蓮風の玉手箱

このサイトは、2011年8月7日~2015年8月29日までの間、産経関西web上において連載された「蓮風の玉手箱」を復刻したものです。鍼灸師・藤本蓮風と、藤本漢祥院の患者さんでもある学識者や医師との対談の中で、東洋医学、健康、体や心にまつわる様々な話題や問題提起が繰り広げられています。カテゴリー欄をクリックすると1から順に読むことができます。 (※現在すべての対談を公開しておりませんが随時不定期にて更新させていただます・製作担当)

カテゴリ: 医師で僧侶の佐々木恵雲さんとの対話


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 初回公開日 2012.6.2
佐々木1-1

「鍼(はり)」の力を探る「蓮風の玉手箱」は今回から鍼灸師の藤本蓮風さんと、医師で僧侶でもある佐々木恵雲さんとの対談をお届けします。これまで以上にさまざまな観点から鍼が語られそうですが、まずは西洋医学と東洋医学の相違について佐々木さんが宗教観や自然観をもとにした見解を述べられます。全体の流れでいうとプロローグというところ…。つまり、これがまだまだ“前置き”ですから今後の展開の深さや面白さを推し量っていただけると思います。(「産経関西」編集担当)

 佐々木1-3

佐々木恵雲(ささき・えうん) 西照寺住職、藍野大学短期大学部教授。昭和35(196 0)年滋賀県生まれ。大阪医科大学卒業(医学博士)。西本願寺あそか診療所所長などを歴任。主な著書に『人生からの贈りもの―医療と仏教から見つめるいのち』『いのちのゆくえ医療のゆくえ』など。 (現藍野大学短期大学部学長)

佐々木1-2
 
 蓮風 先生、今日はどうもありがとうございます。「蓮風の玉手箱」にようこそいらっしゃいました。

 佐々木 ありがとうございます。よろしくお願いします。

 蓮風 先生は、西洋医学のドクターであり、医学博士であり、住職であられ、大学の先生、それから患者さんの立場といういくつかの目を持っておられますが、今回はいずれの立場でも発言していただいてかまわないと思います。これらを総合した立場からのお話でも結構でございます。それではまず、先生のこの医学についてのご感想をお聞かせください。まぁ長らく(鍼灸の)治療を受けておられる患者さんでありますから、そのあたりも色々お話がありましたらお聞かせください。

 佐々木 東洋医学について、ストレートに言うにはちょっと僕もまだまだ経験が少ないですので、まずは西洋医学とはどういう医学なのか、ということから掘り起こしていき、そこから東洋医学との違いを少しでも明らかにしていきたいと思います。

 まず、西洋医学、まぁこれは西洋と日本、あるいは西洋と東洋の大きな違いだと思うんですけれど、自然観、いわゆる英語でいう“Nature”というものと、日本でいう「自然」という概念が、実は根本的に違うという点があるんですね。これは後にも話になりますけれども、たとえば「宗教と医学とのかかわり」というような話に出てくるかもしれませんが、やはり西洋においては、ユダヤ教、キリスト教、まぁこれはイスラム教も含めて、もとは兄弟のような宗教ですから、その影響を強く受けているわけです。

 みなさんも聞かれたことがあると思いますけれども、キリスト教では、人間というのは神の姿に似せて創られている、だから人間というものは神聖である、という言い方をするわけです。

 神は人間に自然というものを与えた。自然というのは、いわゆる動植物を含めたNatureというものを与えた。ということは、西洋では自然は人間の思うようにしていいんだ、というようなことがスタートにあるんですね。ですから、いわゆる自然=Natureで言いますと、外なる自然というのは、たとえばこの世界ですけれども、その端的なのが、原発ですね。たとえば核分裂とか、原子力そのものも人間がコントロールできる。ですから西洋の特色は自然を人間がコントロールできる、制御できるんだというのが根本的なスタートであると。医学で言いますと、医学というのは、「外なる自然」だけではなくて、「内なる自然」、これが仏教とも関わっていて「生老病死」という、これがいわゆる「内なる自然」なんですね。この「内なる自然」もすべてコントロールできるというのが西洋医学の根本的なスタートなんですね。

 ですから、たとえば仏教ではこれを「生(しょう)」といい、呉音読みです。「生」というのは、「生まれる」ですが、「生きる」ではなくて「生まれる」。まず生まれるところからいきますと、たとえば受精卵検査。受精卵を前もって選別して、病気が出るのを(防ぐ)、まぁこれは優生思想に繋がるかもしれませんが、そういって産み分けができる。あるいは「クローン人間」……ちょっと下火になっていますけれども……を造るということも、すべて「生まれる」ということをコントロールできる、と考えていることですね。

 そして「老」、これはみなさんよく聞かれるかもしれませんが、「アンチエイジング」、すなわち抗加齢医学という医学が、今ものすごいスピードで伸びていますが、つまり「老い」というものをコントロールできると考えるわけです。

 「病」はもう言わずもがな、ですけれども、いわゆる臓器移植にしても、今盛んに言われています再生医療にしても、臓器を、ひとつの機械の部品のように交換していくという、根本的な考え方はそうですね。癌(がん)でも、その癌細胞を全部取ってしまう。それから感染症でいえば、外的である外から来たウィルス、細菌を徹底して叩こうという、そういうような医学なんですね。

 それから「死」。この死という問題、これはまた大きなテーマなので、今日は充分お話しする時間がないかもしれませんが、たとえば、死をコントロールすることはなかなか出来ないことは西洋医学の彼らでもよくわかっているのですが、わかっているけれども、なんとかしてそれをコントロール出来ないかと。ひとつには、「有用な命」とか「価値ある命」とか言って死を選別していく動きがあります。ですから、西洋医学というのは、内なる自然=「生老病死」をコントロールしていく医学だと、僕は、最近そういう捉え方するのもひとつの見方かな、と思っています。

 で、そしたら東洋的なものは何かと言いますと、自然観が全く違う。ひとつには、日本には、この間のご対談にも少し話が出ていましたけれども、神道では八百万の神が日本の自然にはいるというわけです。これは日本人の持っている根源的な考え方です。だから自然に対する畏怖といいますか、それが今回ものすごく出たのが東日本大震災ですね。

 僕、すごく印象的だったのが、イギリスの記者が来ましてね、「イギリスでは災害があんまりないから、経験したことがないので、私たちにはよくわかりません」と言うんですね。僕は「えっ?」と思いましてね。イギリスには災害がない。フランスにもないと言うんですね。あっと思ったんですけれど、よく考えたら、日本ほど、地震、津波、台風、火山、それから豪雪の被害…とこれだけの災害があるような国は、たぶん、世界にほとんど無いんじゃないですか? これだけ全部兼ね備えた国は。これだけ厳しい自然というのはたぶん世界ではないのではと。で、その中で、自然にはかなわない、というような考え方が日本には根強く残っています。それに対して、いわゆる文明というか、三大文明、チグリス・ユーフラテス両域、インド・インダス、中国の黄河・揚子江といったような所でもそうですが、最古の神話といわれているギルガメッシュ神話は、森の神を殺すところから始まるんです。中国の儒教もよろずの神を認めないという――。
佐々木1-4
 蓮風 中国の場合は、天の思想というか、まぁ広く自然一般というか……。

 佐々木 ユダヤ、キリスト、イスラムというのは兄弟の宗教ですが、同じ中近東の所から発生していますので、それらはすべて森の自然、いわゆる自然の神々を駆逐していく歴史なんですね。ですから端的に言ってしまうと、西洋の自然には神々はいない。で、それに対して日本の自然には神々がいる。あとで言いますけれども、西洋の医学のやり方というのは、ブルドーザーのようなものです。東洋医学のような繊細さ、先生が「繊細な治療ですから」とよく言われますが、そんな繊細さとは対極的なブルドーザーのようにザァーっとやる医療が西洋のやり方ですので、そこらへんが東洋と西洋とのまったく大きな違いといいますか、根本的な違いがあるんだろうなと思います。ちょっとあまり、東洋医学からの切り口ではないんですけれども、西洋医学から言うとこんなふうになるのかなと考えています。

佐々木1-5

 蓮風 今のお話を聞いていてわかるように、まぁ一言で言ったら、自然を征服する、だからそれにはコントロールが必要だ、というこのあたりの自然観というものが確かに大きく違いますねぇ。私は農耕民族というふうにも言うんですが、緑なす大地に生きていく農耕民族というのは、至る所に神様がおられる。汎神教といいますか、一神教ではあり得ない。天に向かっては天を拝むし、地に伏しては大地のそのお陰をいただく。いわんや農耕の場合、一人や二人じゃ出来ないんですよね。たくさんの人たちが協力し合ってはじめてそこに成り立つ。そういう、このお陰の思想というか、だから人間というものは、自然の中から生まれて、相対的に独立しつつも、自然と共に自然に生きるという考え方が東洋医学の根本をなしているんですね。

 ですから、今日も「熱出した」という患者がおった。「何時ごろ熱出た?」と訊くと、「夜中に熱が出た」という。これは非常に深い熱だな、とわかる。こういうふうに時間によって、季節によって、人間の身体が動くんですよね。今は暦ではもう春(注:対談3月21日に行われました)はですが、寒い寒い。もうとっても寒い。もう春分だといってもまだ寒い。

 まず我々(東洋医学)のほうでは、「寒い冬」には北西の風が吹いて正常なんですよね。菅原道真の歌で「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花…」というのは東風なんですよね。春になれば東風がもう吹かないかんのに、まだ北西の風が吹いとる。北西の風は何かというと、寒さと乾燥です。だから粘膜が全部やられちゃう。そこへもって、一応、暦でもすでに今(3月)は春ですから、春は春の芽生えを出して上へ上へと伸びようとしているから、人間も気も上に昇っていきます。春の上に向かう気と北西の乾燥した風の影響で、余計に目や鼻がやられて花粉症が出てくる。だからこれは実に見事に病気を作るようになっておるんです。そのあたりをよく考えると、大自然の動きによる人間の身体、そして人間の身体の自然状況はどうかということを常に尋ねていく、これが東洋医学だと思うんです。そういう意味では、先ほど先生が説明なさった西洋医学とは随分違っておりますね。

佐々木1-6
 佐々木 先生の仰るとおり、まぁ僕のつたない知識ですけれども、内なる自然と言いましたけれど、まぁそういう小自然と言ってもいいかもと思いますが、大自然と小自然とのバランスを取る、というのが東洋医学ではないかと。もうひとつ、西洋医学がすべてそうというわけではないのですけれども「病」ということでちょっと言ってみますと、たとえば西洋医学ではいろんな疾患名、病名をつけていくわけです。たとえば臓器別というような感じになりますけれど、私が専門としています糖尿病、あるいは高血圧。ただ誤解があるんですけれども、「糖尿病」という病気がなんかこう、独立して存在するようなイメージを皆さん持たれるんです。まぁ確かに糖尿病というのは非常に怖い病気でもありまして、それが進行していくと、非常に重い合併症、たとえば腎臓とか目とか神経に合併症を起こしてくるのは事実ですけれども、人間を離れてその糖尿病という病気が実態として存在しているわけではないんですね。
 
 あくまで人間というものがいて、その中に病気が存在するんですね。癌といえども、たとえば僕の身体の中にも、皆さんの中にも日々、癌細胞は生まれてきてるわけで、それを免疫の力で出ないようにしているのです。だから、そしたらその人のすべての人生が、すべてが癌なのかというと、そうではないわけで。

 だから「人間」っていうものを離れてしまって、西洋医学でいう病気だけを見てしまう。それが今の患者さんに多いかと思うんですね。ただ見方を変えると例えば糖尿病っていうのは、その人間の生活を現す病気ですね先生。食べ過ぎである、あるいは運動不足。その人の生活、習慣というよりも生活。生き方みたいなものを現す病気であるかもしれません。癌というのは、これは細胞が増殖する。で、実は癌細胞っていうのは、普通の正常な細胞より遥かに強い増殖能力を持っているのですが、人間の生命も根幹はやっぱり増殖することなので、ですから生命の本質を表してるところもあるんです。他を食い尽くしてでも生きたいというのが癌細胞の特徴なんですね。ですから癌という病気はある意味そういう生命の生き方そのものを現しているようなところもあるんですね。だから難しいわけですよ。人間の正常な細胞に似てるのにそれが悪いことするわけですが、それがまた巧妙に、正常な細胞との区別がつかないように、つまり免疫から攻撃を受けないように上手く体を隠すようにこう、恐ろしく絶妙な動きをしとるわけですよ。

 蓮風 ほう。

 佐々木 ですからそういった人間と離れて病気を考えてしまうと、何を見てるのかも分からなくなってしまう。例えば糖尿病でいうと血糖値を見てそれだけで判断してしまう。でも糖尿病だけで生きてるわけじゃないんで。だから、「全人的」って言うたらいいのかわかりませんけど、人をトータルに、病気も含めてみる。逆に言えば僕が治療を受けてて思うのは東洋医学、鍼灸っていうのは人間をトータルにみる医学なんだろうなって、そこが魅力なんだろうと。

 蓮風 そうですねぇ。そこで少しお話しさせて頂くと、西洋医学でも「プライマリ・ケア」というのが非常に意識されてきている。1970年代にきたらしいですけれども、多分、今先生がおっしゃるような、西洋医学の弱い点をなんとかカバーしようと。個別的にみるんじゃなくてトータルにみようと。人間のある側面だけ取り出してやるじゃなしに、もっとこう「全人的」という言葉を使いますけども、そういうことを追究する為に、過程というか、検査も良いけどもあらゆる面でその人の人間をみる。そういう立場をとってますねぇ。そういうことを東洋医学は実は3000年前からやっておるわけで。先ほど先生がおっしゃるように、癌といえども人間の生命においては非常に重要な意味を持つんだとおっしゃったことは非常に重要です。東洋医学は結局のところ病気というのは陰陽のバランスの崩れ。この中に癌も入ってると思うんですよ結局。だから癌があってもバランスが取れてるというのが非常に重要なことであって。まぁ別の言い方をすると正気と邪気という問題になるときもある。ですから今先生が西洋医学をおさらいしていただいたことは非常にありがたいことで、人間をトータルにみる。自然を含めてトータルにみるという観点が非常に大事だと思うんです。〈続く〉


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佐々木2-1

「鍼(はり)」の本当の力を伝えるため鍼灸師の藤本蓮風さんが各界の著名人と語り合っている「蓮風の玉手箱」をお届けします。前回に引き続き、医師で僧侶の佐々木恵雲さんとの対話です。今回は身体と心の関係を宗教と医療の両面から探っていきます。(「産経関西」編集担当)

 佐々木2-2

蓮風 仏教の立場から鍼灸、東洋医学をみられて何かコメントしていただくことはできるでしょうか?

 佐々木2-3

 佐々木 そうですね、僕もまだそういう面での研究者ではないので、あまり確実なことは言えませんが、仏教っていうのはインドから起こりましてね、一つのルートは中国を通って朝鮮に、でもう一つのルートは主に東南アジアを通る。

 蓮風 北伝仏教と南伝仏教ですね。

 佐々木 で、実は仏教にもお釈迦さんの時代には呼吸法を中心とした仏教医学が、おそらくあっただろうなと思います。
 
 蓮風
 うんうん。

 佐々木 けどもあまり残っていないんですね。

 蓮風 そうですね。

 佐々木 西洋とインドの大きな違いっていうのは、西洋は哲学と宗教と科学を、分けて考えていくんですね。インドというのは面白いところで、それがもうごっちゃになるんです。哲学も宗教も科学もすべて一つというのがインドの考え方。その中で医学も、仏教医療もあったんでしょうね。

 蓮風 そうですねぇ。

 佐々木 ただ今の仏教のそのものにはあまり残っていない。

 蓮風 そうですね、で、あの、少し私の話をしたいんですけども。子供の頃から私の父は浄土真宗、西本願寺の信者で、息子の私は全然そういうのは弱いわけですけども、ただ言われとったのはお釈迦さんが何故こういう仏教を説かれたか。何故我々は浄土真宗によって救われるのかを常々小さい頃から聞かされてた。そこでの話を聞くと先生が今おっしゃたように最初はバラモン教の教えを受けて修行をやっておられた。そういう修行をやって悟りが得られたかというと得られなかったとウチの父はそう言うんです。

 
 何で悟りを得られなかったというと、肉体を苦しめてもあんまり意味がないんだ、むしろ肉体を解放してあげることがある程度大事だと。修行に疲れ果てて、羊飼いの少女からお乳を頂いて飲んだら非常に気も栄えた、それから肉体だけを攻めてもダメなんだ、とおっしゃるようになった。肉体から心というのも重要なんだけども肉体を攻めただけではどうにもならんというのをお悟りになった。というようなことからね、浄土真宗の教えを教えてくれたんですよ。

 佐々木 その通りなんですね。お釈迦さんの生まれた釈迦国は都市型国家だったらしいですね。仏教は、非常に洗練された、都市型宗教だったのです。先生がおっしゃったようにお釈迦さんはそこの王子として生まれたことになっております。ですから若い頃は非常に快楽に耽った生活を送ってこられて、29歳でしたか、出家されたんです。バラモン教では解脱するっていうのは大きな目標ですけども、インドでは、非常にカースト制度というのが厳しいですので、そんなことができるのは一番上の身分の人しかできないという教えがバラモン教なんですね。ですからそのような難行、苦行をやった、つまり極端なことをやられたんです。


 だからお釈迦さんの魅力の一つは、始めから苦行してあんな悟りを開いたということではなくて、最初に快楽に耽るという快楽主義を経験されてから、それから禁欲主義という極端に走られる。みなさんがコーヒーを飲むときに入れるミルクに、「スジャータ」っていうのありますでしょ。それはそこの社長さんが仏教徒で、お釈迦さんが飲む牛乳を与えた娘の名前がスジャータといい、そこからスジャータという会社を作ったと言われています。でも、すでにそこでお釈迦さんはいわゆる精進してませんよね。

 蓮風 そうですね。

 佐々木 だから釈尊はお肉を食べちゃいけないって言ってるわけじゃない。最後亡くなるときは、これも諸説があるんですけども、一つは信者さんが御布施つまり物をくれたときに豚肉を食べてその豚肉が腐ってて食中毒で亡くなられたというのが有力な説なんですね。ですから肉を食べてはったわけで。つまり身体を痛めつけるだけではダメなんだと。身体と心が一緒というかね、それが仏教の「中道」と言われる、一つの大きな概念。これは中国では同じ意味で使われてる「中庸」という字で表すことが多いと思うんですが、仏教では中道という。これはさっき言った快楽主義と禁欲主義のちょうど真ん中を取ったというわけではないです。本当に人間があるべき道はここでしかないという道になるんです。そういった意味になると思うんです。で、釈尊の仏教は、中国に伝わったんですけれども、中国人ってなかなか凄い民族ですからそれを全部漢訳していったわけです。

 蓮風 そうですねぇ。

 佐々木 あらゆるお経を全部持ち帰りまして、中国流に受け継いでるんです。色んなものを受け継いでいく力ってのは大事だと思うんですね。

 蓮風 そうですね。

 佐々木 一つの全く新しいものを生み出す力、これを西洋では非常に重視するんです。僕ら科学論文というものを投稿してもですね、オリジナリティーがないと全然ダメなわけです。オリジナリティーというのはつまり誰もやったことがないことをいいます。だけどアジアの伝統として、中国、朝鮮、日本と受け継いでいく中でそれをアレンジしていく力、それも非常に重要だと思うんです。仏教に話を戻しますと、中国人はそれを中国流に消化吸収していったんですね。

 蓮風 それはね先生、言い方を変えれば、中国人の思想のなかには様々な思想があって、受け皿があると。考えてみると日本では鎌倉新仏教というのが密教系の仏教をある意味で凌駕した。これはやっぱりさきほど先生がおっしゃったように上の方の人たちは救われたけど、下の方の人たちは救われん。そこに鎌倉新仏教の様々な人たちがなんとか庶民を救おうということでやっとった。鎌倉新仏教の殆どは中国の漢訳を中心として、特に浄土教の場合、老荘思想が背景にある。仏教の「空」という概念も既に道教とか道教の考え方の中にあって、従って翻訳はしやすかった。

 佐々木 そうですね。

 佐々木2-4

 蓮風 そういう影響を朝鮮も日本も受けてアジアには受け皿があったという。それも自然が違うからちょっとずつ皆違うわけですね。そういうことを受け取っていくこと自体がね、やはり農耕民族の特徴じゃないでしょうかね。

 佐々木 そうですね。だから先生おっしゃる通りで、専門家は認めないでしょうけど、例えば禅宗というのは荘子哲学。先生お詳しいですよね。

 蓮風 はいはい。

 佐々木 ものすごく強い影響を受けてるみたいですね。先生が仰ったように、浄土真宗などの浄土教も、老子の影響がおそらくあるなというのは、間違いないと思いますね。

 佐々木2-5

 蓮風 そうです。

 佐々木 ただもう一つ東洋医学で僕のキーワードになると思うんですが、「身体性」という点ですね。「身体性」という、禅宗もそうですが、身体からアプローチしていくというやり方。以前、先生にお話したことがあると思うんですけれども、例えば、鬱病の患者さんですね。で、精神疾患と言われるものは、精神症状からスタートすることは絶対無いんですね。

 蓮風 もちろんそうです。

 佐々木 で、どういう順番で行くかというと、まずは身体症状が出てくるという。例えば、目眩(めまい)とか、肩凝りなどの症状です。その次に行動の症状が出てきます。例えば、会社で言いますと、遅刻したり、無断欠勤したり。

 蓮風 うん。

 佐々木 で、ここで、何らかの形で上手く介入ができるといいんですけども、そこがさらに進むと初めて精神的な症状が出てくる。それが例えば鬱病とか。それはどういうことかというと、人間は心が非常に大事ですから、それをしっかり守る為にですね、まずそこをいきなり…影響を受けないように、こう身体の面から。

 蓮風 ガードをしてる。

 佐々木 ガードしてる。ですから、いきなり、そのカウンセリングを含めて心からアプローチすると、僕も経験あるんですけども、あまり上手く行かないことがあるんですねぇ。

 蓮風 それねぇ、先生。臨床的に非常に深い意味がありますねぇ!まぁ、あのカウンセラーとか、その、心療内科とかあって、色々まぁ、カウンセリングやってる訳やけども…。うちらにもそういうこと受けて、まぁ、どうしようもない患者さんが来る訳。それでまぁ、「先生、どんな風に私、心持ってったらええか?」って言わはるけど、「そんな事せんでもいい。任しなさい。身体を私が解(ほぐ)して、身体を解して解して、解し切ったら、本当のあなたの心が出てくるから、もう任しゃええ」と言うんです。

 佐々木 うんうん。

 蓮風 こういうやり方やるんですねぇ。

 佐々木 そうですねぇ。
 
 蓮風
 そんで、体が解れてくると心がやっぱり冴えてきますから、観念も正しい方向へ行きますね。だからやっぱり、あの、先程のお釈迦さんの話じゃないけど、やっぱり、こう肉体だけを痛めきったり、何とか心だけをやろうというのは、やっぱり無理なんであって。

 佐々木 うん。

 蓮風 私は心という中身と、肉体という器という考え方をします。それで、その器をある程度治すとね。

 佐々木 うん。

 蓮風 勝手に良くなる。

 佐々木 うん。

 蓮風 心というのは本来は「心コロコロ」というね、動き回るんだ。その、動き回るという事が出来なくなったのが鬱の状態。

 佐々木 うん。

 蓮風 だから、身体をまず、調えてやる。これは医療として非常に重要なことだなぁ、という風につくづく思います。

 佐々木 おっしゃるとおりだと思いますね。だから、一部の精神科の先生は、その鍼灸っていうものを積極的に、取り入れるべきじゃないかと仰ってる方もおられるのは、そういった意味ですね。

 蓮風 そうそう。

 佐々木 「心身医学」は心から先に書きますけども、僕は身体からアプローチするっていうのが、本来だったんじゃないかなって気がするんですよね。

 蓮風 そうですねぇ。
佐々木2-6

 佐々木 禅宗なんかは、まずはとにかく座禅をしろと。

 蓮風 そうそうそう。

 佐々木 ズバリ座れと。これは身体からのアプローチですね。

 蓮風 そうですねぇ。

 佐々木 先生が前から仰っていましたが、歩くということを勧められて、僕も「歩け、歩け」って言われたんですけれども。それは先生、あの「ゆったり歩け」ってことは歩行禅。

 蓮風 そうそう。

 佐々木 そういうことにつながって行くんです。ですから、そこら辺が東洋のひとつの特色なんだと思うんですね。だから身体からのアプローチっていうものを本来重視していますね。

 蓮風 そうですねぇ。

 佐々木 その通りだと思いますね。

 蓮風 先程先生がおっしゃったように荘子の話なんですけれども、荘子には、内篇、外篇、雑篇とあるんですけども、内篇の中では非常に重要なことを言っておりますね。逍遥遊(しょうようゆう)篇という、この逍遥遊というのは「心任せの散歩」というような意味なんですね。あれは見事に心と身体の問題をこう、融合させた話なんで。だから、気持ちよく歩く。

 佐々木 うん。

 蓮風 「先生、荷物持ったりなんかしたらアカンって言うけど、なんで?」って聞かれるけれど、やっぱり、荷物持ったり、それから、せかせか歩くというのはね、これはやっぱり緊張するわけ。だから、「心も身体もゆったりする為にはダラダラ歩け」。それから、よく景色を見て、自然の移り変わりを見なさい。

 佐々木 うん。

 蓮風 それから年寄りが本当にふらふら歩いてるけども(笑)。あの姿が理想的なんだということで、私も休みの日は実践してる。1時間から1時間半くらい。

 佐々木 ふーん。

 蓮風 だいたいこの辺り、元々山があったところを切り開いているから、起伏が激しい。

 佐々木 ええ。

 蓮風 ものすごいええ運動になるんですね。

 佐々木 うん。

 蓮風 その間にブログの写真を撮ったり…。まさしく楽しんでやってるんですね。〈続く〉
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佐々木3-1

鍼(はり)」の力を伝える「蓮風の玉手箱」は僧侶で医師の佐々木恵雲さんと鍼灸師の藤本蓮風さんの対談の3回目をお届けします。「善」と「悪」は相反するものなのか…。宗教の「救済」とは何なのか…。今回はそのようなテーマでお話が展開していきます。それは、すべてが生まれては消えていく無常のなかで、人間の心や身体の「痛み」を取り除く医学や宗教の意味を問う試みともいえそうです。(「産経関西」編集担当)

佐々木3-2 
 蓮風 生きるっていうのは力まないっていうことがなかなか大切なことなんですよね。つまり楽な生き方。しかし、その楽な生き方もなかなか難しいですよね。
佐々木3-3

 佐々木 うん。

 蓮風 え~、楽なことやると、欲望の方に駆られると言いますから(笑)。

 佐々木 うんうんうん。

 蓮風 だから堕落に走らないということは大事。しかも、厳しくあり過ぎてはイカン、中道でないと…。これは誠に理想なんだけど、なかなか出来ん。

 佐々木 うーん…。

 蓮風 浄土教、浄土真宗の場合の教えというのは、やはり信心。「行」か「信」かといった場合「信」が大事なんです。

 佐々木 うん。

 蓮風 その「信」というのがまた、なかなか難しい。

 佐々木 難しい。

 蓮風 「これ信じなさい」と言われてスッと信じられるかって言うと…。

 佐々木 そうそうそう。

 蓮風 (信じきって)断崖絶壁から飛び降りるようなところがある。そういう世界だと思うんですね。だから、それを徹底できないからだんだんだんだん堕落していく。だから私は「信」というものを患者さんに最初に植え込むんです。最初は信じられんけど、まあ、信じんでもいいけど、信じるつもりでおってくれ、と。

 佐々木 うん。

 蓮風 治療してるとだんだんだんだん身体が軽くなる。

 佐々木 なるほど。

 蓮風 信じざるを得ない。

 佐々木 うん。

 蓮風 それが非常に信心という事が大事。

 佐々木 うん。

 蓮風 じゃあ、一般の人、病気でない人はどうかというと私の考えでは、その人なりの生き方の中に「道(みち)」があります。それを常々意識しておれば、それがだんだん、そういう信心の世界に入る。というのが、私、勝手な考えで。

 佐々木 そうですね。今、先生のおっしゃった「道」という言葉は非常に深い言葉で、もともと仏教とは、明治までは言われなかったんですね。仏教というのは仏法とか、あるいは、仏道、仏の道といわれていたんですね。ですからその道を究めるというのはとても大事だと思うんですね。僕も浄土真宗の僧侶、住職ですけども、先生がおっしゃるように信心、あるいは念仏とはどういうものかと言われると、中々難しいんですけども、親鸞さんはその、善悪を超えたものであると。ですから、やはり自然に良し悪しってものはないんだろうなって。それから、先生、それこそ陰陽と言われるものは、陰が悪くて陽が良いとかいうのではないですよね。

 蓮風 はい(笑)。

 佐々木3-4
 佐々木 ですから、やはりそういった点ではね、割合、なんと言うんですか。こう、シンクロしているというか。

 蓮風 ちょっと、近いところありますね。

 佐々木 近いところありますね。

佐々木3-5

 蓮風 かなりね、今のこの陰陽の法則というのは、また相対性という問題が出てくるし、陰陽の絶対性という問題も出てくるし、

 佐々木 うんうん。

 蓮風 まぁ、荘子哲学がある程度は解決しているんですけれども、荘子哲学の面白いところはね、論理性をね、否定するんですよ。


 佐々木 うん。

 蓮風 徹底的に否定する。で、それを否定するために論理をやる。ある意味ね、自己矛盾なんだけど、その哲学こそが面白いなぁと思うんですわ。

 佐々木 うん。

 蓮風 これからまた、お話に出てくると思うんですけども、人は本当に救われるかどうか?(笑)

 佐々木 うん。

 蓮風 ははは。私はむしろね、救われんなぁと、そういう感じです。その時、私はもう(親鸞の話をもとにした)「歎異抄」を高校3年生くらいだったかな? 読みましてね。ものすごく感動して毎晩毎晩、それを抱いて寝た。

 佐々木 うん。

 蓮風 まず救われんなぁという事が分かったんで、で、その中で親鸞さんと唯円さんが話し合いをしますよね。「どうも、救われんように思うけど」と言ったら、「お前もそうか」って…(笑)

 佐々木 うんうん。

 蓮風 はっはっは。やり出すんでね。「いや、実はわしもそう思う。だけど、そういう救われんものが救われるのが本当の真実なんであって」。

 佐々木 うん。

 蓮風 そこに阿弥陀如来の教えとか、そういうものがあるんじゃないか、っちゅうことを確か、話しておられたんじゃないですかね。

 佐々木 ええ。

 蓮風 だから最初から清らかな道じゃなしにまず、放蕩にふけって(笑)、そういう迷いに迷った中に何か一筋に光明を見つけて行くという…。これはやっぱり…大したもんですね。

 佐々木 そうですね。親鸞さんも最初は比叡山に登って、29年間修行して、これじゃ無理だということでおりられ、法然さんのもとに通われることになったのです。すなわち、方向転換されているわけなんです。師匠であられる法然さんはあの時代のスーパースターですから、知らぬ人はいない。「知恵の第一」と言われた。

 蓮風 そうそう!そうです。

 佐々木3-6
 佐々木 浄土教というのは中国なんかでは、日本でもそうですけど、一歩低く見られてたんですね、仏教の中では。いわゆる…「イギョウ(易行)」であり…。

 蓮風 うん、そうそう。

 佐々木 イギョウとは「簡単な行」って意味ですけど、低くみられてたんですね、あの時代では。その「知恵の第一」と言われた法然さんが、易行である浄土教を取り入れたってことは、これはもう物凄い衝撃的な、日本の仏教界にとっては事実だったんですね。でも言ってみたら、そんな法然さんでも方向転換してる。ですから、そういう意味では先生がおっしゃるように、やっぱり最初からその清らかな、まっとうな道に行くのが、人生ではなくて、いろんな挫折を繰り返しながらやっていくのが人生なんでしょうね、後でまた、根本的な話をしますと、救われるかどうかっていうのは、分かりませんけれども…。

 蓮風 ははは。

 佐々木 まぁ、分からないんでしょうね、結局。だから、そこら辺が、面白いとこかなって気がしますねぇ。

 蓮風 「歎異抄」について色々と言われるようになったのは明治以降ですよね。

 佐々木 うん。

 蓮風 それまでもあったんだけど、秘してねぇ、秘伝書として隠されとった。

 佐々木 うん。

 蓮風 これがねぇ、浄土…真宗のまた非常に難しいとこだろうと思うんですよねぇ。非常に「歎異抄」を読むと感動するんだけど、同時に危ういことを平気でいっとるんですよ、あの中には…。はそういう事が、やっぱこういう信仰という面においては非常に難しい。

 佐々木 そうですね。

 蓮風 でしょうね。

 佐々木 ええ。やっぱり、先程いいましたけど、念仏とかそういうものをその、善悪を超えたものであるという事は、これは間違いなくおっしゃってますんで…。

 蓮風 うん…。

 佐々木 善悪を超えるってことは、その道徳的な善悪も超えて行くという事ですから…。危ういところに行くわけです。ですから、実際にあの時代には、あの時は一向衆による過激な戦いも繰り広げられますね。ただ、あの当時の日本にも、人口の4割、ぐらいは、おそらく一向衆門徒ですね。

 蓮風 そうですねぇ…。

 佐々木 あと日蓮宗も非常に大きな勢力。この二大勢力が民衆の間でしっかりしていて戦争を繰り広げちゃうわけですけども、

 蓮風 そうですね。
 
 佐々木
 非常に過激な方法に走る可能性も。

 蓮風 そうですね。

 佐々木 ですから「オウム(真理教)」で、日本では宗教が非常に大きな打撃を受けたわけですけれども、これまた微妙な発言かもしれませんけども、宗教は元々やはり、非常にこう過激であり…。

 蓮風 うん。

 佐々木 非常に危ういところも…。

 蓮風 ありますね。

 佐々木 ある!あり得る存在であることも、これはやはり知っておかないと…。これから皆さん(=蓮風さんのお弟子さん)ら、若い人がですねぇ、それぞれのが思想信条がおありですから、それは自由ですけれども、宗教っていうのは、薬であると同時に毒も持っているということはやはり知っておかなければいけないですね。〈続く〉

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佐々木4-1
現代医学の中での「鍼(はり)」を考える「蓮風の玉手箱」をお届けします。僧侶で医師の佐々木恵雲さんと、鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談の4回目です。医療と医学は同じものだと思っていたのですが、現実にはそうでない…。そんな驚くような話が最初のほうから展開され、宗教と医療の関係へと進んでいきます。鍼治療を受ける患者としての佐々木さんの言葉も興味深いですよ。(「産経関西」編集担当)

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 佐々木 最初にも言いましたように西洋医学の根本にはユダヤ、キリスト教がバックボーンとしてある訳ですけども、日本では明治の時に、そこをあまり取り入れずに、その形だけを取り入れてきた。

 蓮風 そうですね。

 佐々木 で、問題がちょっと今、出てきつつあるかもしれない。形だけ取り入れたために。

 蓮風 うんうん。

 佐々木 魂は取り入れてない。医学と医療というのはですね、東洋では、先ほど言ったインドもそうですけども、医学と医療が一体化してる訳です。東洋医学も、東洋医学という思想の下に医療がある。だから、別に東洋医学では医学と医療が別個のものというイメージが皆さんの中にはおありじゃないと思うんですけども、西洋医学は違うんです。これはみんな知らない。あんまり気づかれてないんですけども、西洋医学というのは医学と医療というものが、今、分離したような状態なんですね。

 蓮風 うん。

 佐々木 西洋医学では現代医学が土台にある。それはいろんな考え方があって、例えば機械論とかあるんですけども、医学っていうのは一番遅れてきた科学と言われてるんです、科学の中で。

 蓮風 科学の中ではね。

 佐々木 その科学がどうしてキリスト教から発展していったかって言うと、先程言いましたように、キリスト教っていうのは、神から自然を与えてもらった。ということは自然は神が作っているから、その自然を精緻に分析して行けば、神の意図が分かるんじゃないかっていう、それがスタートなんですね。ですから、例えば、ニュートンとか、あるいはガリレオは…非常に敬虔なキリスト教徒。

 蓮風 うんうん。

 佐々木 自分らのやってる事は、その神の意志に適ってるという。それがもの凄い勢いで科学が発達してきた一つの原因です。その中で当然物理学というものが最初に、一番進歩していく。で、その中で医学というのは科学で一番遅れた学問であって、特に低くみられてたんですね。つまり論理がはっきりしない。「何故そうなるの?」ということが分からない。それが戦後、それはクリックとワトソンがDNAの螺旋構造を解明した、そこから分子生物学――モレキュラーバイオロジーという、全てを還元してみていく考え方ですけれども、分子生物学が勃興して、そこから医学というものが一気に発展していった。

 ただ、医療はもうそこになかなか追いつけないんですね。だって医療というのは、これはもう人が相手ですから、経験も必要ですし、これは東洋でも西洋でも違いないです。関係性ですね。人との関係性というものはもの凄く医療では大事でしょ? たとえば家族との関係や、職場での人間関係、人間関係のストレスが体調と強く関係している。だけど、そんな事を科学的に判断出来ませんよね。そういう人間関係などの関係性を取り入れる事は不可能なんですね。

 蓮風 お言葉に反する様な事言うかもしれませんが、いわゆる社会科学というのがありますね。あれはある意味でやっぱり人と人とのこの関係という科学的に追究する立場ですよね? それとは、どうなんですかね?

 佐々木 その立場は客観的な視点から見た社会での人間関係ですが私が話したのは二人称的と言いますか、主観的な人間関係ですね。私たちは社会的な生き物である訳ですけれども、たとえば肩書きというのは、その人の社会的な立場を表していて、他には家族としての立場、でもそれ以外いっぱいありますよね。

 蓮風 そうそう。

 佐々木 たとえば北辰会での立場とか、友人関係とか。それなんか全然表に出て来ませんよね?

 蓮風 せいぜいシステムが現れるだけのことでね。

 佐々木 そうですそうです。

 蓮風 社会科学に一時ね、私凝った事があるんですよ。これは素晴らしい、人間関係を築く、エ~労働者が天下取ってどうのこうのちゅう話なんですけども。しかしよく考えて見るとね、あれはやっぱり人間関係を物質に置き換えて機械的に捉まえようとする、ある意味、非常に単純なことですよね。だから今言うよう、先生がおっしゃったように、人間と人間の絆みたいなのは、あんまり出て来ないですよね。ね?

 佐々木 そうですね。マルクスなんかもまさにそうですね。

 蓮風 対立闘争が中心であって。

 佐々木 そうです。まぁあれもひとつの弁証法。

 蓮風 うん、そうそう。

 佐々木 マルクス思想では全てはモノ化されてしまう訳です。人を人として扱わない。

 蓮風 その辺りは問題ですね。
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 佐々木 問題ですよね。だから人間関係が入って来ると、科学で手に負えない訳です。だけど医療では、人間関係を考えていかないと病気は良くなりません。ですから西洋医学の先生が、医学はサイエンスで医療がアートやって言うんですけどね、なかなかきれいな言葉かも知れんけど、よくよく考えてみたら、科学者と芸術家なんて・・・どうすんやと。それはそうかも知れないけども。

 それに医学と医療が分離しているというのは、日本では特に顕著ですが、例えば大学の仏教学の教授がですね、素晴らしい仏教者かどうかは分かりませんもんね。
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 蓮風 それはまた別ですよね。

 佐々木 別ですよね。それは何となく皆さんわかるでしょ? 仏教学してる人が、もの凄くこう人間性豊かな仏教者かどうか分かりません。

 蓮風 あくまでも学問としてやるもんと、信仰としてやるのとまた違うんであって、

 佐々木 ただしね、これがですね、有名な大学の医学部の教授となると、一般の人は素晴らしい臨床家であるというイメージを持ってるはずなんです。そうでしょ? 医学部の教授やったら、お医者さんとして臨床家としては最高だろう。そう考えることが普通でしょう。

 実は医学部の教授になるには、科学的な論文、特に基礎的な論文の業績が第一なんですね。最近少しずつ変わってきてはいますが。

 ですから医療というのは二番手みたいなもんなんで、先ずは医学の研究が、医者として第一のこととなるのです。ですから日本では医学と医療が対立関係にありちょっと医療を一段下のものにみる傾向があるのかもしれません。

 蓮風 なるほどね。まぁそこであの~医学と医療は違うという事で、まぁ一般の我々臨床家はもう医療の方ですけれども、その医療と宗教との係わりについて少しお話頂くと有りがたいですね。

 佐々木 これまた難しいんですけれども、元々、西洋ではユダヤ、キリスト教がベースにあって色々生まれて来たということは、その影響が医学でも、医療においても強いことは間違いないんですね。たとえばホスピスとかですね、これはキリスト教の教会が中心となっている動きですけども、元々そんな事を考えても、西洋ではキリスト教がバックにあるのはもぅ肌感覚、皮膚感覚みたいなものなんですね。日本はちょっと特殊で、宗教と医療となるとちょっと一般の方も宗教者も医療関係者らみんなが構えるところがあるんですね。特にオウム真理教にはたくさんのお医者さんがあのなかに入って色んな問題を起こしましたし、あの事件以来、そういう意味で構えちゃうんですね。

 蓮風 そうですね。

 佐々木 やはり東洋医学でも先生がお話しになったように、老荘思想を含めた色んなものが当然バックにあるんですし、少なくとも医療と宗教は協力が出来るって事は間違いない。

 蓮風 協力できる。

 佐々木 ただ日本の場合どうですかね。宗教性っていうか宗教と言ってしまうとどうかなぁ・・・。自分もまぁ宗教家でもあるんでしょうけど、宗教性という様な形で捉えた方がいいかもしれません。たとえばカトリックはそこがもの凄く熱心で影響力を持ってます。カトリックとプロテスタントとでは、やっぱり全然違うんですね。で、カトリックは存在の論理といって、一人の存在はもぅ非常にかけがえのないものとして大切にします。まぁこれは先程最初に言った神から与えた神聖な命だからという事になる訳ですけども。ですからその倫理、医療倫理という中でもキリスト教のそういった考え方が、非常に根強く出て来ている。

 蓮風 で、宗教性というのは何か言うと、僕も色んな宗教を知ることが好きで、百科事典的なものも色々とみているんですが、怪しげな宗教は別として、大方の宗教は先ず感謝ということ言いますね。存在する事が素晴らしいという事と繋がるんかも知らんけど、多くの患者さんを診てるとね、どうもその感謝というのが足りないんでね。今自分がここ迄治ったと、それに対してやっぱり喜ばないかんのに、ごく当たり前で次もっと治らないかんって。もぅ完璧にこれ人間の欲望に捕らわれている訳ですね。そうじゃなしにここ迄来たんだからありがたい、ありがたいからもっと治療受けようという気持ちになるのとならないのとでね、全然効果が違う。これ先生も気付いておられる。

 佐々木 ええ、それ…。

 蓮風 もぅ文句ばっかり言うてね、一つもええとこ見んと悪いとこしか見ない。だからそういう人はやっぱね、効果も薄いですね。

 佐々木 でも先生のところでは、そういう患者さんは少ないでしょ?

 蓮風 いや、そんなことないですよ。だから喧嘩する、場合によっては。

 佐々木 そうですか。
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 蓮風 喧嘩しても本当の事教えないかんからであります。だから、そら先生おっしゃる様にね、かなり良い患者さん来てくれてます。だけど中には訳のわからん人もいる。その根本は何か言うと、自己中心的で、文句ばっかり言う、感謝、喜び、前向きな姿勢というのは欠けてますね。仏教だけじゃなしにあらゆる宗教が感謝なんかの大切さを強調しているだからそういう意味では、宗教を万遍なく見ておりゃ、毒の部分はあんま無いと思うんだよね。せやけど本当の宗教いうの、もっとこう深いとこ行くと、毒性の部分と深く係わるんで、それ先生も注意しておられたと思うんだ。だけど一般のこう宗教の全体を見ると押し並べて、どういう生き方をせないかんかいうこともそんなに多く変わりませんよね?

 佐々木 おっしゃる通りで、宗教というのは洗練化されてくるわけですよね。だから生まれた当初のものは非常に荒々しいもの、荒々しさというのはこれ毒と関係しますので、キリスト教にしても、いわゆる、十字軍みたいなのもやってたわけですから。しかしそれはもの凄くこうマイルドになって来てるから、いわゆる伝統宗教というものに関して皆さんが危惧する様な、そういう毒性は無い。しかし宗教は本来的、根源的には毒の要素があるのは確かですよね。

 僕が長らく(蓮風さんの)治療を受けて、どうかってことも関わって来ると思うんですけども、僕はやっぱ先生の鍼を受けて一番感じるのは、やった後ね、この身体と心がこう一致感といいますかね、これ言葉で表現し難いんですけど、一体感というのかな、いや~あの生きてて良かったなという思いにね、この感覚、本当の自分ってこうやったんや、先生がおっしゃる事に僕凄く大事だなと思うのは、凄くそのイライラしてる時にやっぱ人間って皆さんそうなんでしょうけど、色んな仕事上、或いは家庭でもストレス感じてても、言ってはいけない事、やってはいけない事しちゃうんですね。で、どんどんトラブルになっていくんですけど、その鍼を受けた後にその一体感の中で本当の自分っていうのはこうなんだ。その中で人にやさしくなれるって言うんですかね、穏やかになれる。でそこからやはりその感謝、有りがたいなという気持ちがわいてくる。

 蓮風 いやそれね、だから患者さんが「あぁ先生今日はもの凄く楽になった、ありがとう」って、さぁ、そのありがたいと言うのは本当はあんたの心だよいうこと、よく言うんですがね。

 佐々木 それは大きいですよね。

 蓮風 それがやっぱり一つの生命の本当の輝きなんであって、もぅあれやこれや、あれこれぐちゃぐちゃだと生命の輝きがないんで、そういう意味でね、僕は鍼をして身体をくつろがして本当の自分みたいなもんに気づいていく、これは宗教性だとやっぱり思いますよね。〈続く〉

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現代社会での「鍼(はり)」を考える「蓮風の玉手箱」をお届けします。今回は僧侶で医師の佐々木恵雲さんと、鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談の5回目。「恬淡虚無」とか「エゴ」「自己」「自我」「無意識」などと難しい言葉が出てきますけれど、それをおふたりが様々な現場での経験を通じて分かりやすく話してくださっています。現在の自分に見合った、それなりの健康を得るのは、それほど難しいことではないのかも。そして難しくしているのは自分なのかも、と思いました。(「産経関西」編集担当)
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 佐々木 状態の悪い鬱(うつ)の患者さんに精神科のドクターがどう言うかっていうと…。「仕事を辞めるなどといった大事な決断は冷凍して先送りにした方が良い」とアドバイスします。つまり身体と心が非常に調子の悪い時の決断というのは、本当の意味でその人の決断じゃない、本来の自己ではないんですね。そういうことを、西洋医学でも言う訳で、そういう意味では僕が感じている鍼灸の醍醐味というのは、やはり感謝することに繋がるんです。

 蓮風
 そうですね。

 佐々木 それを積み重ねて行くってことが大事なんだなと。それが人間の救済ということにも、おそらく繋がっているんだろうと思うんですね。

 蓮風 我々の東洋医学のバイブルに『素問』というのがあって、そん中に「上古天真論」ちゅうのがあるんですが、ここには何が書いてあるかと言うと、上古…、昔の人は立派だったと。一種の尚古主義なんですね。そこに「恬淡虚無なれば真気これに従え」という言葉があるんです。「恬淡虚無なれば」という事は、要するに心がさっぱりとして、わだかまりがないんだということ。非常に良いことを言っております。だから、そういう中でのこの、人の生き方として他人がうまいことやって金儲けしたからといって、それを羨んではいかんと書いてある(笑)。

 なかなか面白い事を言っておる。おそらくこれは、老荘思想の中の老子の考え方が反映していると思うんですけどね。それから「恬淡虚無なれば、虚にして精神内に守らば病いずくんぞ従い来たらん」心をしっかりねぇ持って本来の自分というものを大事に保てば、決して病気は入ってこないという、病気になる根本原因みたいなものを「心」においているんですね。

 佐々木 そうですね。

 蓮風 はい。これまでの話とちょっと矛盾するみたいですけど、実は裏表なんです。形を大事にしてその中身を大事にするか、中身を大事にして形を大事にするか、これは以前に対談した春日大社(権宮司)の岡本(彰夫)先生の話にも出てきたんですけどね、要するに裏表なんですね。だからある部分をちょっと強調してこっちを良くするか、こっちを強調して、あっちを良くするかというだけの事で、とにかく東洋医学の根本精神は「上古天真論」という篇名もにあるように「天真」、自然から与えられた生命というのは、誠に清浄なるもので、そこには淀みがないんだという話なんです。はい。

 佐々木 ちょっと関連があるかもしれませんが、仏教の根本的な思想には無我という考えがあります。それに対し自我はその対極にあるわけですけども、その自我がなかったら、僕らが意識しているのはどこなんだ、というのをよく聞かれるんです。これが西洋のフロイトが言ったエゴと考えてもらったらいいですね。

 蓮風 はいはい、エゴですね。

 佐々木 仏教というのは何を求めているかと言うと、自己、これはセルフ(self)なんです。先生が仰ったように、やってもやっても、もっと良うなりたい、もっと良うなりたいという欲望が出てくるのは自我がどんどん、拡大した状態なんです。本当にその人が求めるべきは、本来の自己を取り戻すこと。

 蓮風 そう、そう、そう。

 佐々木 それは仏教でもそう言うわけですけども、それにはセルフ、自己を取り戻すことはなかなか難しい。ユングの言うように色々な無意識の影響をうけますしね。

 蓮風 そう、そう、そう、そう。

 佐々木 先生の『鍼1本で病気がよくなる』(PHP研究所刊)にも書かれていますけど、「俺は何でも予言できる」という男の人が、鍼1本で夢を見なくなったというのがありましたね。

 蓮風 そう、そう、そう、そう(笑)。自分は修行によって、悟って夢でこう宗教的な予言ができるというて、ここ(奈良・学園前の「藤本漢祥院」)で、肩こりがあるから治してくれという。「あんた、それは病気やから鍼で治してあげる」って打ったんです。「肝兪」というツボだった。それから夢見なくなったんです。商売あがったりで(笑)。だから錯覚を一種の超能力みたいに思っているわけです。

 佐々木 そうですね。
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 蓮風 結構多いんですよ。これね。

 佐々木 自己というのは、当然いろんな無意識と繋がっていますから、たとえば親が亡くなった時にですね、自分の夢で見たと。それはその超能力でも何もなくてですね、やはり人間の本質的なところで、そういう繋がりあうものがあるという、そういうことがあっても、別にそれを非科学的とかですね、迷信であるというのじゃなくてですね、人間とはそういうものだというように、ユングが言っているような事、ある意味正しいと思うんですけどね。
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 蓮風 東洋医学は「気」というもので統一した考え方があるので、だから超能力を認めないわけじゃないんだけど、錯覚した超能力があるんで、それとは峻別せないかんと、いう風に思うんですけどね。なかなか世間的には、こんがらがっていますね。

 佐々木 えぇ、そうですね。

 蓮風 僕はその点では、非常に鋭い東洋医学の鍼をやっているおかげで、勘が鋭くて、これは本物か偽物か、大体わかるんですね(笑)。で、やっぱり「上古天真論」に本当の人間像というものは何かということが、ちゃんと書いてありますよ。飲食を節して、そしてどういう生活をするか、それによって健康になったり病気にならなかったりするんだ、というわけです。その中で一番中心になるのが、心なんだと説くんです。

 佐々木 だから先生が仰ったように、身体からのアプローチ、あるいは逆に(心の側からの)感謝ですね。心から、内面からの両方の表裏ということは非常に大事だと思いますね。

 蓮風 そうですね。

 佐々木 それが相乗作用といいますか、相互作用といいますか、それによって人というのは良くなっていくと。

 蓮風 そうですね。先生もドクターですから、本当に出会われたと思うけども、亡くなっていく人に対していったい何ができるかと。僕はすぐに擦ってやるんですよ。まず掌でね。一回やってみてください。その時に苦痛に歪んだ顔がねぇ、明るい顔になるんですよ。この手当というものの、ほんまの原点に戻ってくる時に、医療というものが輝いてきますなぁ。まぁそこには、そのまぁ鍼を打ってどうのこうのとか、それから薬をやってどうのこうのとか、注射をやってどうのこうのとかあるんだろうけども、最終的にはその生命を看取るものはやっぱり生命ですな。肉体を通じて擦るという姿が本能的に出てきますね。だからあのまぁ元気ちゅうか、そこそこの病気で来た人に、治療した後、僕は何やってるかというたら、うん、これで大丈夫だよと脈を診て、ポンと肩を叩いてあげる。

 佐々木 あれはいいですねぇ(笑顔で大きく頷きながら)。

 蓮風 ねぇ。先生にようやってますよね、僕。(笑)

 佐々木 あれは落ちつきますねぇ(笑)

 蓮風 それで何かが吹っ切れるんですよね。

 佐々木 うん。そうですね。

 蓮風 だから、不思議ですな、生命というものは。〈続く〉
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