ。で、何年かすると大体自分の持ち家を作ったりとか、要するに定住するっていうことを考えるんですね。そのころ、たまたま結婚してたもんですから、うちの嫁さんが京都に行きたいって…(笑)。

 蓮風 僕も初めて会って、ご挨拶いただいて、なんと若い嫁さんをもらったな、と思ってね(笑)。

 沢田 まぁ(私自身も)関西に行くのがいいなという気持ちもありましたね。それから、関東だと自分の仕事が固定してしまうんですよ。だいたい「呼吸器の沢田」っていう風になってしまう。で、鍼灸をやりたいから、どんな風な方法があるかっていうと、なかなか難しかったですね。そうすると、やっぱり環境変えて、場所も変えて一からやるほうがやっぱりいいのかなという気持ちがありまして。

 蓮風 そういうこともあったわけですね。

 沢田 それで、関西に行くという選択になったんです。はい。〈続く〉

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初回公開日 2013.11.16

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沢田勉さん=奈良市学園北「藤本漢祥院」

 鍼(はり)の力を探求する「蓮風の玉手箱」は今回から、公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談が始まります。いつもなら新しいゲストが登場される際には略歴を掲載するのですが、今回は“ネタバレ”になりますので、それは次回以降にします。これまで、このコーナーにご登場いただいた、お医者さんはユニークな方ばかりでしたが、沢田さんも興味深い経歴をお持ちです。文字から超然とした、というか、飄々とした、というか、そのどちらでもないような…そんな語り口が少しでも伝われば、と思います。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 先生との対談を楽しみにしておりました。というのも、鍼灸師におなりになってからドクターに、またその間、別の大学で哲学を学ばれたのは聞いております。なぜこのようなキャリアをお持ちなのか、そもそも鍼灸をめざされたのは、なぜでしょうか。そこからお話いただきたいと思います。


 沢田 現在66歳ですし、かなり古いことになりますので、略歴を言いながら、お話ししてよろしいですか?

 蓮風 はい、どうぞ。

 沢田 ドクターになりたくて、医学部の受験をしたんです。でも落ちるんですよね(笑)。だんだん自信がなくなって…。たまたま知り合いの中に鍼灸の先生の息子がいたりとかですね、あとはそのころ、鍼灸というのは少しブームがあったんですね。北朝鮮でキム・ボンハン博士が経絡の実態を解明した(とされた)り…。そういうようなことがあってですね、浪人してだんだん疲れてきて…。

 蓮風 ああ、そこから始まるんですか。

 沢田 そうです。医者になれんかったら、なんか技術者になろうと、もうそれしか食べる方法はないですからね。そういうようなことで、じゃあ鍼灸師をやろうかということで、柳谷素霊先生の作った東洋鍼灸専門学校ってありますよね、東京新宿・歌舞伎町。華やかなネオンのところを通ってですね、学校自体はちょっとみすぼらしいんですけどね。そういうところに通っていたんですね。たしか20歳だったと思います。学校に入学して、3年で鍼灸の免状を取りました。

 蓮風 それでまず鍼灸師ですか。

 沢田 はい。そのころは、経絡治療が中心だったんですよ。

 蓮風 そうそう。

 沢田 本間祥白先生(故人、鍼灸師)のね、『経絡治療講話』とか、そういう本で、みんなで勉強会をやったりとか。

 蓮風 それは学生時代ですか。

 沢田 学生の時とか、その後もちょっとそういう勉強をしたりとか、あとは小野文恵先生(鍼灸師、故人)が近かったんですね。

 蓮風 はいはい「東方会」(=小野文恵氏が臨床家を育成するために1970年に設立)。

 沢田 その学校の先生をやっていたこともあって、で小野先生のところに出入りして、治療を受けていたこともあります。

 蓮風 それは学生時代からですか。

 沢田  学生の時と、卒業してから。そのお弟子さんがやっている診療所にお手伝いというか、入れてもらって、自分も鍼灸を少しやったりとか、ですから20代のころに蓮風先生の名前を知っているんですよ。

 蓮風 そうですか。東方会とはね、当時非常に親しかった時代がありました。

 沢田 僕そのころね、(勉強会などの)会場を作るからとか言われて、椅子を準備したりとか、そのようなことをやってですね、小野先生から「明日、藤本蓮風っていう若い先生が来るんだ」っていう話を聞いたことがあったんですね。で、藤本蓮風っていう先生は、そのころも有名な方で、打鍼を使うということを、小野先生からうかがっていたんですね。そういうようなこともあって実は藤本蓮風先生の名前は知っていたんです、20代で。こういう関係になるとは全く思わなかったですけど(笑)。でも、時代ですね。周りが学生運動が激しくなったりとか、そういう時代があったでしょ。

 蓮風 ありました。
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 沢田 で、そうするとね、なんかこう世の中が騒がしくて、私は何をすれば良いのだろうと、みんなそれぞれに思ったりとか、色んなことがあって、何かね、哲学志向になったんですよ、時代が。

 蓮風 はい、それで後年、哲学を。

 沢田 はい、哲学に走る人とかね、色々いたんです。私もどっちかというと、そういうのが面白そうだと思った。世界をどう見るかとかね、今ではそんなにないでしょ。そんなこと突然やり始めたら変じゃないかと思われるでしょ。そういう発想というか、考え方が結構あったんですよ。

 それから、そのころマルクス主義とかね、そういう勉強したりすると、エンゲルスがね、色々書いた中に、これから論理学っていうのは、形式論理学と弁証法だというふうに書いてあるんですよ。そうすると、若者の私としてはですね、

 蓮風 結局、唯物論的な哲学に興味をお持ちになったんですね。

 沢田 そういうことですね。大学に行ってないから教養がないのかも、という思いもあったんです。ある音楽会に行くとね、良い演奏だとか、みなさんが身近で感想を言ったりとか色々するじゃないですか。私は、今の曲の名前の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」って、どういう意味ですかって質問したんですよ、そしたら音楽家が、何だ知らんのかっていう感じでね、アイネはひとつだと、ドイツ語やと。クライネは小さいんだと、ナハトはナイト(夜)だと、ムジークはミュージックだと言われて、小夜曲という風にいいますと言われて…。自分は何も知らない、勉強し直さなければいけないという気持ちがありました。そういう哲学志向と勉強したいという気持ちがあって…。

 蓮風 そしたら、まず医者をめざして、そしてそれは一遍で入れないからということで、鍼灸師になっておいて、でその間に哲学をやったということですね。

 沢田 いやそんなうまい風にやってないです。その時は一生懸命なんですけど。やっぱり挫折なんですよ、自分がどうも医者になれそうにないとか、そういうことで技術の道を自分が生きるためにはしなければならないと考えて、それはそれで、切羽詰まった気持ちでやって、それなりに全力を尽くしたんですが、上手く行かないということが残念ながら多いということですね。そんなところで哲学をやったり。

 蓮風 なるほど。どうですか、それは鍼灸、東洋医学をやる上で何か役に立ちましたか。

 沢田 今になってみると、論理としてね、ああいう世界、先生がやっている「陰陽論」とか結局論理学の世界になってくるじゃないですか。

 蓮風 そうそう、ロジックですね。

 沢田 ロジックですよね。で、そういう物からいうと、もう色んな社会だろうと、学問だろうと、突き詰めて行くと論理学、論理とかそういうね、哲学の世界になって…。

 蓮風 知らん間にそういう世界に行っとったわけですね。

 沢田 そうですね、そういうのは当然だなっていう風に。

 蓮風 最初からそういうのを求めとったわけではないけど、結果的にはそうなったと。

 沢田 ええ。そういうことでしょうね。後では役に立ったと思います。その時は、ヘーゲルなんか勉強してて…。

 蓮風 意外とそういうことありますね。

 沢田 弁証法を勉強してて(教員が)原書を読めというんですね。で、そうすると、まずひたすらドイツ語なんですよ。必死になってドイツ語読むでしょ。で、1年間で薄い1冊が読めるか読めないかというようなことをやってるでしょ。そういうようなことがあって、ヘーゲルの言っていることは難解で、だんだん分からなくなってきた。

 研究者をめざすような気持ちだったのですが、指導教官が「沢田君、君の卒業論文を見たけれど、やっぱりやめなさい。君にはどうもこれは合わないよ」というんですよ。指導教官というのはその人を伸ばすというよりも、この人があまり才能が無いと思ったら、やめなさいというのも、どうも指導教官のお仕事らしくて…。指導教官からそんな風に言われたので、ああやっぱりあかんかと(笑)。

 蓮風 いや、先生の話を聞いていると僕とね4つしか違わないんですよね。

 沢田 そうですね。だから時代がちょっと合うんですね。

 蓮風 ある程度ね、時代的にはほぼ同じ時代に生きているんです。で、その当時はもうマルキストというか、左翼系のね、ああいうのが一つの若者の憧れで、東大紛争に見られるようにね、東大の塔を支配したのは、そういう前衛的な左翼がね。

 沢田 はっきり言うと暴力ですけどね。

 蓮風 マルクス、エンゲルス、ああいった思想家を勉強することが基本やったんですね。

 沢田 そうですね。

 蓮風 その中で先生は?

 沢田 いや僕はヘルメットかぶってゲバ棒を持ったことは一度もありません(笑)。

 蓮風 そういうことができる人じゃないから、先生は(笑)。わかりました。それで、そうこうしている内に、千葉大学の医学部にお入りになったんですか?

 沢田 大学に哲学の勉強しに入ったのが27歳です。それから千葉大学医学部に入学したのが35歳です。

 蓮風 そうですか。ずいぶん時間がかかりましたね。〈続く〉

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奈良・山添村国保東山診療所での竹本喜典さん

 奈良・山添村の診療所で医療に取り組む竹本喜典さんと鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談も今回で最後となります。僻地ならではの体験が竹本さんの眼を鍼灸に向かせる理由となったようですが、これは少子高齢化が進む日本全体にとっても示唆深いことではないでしょうか。医療費が国の財政に大きな負担となっている現状を考えても、西洋医学を軸とした現代の医療に、もっと東洋医学を取り入れるのはコストを下げる意味でも有効なことかもしれません。おふたりの対談では、病気を癒やすのは「医学」だけでなく社会や人間関係、環境、家庭も大きく関係していることがあらためて浮き彫りになった気がします。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 僕も鍼を持ち始めて半世紀ですけど、ある意味では失敗だらけですよ。だけど、それを何とか成功にするように努力をしていく。その中で段々と自分の医学、医療に対する考え方が豊かになっていく。これもありがたいことやなぁと思います。

 竹本 蓮風先生熱いですから(笑)。

 蓮風 ちょっとクーラー入れますか(笑)?

 竹本 いやいや(笑)。いつも先生の話を聞かせてもらっていて、熱いなぁと思って聞いております。

 蓮風 理想とする病院ができるとしたらどのような病院を作られますか? ご自身がね、ここまで西洋医学を知って、漢方鍼灸もわかって、僻地医療の中から人間とか病気とかが見えてきた。その中から自分が患者さんとして入りたい病院はこういう病院だということを聞かせていただければ。

 竹本 そうですね、病院を作ることなんて考えてもいなかったんですけども、僕としては…。治療とか形とかではなくて、人が集まる〈場〉みたいなものが作れたらいいなと思います。病気でしんどい人、病気を克服した人、何となく助けてあげたい人、その家族、何でもいいんです。通りすがりでもいいんですけど、そういう人たちが集まってそこで話をしたりとか、コミュニティとして成り立つような、そんな〈場〉ですね。

 蓮風 昔の床屋さんとかお風呂屋さんみたいな?

 竹本 そうなんだろうと思います。何となく人が集まれる場みたいなもので。そこに何となく人がいるだけで、癒やされるとか。

 蓮風 ホッとする?

 竹本 そうですね、面白い人が居たりとか、話をしてもしなくてもホッとして帰れる。別に医療でなくてもいいと思うんですけども。そんな場ができるのがいいと思うんです。どうしたらそうできるかわからないですけども、人の集まる場を。そこには命とかを考えられるようなパーツもあればいいなと思っています。具体的じゃないんですが。

 蓮風 いやいや。我々も色々理想を持っているわけですけども、いずれは「鍼灸病院」みたいなものをね、考えていますんで。その折にはぜひ先生にも参加していただいて。

 竹本 なかなか面白いと思います。

 蓮風 できるだけ薬を使わんとやっていく。東洋医学には「食養」というものがありますよね。本当の意味で陰陽を使ってね、「食養」などができれば一番いいし。それからね、僕が今まで診た患者さんの中ではほとんどがね、まず食べ過ぎ、いらんこと思い過ぎ、それから運動不足。これが三大悪というか、今の人間が病気になる原因の3大柱ね、そういうふうに思うんで、それを解消するようなことをしたい。私は乗馬をやっておりますんで。患者さんをそこそこ治療したら馬に乗せてね、楽しく運動させてあげたい。やっぱり田舎に行かんとあきませんかね(笑)。
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 竹本 そうですね、これからの田舎の役割みたいなものがもうちょっと出てきて、いい形で田舎が活き活きしてくれば、いいなと思います。田舎の人は都会から見た田舎の魅力をあまり知らないんじゃないかと。まだ都会に追いつきたいとの思いが強いように思います。そういうのがちょっとずつ変わってくれば田舎も生まれ変わると思うんですけども。

 蓮風 そうですね。それからやっぱり「食養」という面から言うと、新鮮なお野菜が必要だろうし、やっぱり田舎に行かんとあかんのでしょうなぁ。大体、東洋医学をやるっちゅうのはね、大自然の中に囲まれて自然の動きが分かるということが大前提になりますから。この間から異常気象がどんどん起こってますね、地震とか竜巻とかが。異常気象が起こるということは、当然、人間の身体にも影響出ます。まさしく東洋医学は「人と自然は一体だ」っていうことを言っているわけで、そういうのを大都会ではちょっと分からんのですよね。大都会で実際開業している鍼灸師が多いんで、私はもうせめて植木鉢を置いて四季折々に変化することを悟らないかんということをよく言うんですがね。田舎だとそういうことを考えんでもまさしく自然が教えてくれますよね。そういう自然の動きと、先生どうですか? 患者さんを診とって感じられることはありますか?

 竹本 やっぱり東洋医学でいうように病気の時期とか…。春にめまいが多いとか、きれいにハマっていきますね。湿気が増えてきたら湿気っぽいのが増えてきますし、上手いことできているなと本当に思います。ようできたもんやなと思います本当に。

 蓮風 田舎に行くと色んな水があるんですけども、水と人の病気との関わりについてはどうですか? 先生今まで経験なさったこと。

 竹本 それも東洋医学のことですけども、やっぱり湿気で悪くなるケースは大いにありますよね。山添村ではお酒もものすごい呑まはるんですよ。だから酒を飲んで悪くなる人も多いですね。甘いもの食べて湿気を呼び込んでいる人も多い。

 蓮風 赴任された僻地はこれまでに2カ所ですかね?

 竹本 あぁ、そうですね。

 蓮風 だからあっちもこっちも見たわけじゃないからあれだけども。

 竹本 場所によって違います。(以前、赴任した奈良の)下北山村は凄く海に近いんですよ。病気として上手いこと捉えることはできていないんですけど、すごく大らかで暖かい日を浴びて大きくならはってんなぁっていうのを感じますね。そういう意味ではちょっと山深い所になってくると、またちょっと違った感じであるように思います。

 蓮風 草木と一緒で育つ環境、日当たりとかね、それから水とか養分とか違うように、人間も育った場所でね。
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 竹本 (竹本さんが卒業した栃木県の)自治医科大は学生が各都道府県から2、3名ずつ来ますんで、言葉もですけど、凄く気質の違いってあります。北の人はやっぱりきっちりしてる印象ですね。相対的に南の方がのんびりした人が多かったような。みんなそれでまとめると怒られそうですけど(笑)。

 蓮風 私も若くして開業したんですけれど、けっこう遠くからも患者さんが来たんです。とはいえ関西が中心なんですけど、同じ関西でも地域によって言葉が違いますね。

 竹本 言葉が全然違いますよね。

 蓮風 高野山(和歌山県)の方から来る人の言葉、それから紀州でも南と北で全然違うし、だいぶね、方言がいい勉強になりました。その方言がね、実は人間をある程度規定しますね。そういうことが分かってよくモノマネしたんです。(ものまねタレントの)コロッケがね、形態模写っちゅうのをやるでしょ?

 それもね、何でやり出したかというと最初はね、膝が痛いとか腰痛とかが多いじゃないですか。それ、どこに力が入っているのかな?って研究するのにはね、真似するんですよ。こういう形で動いているのは股関節やな。これは膝へ来て、しかも膝の内側の方へきているなというふうなことを研究しとったんですよ。それから発展して訛りがね、意外と人間を規定しているなぁと思ってね。有名な「よろがわのみるのんれ、はらららくらりや」っちゅうの…。

特に和歌山地方でダ行やザ行がラ行に変化するようで、「ヨロガワのミル飲ンレ、腹ララクラリや」は、「淀川の水飲んで腹だだ下りや」の意味。

 竹本 知りません(笑)。

 蓮風 いや、あるんですよ。言葉や方言はやっぱり人間を規定していますね。ダラダラした言葉やけど、あの辺りが大らかさもあるだろうけどだらしなさ、そんなんがあるしね。

 竹本 温かいですよね。方言って雰囲気がみんなそれぞれのなにか。

 蓮風 先生は温かいっちゅうの好きやな(笑)

 竹本 好きですねぇ。そういう感じ。

 蓮風 そうかと思うと喧嘩腰に喋る、いわゆる河内の方言もあるし。河内も北河内、中河内、南河内とあって、それも全部違うんですよ。面白いなと思ってね。一生懸命研究しとったんですよ。一つずつモノマネしましてね(笑)。

 竹本 そうですか。先生がそんな訛りの研究までされているとは。

 蓮風 先生も色んなところからこられるなら是非モノマネしてみてね。

 竹本 下北山は南北朝時代の関係で、お公家さんの言葉が残っているんですよ。

 蓮風 あぁ、そうですか、例えばどんな?

 竹本 「先生、膝の注射してたもれ。」って言われましたね。そういう感じ。山添村はどっちかっていうと、三重県の方の訛りとか入っていますね。「やれこわい」とか言っています。びっくりしたら皆。

 蓮風 だから言葉というのはやっぱり生活と密着しているから、そこらの人間を規定しますね。あるいは人間がそういう言葉にしていくのかもしらんけども。非常に方言というのは勉強になりますね。

 竹本 懐かしいですね。その言葉を聞いたら「あぁっ!」て思い出しますよね、人の事とかも。

 蓮風 そうですか。いやぁ今日はなかなか面白い話を沢山して頂いて、それも短時間の間に相当濃厚な話を頂きました。僻地であれ、都会であれ、人間まるごと観察して、自然の状況にも合わせてきっちり治そうとする“温かい”医療が大事ですね。鍼灸医学は、本来、そういう医学であり医療です。ありがとうございました。

 竹本 ありがとうございました。<終わり>

回からは、医師で、公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんとの対談です。

 

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