蓮風の玉手箱

このサイトは、2011年8月7日~2015年8月29日までの間、産経関西web上において連載された「蓮風の玉手箱」を復刻したものです。鍼灸師・藤本蓮風と、藤本漢祥院の患者さんでもある学識者や医師との対談の中で、東洋医学、健康、体や心にまつわる様々な話題や問題提起が繰り広げられています。カテゴリー欄をクリックすると1から順に読むことができます。 (※現在すべての対談を公開しておりませんが随時不定期にて更新させていただます・製作担当)

カテゴリ: 医師で僧侶の佐々木恵雲さんとの対話

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「鍼(はり)」の力を伝える「蓮風の玉手箱」は僧侶で医師の佐々木恵雲さんと鍼灸師の藤本蓮風さんの対談の6回目をお届けします。一連の対談では、いつも「生」と「死」が大きなテーマになっていますが、今回はおふたりがさらに具体的に「生」と「死」について語ります。しかし誰も経験したことのない「死」を語ることは可能なのか…。そんな疑問について考えるヒントがたくさん示されています。(「産経関西」編集担当)
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 佐々木 死というものの一番大事なところは、経験した人が一人もいないことですね。だって経験したらそのままその人は、いないわけですから。経験した人が一人でもおればですよ、死ぬことはそんなに苦しい事じゃないし、大変な事じゃなかったよと言ってくれたら安心なんですが、誰も経験したことがないので誰もわからないですよね。だからそこに根源的な死に対する不安が人間に生まれてくるんだと思うんです。他は病気にしても経験できますでしょ。例えば癌とかいろんな病気をした人の話を聞くとちょっと落ちつく。大丈夫やでと言ってくれるだけで。だけど死はさすがに誰も一人として経験したことがない。

 蓮風 ただねぇ。亡くなる際にはねぇ形相に現れますなぁ。

 佐々木 あー、わかります。

 蓮風 ある本に書いたことがあるんですよね。もう肝臓癌(がん)の末期で、ずっと鍼を打ってきたんです。そしたら「危篤やから先生来てくれ」と言ってきた。「はいはい、行きますわ」と行って患者さんに「おい、どうよ」と聞いたら「先生、助けてぇ」というんです。「何かいなぁ?」と思ったら、そらもぅ周囲に亡くなると知らしたもんやから、危篤状態やゆうて、みんなヤイヤイゆうてお見舞いとかにやってくるわけです。「あれ(周り)がうるさいから静かにさせて」と言うんです。で、体を擦ってあげて「気分はどうですか」と聞くと、「ものすごく気持ちいいんですよ」と言うんですよ。

 佐々木 それも非常にいい話ですね。

 蓮風 ええ、僕はあれでね、やっぱりいい仕事やっとったなぁと思ってね。

 佐々木 だからその、死ぬ間際というのは五感が非常に鋭敏なんですよね。で、特に、人間の五感の中で実は視覚は、ものすごく後に発達してきた新しい感覚ですけども、聴覚はものすごく原始的な感覚ですから、これがものすごく鋭敏になるんですね。だから、全部聞こえています。例えば、病室の外の廊下でも聞こえてる、だから今病院でも近くで話すのは絶対ダメで、もし話すならもっと離れた所で話す。

 蓮風 それでね、先生。その後日談があるんです。亡くなった人は50歳代やけども、お母さんが70、うーん80歳近い、後で御礼に来て「あっー、申し訳なかったなぁ、亡くなったなぁ」と言ったら、「いや先生、あんな楽な死に方見たことない、何人かでくわしたけども、あんなに息子が楽に逝ったんやったら、死は怖くないかもしれない」とこう言いましたね。だから死というものは、確かに怖いけども、しかし、そこには生との延長線上にありますからなぁー。陰陽で言うと、繋がっているわけですから、患者さんのその表情とか身体の状態にやはり出てくる。

 佐々木 なるほどね。
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 蓮風 だから西洋医学は、ああいう場合は多分ね、モルヒネで眠らせてしまうんですよ。眠らしたから痛み取れたかどうか…。それはそれこそ先生、死んで生き返った者に聞いてみないとわからんけども、とりあえず、西洋医学では、眠らせてしまおうとするんでしょ? あれがね、私、医療としては本当にどうかなあと思うんです。それは何でかというと、生命の輝きが出ようとしているのに、それをまぁ、ある意味で暗くしてしまう、そういうことから考えると、僕らがやっている、その身体と心のバランスをとって苦痛を無くしてあげる、おまけに医療人として触ってあげる、そこに安らかな死というものがあれば、これはやっぱりすごい事だなぁと思います。

 佐々木 先生が仰ったように、生と死というのは、仏教でも言いますけど、表裏なんですね。だから生きている我々も医学的に言えば、この細胞がどんどん死んで入れ替わっていくわけで、生と死というのは、常にこう、生まれた時から表裏なんですね。先ほどの先生のお話でもありましたけれども、死をその最後の際の、そのポイントとして見てしまうとですね、死は怖いんですね。

 蓮風 そうですね。

 佐々木 今、仰ったように生と死というのは、表裏にあると、常に死は生の裏にあるんだというような考え方が非常に大事ですね。

 蓮風 そうですね。先年ね、私、インドに行って、あのガンジス川、すごいドロドロした川に朝5時くらいに起きて沐浴に行ったんです。すごいですなぁ、もうーねぇー、ちょっとした服装で、ドボンと入ったんですね。その上では洗濯物をジャブジャブやってるし、その下ではまた排泄物を流したり、もう、すごいですわ。その中で一番興味を持ったのは、対岸を見ると煙が沢山上がっているんです。遺体を焼いているんですよ。焼いた思ったら、パァーと灰を川に流す、そして次の遺体を焼く、これまぁ、すごいですなぁ、インドの人の通訳は「いやいやお客さん、大丈夫ですよ、これまた生き戻ってきますから、今、仮の状態でこないなっとるだけですから」ってなことを平気で言うんですよ。ですから生と死が具体的に繋がった世界をね、インドの人たちはどうも持っている。生き返ってくるんだから全然心配ないんだと、で、ダァーと遺体の灰をね、川に流す。そして次の遺体を燃やす、というようなことが沢山ありました。現地で質問すると、生と死は実は繋がっているから必ず生きて戻ってくるという答えが返ってきたんです。転生と言いますか、転生というものを彼らは具体的に信じているわけですね。

 佐々木 そうですね。

 蓮風 日本人は観念的に知っているんだけどねぇ。

 佐々木 日本人はやっぱり、その西洋的な影響もあるかもわかりませんけど、直線的な生と死の関係が多いですね。
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 蓮風 そうですね。

 佐々木 生まれて、直線的に最後の終わりが死であると、そこで終わったら終わり、全て終わりという考え方が非常に多いです。ただインドの人たちは円環的といいますか。

 蓮風 循環的ですね。

 佐々木 循環的ですね。この考え方というのは、非常に大事ですよね。

 蓮風 そうですね。東洋医学もやはり循環で捉えていますね。『荘子』の中にねぇ、人が生きるというのは、「気」が集まってきて、人を生ずる、「気」が散ったらあの世へ逝く、せやけど完璧に無くなったんじゃなしに、その「気」は次のまた生を作る元だとちゃんと説いとるんですね。

 佐々木 うんうん、なるほどねぇ。

 蓮風 農耕民族は季節の移り変わり…。必ず春が来て夏が来て冬が来たら、必ずまた春が来る、それを知っている訳ですね。人間の場合「生長化収蔵」というんですけども、生まれて成長してそして衰えていく、それがまた戻ってゆく。

 佐々木 そうですね。仏教で言う生老病死は、直線的に生・老・病・死で終わってしまうんではなくて、こう、連なってるんです。死がまた生に繋がっていくんだよと、だから一つのサイクルであって、特別に何か死が悲しいものではないというんですね。そういった考え方があるんです。

 蓮風 そうですね。陰陽についてちょっとまとめているんですけども、循環というものの考え方は、ものすごく大きいですね。ワトソンとクリックの二重螺旋構造を上から見るとねぇ、クルクル回っているだけなんですねぇ、だけど横から見ると螺旋状に展開していくわけなんです。そういうことを考えると循環という考え方も、ものすごく大事ですね。

 佐々木 そうですねぇ。だから何かこうー、安定した形というのが循環なんでしょうね。一直線だとポキッと折れてしまう、鴨長明が言ったように、行く川の流れは絶えずしてという、水の流れる様の、水のあの柔らかさですよね。そういった循環という考え方というものは、ものすごく大きいものがあるんですよね。

 蓮風 そうですよね。

 佐々木 特に日本は水に恵まれてますから、農耕とも関係します。それがやっぱり、すごく感じ取るものがあるのかなぁと思います。

 蓮風 鴨長明の話でいうと、水におけるやっぱり一つの移り変わり、無常感や循環というのは、やはりあるんですね。

 佐々木 あるんですねぇ。今、先生が仰った無常は仏教では、最も大事と言われています。その無常とは、いわゆる無常感のように、寂しいなぁーというのと捉えがちですけども、そうじゃなくて、また戻ってゆくという前向きの考え方なんです。〈続く〉
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現代社会での「鍼(はり)」を考える「蓮風の玉手箱」をお届けします。僧侶で医師の佐々木恵雲さんと、鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談も7回目。今回は「教育」がテーマとなっています。豊かさの中で、日本人が失ったものを見つめ、現在の混迷の理由にも話がおよびます。ただの「今の若者は…」っていう話じゃないですよ!(「産経関西」編集担当)
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 蓮風 教育の現場から見て、今の学生についてご意見があれば伺いたいのですが…
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 佐々木 (日本の教育を対象にした)面白い研究してる人がいましてね、ウィーンの方ですけど。学生は特に大学生は、講義でも「ここに居ったらええやろ」と…。寝ようが寝まいが、日本の学生はここに存在してたらそれでええやろという考えだというんですね。

 蓮風 先生のところは特に看護系の学生でしょ?

 佐々木 そうです、そういうのいっぱいいます。どこの学生でもそうやと思うんですね。確かに、存在の大切さっていうのは大事なんですが、政治的、経済的混迷打開の一つとしてリーダーを育ててるということになれば、やはり外国人は選択する、チョイスするという力が重視しますよね。決断にもつながりますけども・・・。そういう意味では、今の日本の学生たちの「居たらいい」という考えは問題かもしれません。

 蓮風 僕も大学に教えに行くんですよ。学生のほとんどは、医療についてなんらかの意識あるかというたらほとんどないです。その証拠に、私が臨床に関する大事な内容を講義している最中に大勢居眠りして、講義中に教員が居眠りする学生を起こしてまわるんですよ「起きて勉強しろ」と。そう言うとしばらくして、また寝るんですね。でもまぁ、僕は起きて騒がれて邪魔されるよりはマシかいなと思うんですけどね。はっきり言ってがっかりするんだけど、中にねぇ、100人の中に1人か2人、目の輝く子がおります。これが居ればまぁ、ええかいなと。本当に情けないけども、こんだけ人数おってたった1人か2人かっていう感じなんだけども、なんか意欲がないというかね…。先生が言うように何で自分はこんな所にいるんやという意識がほとんどないですよ。

 佐々木 なんかこう受身、受動的といいますかね…。これも本が出てますけども、ドイツ人の禅宗のお坊さんが書いているのです。非常に面白いなと思ったのは、ヨーロッパ、アメリカでも、親子関係よりも、夫婦関係とか友人関係を大事にする。それはなんでかというと、それは本人が選ぶからです。夫婦も相手を選びますよね? 友人も自分が選ぶ。でも親子っていうのは選べないですよね。

 蓮風 そうそう。

 佐々木 僕、以前から「なんでかなぁ」と思ってたんですけど、有名なハリウッドスターがいっぱい養子を育ててるのは、自分が選んでるわけですよね。ですから、ある意味の厳しさがある、選び取る、自分の生き方を選び取るっていう…。それが日本の場合、ええところもあるんでしょうけど、親子を大事にする、縁というか、そこらへんが今の教育とか国際化という中で、他と色々やっていく上でマイナスな面が多いのかもしれませんねぇ。
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 蓮風 やっぱり貪るような、学問とか教養とかね、そういうものに対するいい意味での欲なんか、あんま持っとらんね。なんでそうなるか言うと、どうも物質的になんでもかんでも与えられるからじゃないですか。僕は昭和18年生まれで、戦後の、今から振り返っても日本の教育が一番良かった時代です。物がない。幼稚園のころ、アメリカから来た粉乳を与えられて、「マッカーサーのおかげだよ」とかなんとか言って先生が出してきてね。まずいけど、それでも食べ物がないから…。おやつ言うたらさつまいもをふかしてね、それからお母さんが蒸しパンを作ってくれる。ホットケーキなんか言ったらとんでもない良いおやつなんですよ。ところが今は貧しいと言いながら金出しゃ何でもあるわけですよ。それに対する感謝がない。あって当たり前やと思ってる、与えられて当たり前やと。そういう意味では不幸ですね。

 佐々木 たとえば、医学部の学生でもそうなんですよ。僕らの時はまだ教科書は英語しかなかったんですよ。日本語訳ってなかなかすぐ出なかったんですけど、いまはすぐ日本語訳って出ますんでね、英語よりまず日本語で読めちゃうわけです。そうすると、先生のおっしゃる「貪るような知識欲」っていうのが、生まれてこないかもしれません。たとえば中国でも、おそらくそんなにすぐ中国語で出ないはずなんです。日本が一番そういうのは恵まれてるんですね。本当は学生が必死になって格闘せなあかんのですね。だからワープロとかでも日本語のソフトすぐ出るんですよ。あれ日本だけやって話を聞いたんですけどね。外国ではみんな英語でやらざるを得ないわけです。そうすると英語と格闘せざるを得ないわけです。そこらへんの貪欲さは必要ない。先生がおっしゃる様に、逆に不幸なのかもしれません。

 蓮風 そうなんですよ。

 佐々木 表裏ですから、便利ということは何かを失ってるわけで…。そういうのはあるかもしれないですね。

 蓮風 何を軸に生きてるかというのが全然見えてこない。親が金をくれて学校に入って、それで自分はそれなりに我慢して寝とってもいいから大学を卒業すると、一応、大学卒という学歴が与えられる、そういうことに平気で甘んじますね。

 佐々木 そうですね。先生のところの治療法は、問診や診察を非常に大切にされますでしょ、体表観察とか。それはある意味、現状把握、つまり現実を非常に厳しく認識しているっていうことですよね。日本人はこれ一番弱い部分ですね。現実っていうものを直視できない。そこらへんは欧米と比べると日本人の力って弱い。現実をそのまま、ありのままに見ていくという、仏教でも現実をあるがままに見るっていうのが最も大事なんです。

 蓮風 そうですね、正見(しょうけん)、正思惟(しょうしい) 、正しくものを見、正しく考えると言っていますね。
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 佐々木 そう、そうです。現実を直視する力が、日本人は、どうも弱い。それから、たとえば鎌倉時代とか、戦国時代とか明治の最初のころのような時代の転換期には、日本人にもその力が出るんですね。そこから状況が良くなると、とたんにその力が失われてしまうようです。そうすると現実把握できないから、本質の見極めができないんですね。本質の見極めができなかったら優先順位が立てられない。それが今のリーダー不在のひとつの原因かもしれません。だから「日本どうしたらいいんや?」という状況になってしまった、という気がしますねぇ。そういう意味では、教育でいうと先生のところの内弟子制度みたいなのは、大切だと思います。

 蓮風 そうそう。

 佐々木 経済的には、日本の「ものづくり」が弱くなってきたといわれます。ただ、ものにも神が宿り、ものを大切にするという作り方、これは日本人独特なんですね。そういう意味では若い人が内弟子で入って、先生の背中を見て巣立っていくっていうのが見直されるんじゃないですか。

 蓮風 私は大事やと思いますよ。そんでね、現在の中医学、中国医学ですね。中国の大学も、そこは反省してるんですよ。大学も6年で医者の免許取れるわけですけども、それだけではね、医学者が育たんのですよ。だから、僕らが仲良くしてる広州中医薬大学も、先生たちは内弟子制度を作って、その環境の中で、いい医者を作ろうという運動をやってるんです。結局、知識で頭の中に入っても、実際の患者にあたって、どういうことやろうかということになると、もう実践しかない。そういう意味ではみんな内弟子になったほうがいいんだけど、それが全員にはできないんですよ。

 佐々木 できないですよね。

 蓮風 だから選ばれた人ですよ。 (内弟子に向かって) 君たち入ってきた最初に言ったのはそういう事やったと思うんだ。

 佐々木 だから逆に年とると、あの時代は最高やったと、みんな思いますわ。先生と寝食共にした何年間があったというのが、どれほど貴重な時間だったかということが、今はわからんでも、後になればね。

 蓮風 それがね、また面白いことがあるんですよ。うちの弟子たち…、たくさんの卒業生おるんですけど、「先生のところにいた時は、鍼は効くもんで、それが当たり前と思ってた。ところが、外へ出たらね、そんなに効かないんですよ。あれは不思議ですわ」っていうんです。「お前がそれを勉強せんといかんやないか。俺がせっかくお手本見せたんやからそれをやらなくちゃいけない」と言うてやったんですが…。あっはっはっは(笑)

 佐々木 いやでも、その通りなんでしょうね、ふっふっふ(笑)。

 蓮風 内弟子に入ってそれですわ。〈続く〉
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「鍼(はり)」の力を伝える「蓮風の玉手箱」をお届けします。僧侶で医師の佐々木恵雲さんと、鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談も終わりに近づいてきました。8回目の今回は「徒弟制度」について考えます。なにやら古めかしい雰囲気の制度で、現在ではもっと効率的な教育システムに置き換わってきているようですが、何かを得れば何かを失っているのが世の常。師匠と弟子の関係のなかで育まれてきたものは大きいようですが、失ったものの価値すらわかりにくくなっているのが現代なのかもしれません。(「産経関西」編集担当)
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  蓮風
 (蓮風さんが代表をつとめる)北辰会には300人くらいおるんです。本当はみんなを内弟子にしたいけどそれは出来ないですね…。徒弟制なんてもう、古いことは古いけど…。職人には大切なんじゃないですか。たとえば仏様を彫る人…。

 佐々木 仏師ですね。

 蓮風 仏師がね、職業化する前の、ホンマに仏様を形で表さしてもらおうという連中と、職業で作ってるのとは違うんですよ。正しく魂が入ってるか入っていないかで(笑)。だから、非常に古い時代の仏様はそういう傾向がありますな、仏師さんが作ったのね。近代の、まぁ綺麗な仏さんは作っとるけど何か力がないというか、ありがたみがないというか…。

 佐々木 ひとつには運慶・快慶の時代のですね、ああいう仏師たちが…。

 蓮風 鎌倉時代の仏師ですよね。

 佐々木 あの時代は完全な徒弟制度ですよね。その制度の中でチームのようなものをつくっていた。

 蓮風 大勢の弟子を抱えてやってるんだけど、あんだけのもん作っているわけですね。

 佐々木 分業制度を取っていたんでしょうけど、それが師匠の心が伝わってやっぱひとつのものになるというのは素晴らしい。

 蓮風 大工の西岡常一(1908~1995年)という方が薬師寺(奈良県)の建物の解体復元や再建をされましたね。

 佐々木 うん。

 蓮風 で、それもやっぱり、凄いセンスを持ったお師匠さんがおって。

 佐々木 そうですね。

 蓮風 それで弟子がね、技を伝えていく師匠となる候補生が集ってくるんですよ。

 佐々木 うん。

 蓮風 それだけど、その中で残るのはほんのわずかなんですよ。やっぱりね、技というものを師匠と弟子の中で、培っていくみたいですね。

 佐々木 そうですね。それは寺院建築、お寺の建築でもやっぱり伝承が途絶えつつある。だから何年後とかになったら本当の意味での修復とかですね、そういうことが可能かどうかということを言われているくらいですから。新しいものを生み出すのも大切でしょうけど、日本にはそれだけでなく、受け継ぐというんですかね。伝承していく力がもっと大切なんだと思います。

 蓮風 そうそう。 

 佐々木 この力は、これから逆にですね、また世界に生きていくのではないのかなと。

 蓮風 でね、また関連して私の父親(鍼灸師の和風さん)の思い出話するんやけど、父親は全くの、在家なんだけど、相当古典を勉強した。そして、論争をふっかけるんですよ。そういう勢いのええ人やったけど、どうもその師匠いうのは、あの(真宗大谷派の僧侶の)暁烏敏(あけがらす・はや、1877~1954年)。

 佐々木 はぁ。

 蓮風 はい。そこに付いてね、在家でありながら一生懸命で、師匠にくってかかる、向こうは向こうで「タァー」ってやってくる、ってことがあったみたいですわ。信念がもうね、揺るぎない。やっぱり信念を培うということの伝統性はね、やっぱり内弟子とか、まさしく出家とその弟子というか、そういう関係の中でどうも出来ていくのではないかという気がします。

 佐々木 そうですね。

 蓮風 それが技に繋がっていくんじゃないかと。
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 佐々木 だから先生が仰るように、親鸞さんの時代は「歎異抄」に書かれてますけど、関東からわざわざ親鸞に会いにくる。あの時代ですから京都に出てこようと思ったら命がけ。生命をかけてくるわけですよ。

 蓮風 そうです。

 佐々木 その信者さんとか弟子とかの中で論戦を繰り広げる。その気風は鎌倉時代だけでなく江戸時代や明治の頃にも残っていたわけです。

 蓮風 そうですそうです。
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 佐々木 先生のお父様の世代だと、もうお互いがまだ「こうだこうだ」って言い合ってた。そういう感じが今はやっぱりなくなってきてますね。

 蓮風 そうですね。まぁ言うたら昔は真剣勝負です。

 佐々木 そうですね。

 蓮風 はい。だからうちの親父が「まぁ浄土真宗やから簡単と言えば簡単だけど、本当は難しいんだ。」と、禅宗では修行してる間はいいけれども、修行やめたらだめなんだと(笑)。

 佐々木 うん。

 蓮風 山上がって行をやっている間はいいけれども、ところが浄土真宗というのは、そこの修行も何も一般の生活も一緒くたなんですね。

 佐々木 うん。

 蓮風 で、その中で真実を通すということはどんだけ難しいことかということよく父親から言われましたね。

 佐々木 まぁ今先生が仰ったように、生活の全ての中に教えがあるんですね。

 蓮風 そうなんです。〈続く〉
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「鍼(はり)」の本当の姿を伝える「蓮風の玉手箱」をお届けします。僧侶で医師の佐々木恵雲さんと、鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談も今回がひとまずの最終回です。「いじめ」が深刻な問題になっていますが、これは「教育」とも不可分ですよね。おふたりの話から、師と弟子の関係や「教え」を伝えることの深遠さが浮き彫りになっています。まず、浄土真宗では生活のすべての中に教えがあるという前回の話題を受けて対談をお伝えします。(「産経関西」編集担当)
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 佐々木
 生活のすべての中に教えがあるっていう、その感覚って非常に大事ですよね。何をするにしても仏道だと。

 蓮風 うん。

 佐々木 何かの決め事にしたがってお参りに行くから仏道というのではなく。今生きていることのすべてが仏道である、というような観点って大事ですよね。

 蓮風 私の考えでは(念仏をとなえることは)易行といいながら一番難しい行で、「信」と「行」…、信ずることと、行ずること、その「信」が非常に難しい。

 佐々木 難しい。

 蓮風 伝統的に、その師匠から弟子、弟子から弟子というように、熱みたいなものが伝わって、確たる信念みたいになってくる。よく考えると、僕は親父ほど仏教者ではないけども、ただそういうものは伝わっているんですね、今思うと。もう鍼に対する考え方、それから仏さんに対する考え方は、もう大変なものを植え付けられているんです。

 佐々木 そうですね。

 蓮風 親子やからもう、ずっと子供の頃から植え付けられているんですね。だから、これは私の課題なんやけどれど、「信」という問題をどういう風に患者さんの治療に持っていったらいいんだろう、と考えています。

 佐々木 そうですね。だから、仰る通り難行中の難行ですよね。

 蓮風 そうそう(笑)。

 佐々木 まぁそれは、鈴木大拙という有名な仏教学者も言っている通りで、下手をすると抽象的、観念的になってしまいかねない。

 蓮風 だからそれも含めてね、ええ師匠につかなあかんということにも繋がるんや。

 佐々木 そうそう。だから人と人柄とか、言葉とか、姿勢とかですね、そういうもの含めたもんで、伝えていくものなのかもしれないですね。

 蓮風 そうです、そうです。

 佐々木 だから親鸞さんは自分が法然さんにだまされて地獄に堕ちても構わないと言っている。

 蓮風 そうそう。

 佐々木 その法然さんに対する思い、これは、もう、理屈無いんですね。たぶん人間的な魅力がもの凄くあったと思うんですね。

 蓮風 だからそこら辺りが宗教の…。

 佐々木 根本ですね。

 蓮風 はい。で、親鸞さんもね、自分の息子である善鸞を義絶しとるんですよ。何でかというと本当の他力行と違うことを説いたということで、親子であの時代にね、鎌倉時代に親子の縁を切るっちゅうのは余程の事がないとできない。それはやっぱり大きな大きな人々を救わないかん、その為には真実でなくてはいかん、嘘があってはならんという大義があるから、そういう信念があるからやるんでしょうね。

 佐々木 うん。だから教えというのが言葉で伝わるものもあるんでしょうけど、そのやはりその人間的な魅力で伝わってくるもんだと思いますね。

 蓮風 それは宗教の大きな側面でしょうね。それは本読んだりなんやりでは出来ませんわ。
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 佐々木 だから逆に東洋医学、ここ北辰会も先生の人間的な魅力、まぁカリスマ性って言ってしまったらあんまり言葉良くないかもしれませんけど、人間的な魅力で、できている。僕はお父様に会ってないですけど、和風さんですか、お父様もまたそういった別の魅力があって、先生も育っている。

 蓮風 そうですね。

 佐々木 その人間的な魅力っていうのを伝えるっていうことは大事ですね。

 蓮風 不思議なことにね、この鍼灸医の家はね、2代続かんて言うんですよ。

 佐々木 うん。

 蓮風 うち14代続いているんですよ。だからね、それぞれまぁ、個性的と言えば個性的で、何か持った人が生まれてくるんですね。

 佐々木 そうですね。

 蓮風 はい。本当不思議な家ですわ。だから亡くなってからやっぱり父のね、あのー、生きている間はもう無茶苦茶ケンカしました。

 佐々木 うんうん。

 蓮風 ほいで、夜遅くまで飲んでやるんですよ。そしたら両方の嫁さんが「まぁまぁそこまで」って(笑)。それがねぇ今思うと、素晴らしいことやった。

 佐々木 そうですね。それでも幸せですね。

 蓮風 父が僕に言うんですよ。「お前何年もやってないのに何、生意気なこと言うんや」って。そしたら僕は「あんた何十年やってその程度か」って(笑)。

 佐々木 (笑)

 蓮風 もう本当にね、取っ組み合いをする勢いでやった。そん中でね、やっぱりいい事教えてくれてますね。今思うと。その当時はなんだって思っとったけど、本当やっぱ亡くなってみんとわからんですな。

 佐々木 そうそう。やっぱり亡くしてからっていうんですかね。僕も父親が亡くなりましたけど、亡くなってから父の有り難みが初めて分かったような気がします。だから父親と息子、娘にもあるんでしょうけど、そういう何かありますね。独特の繋がりっていうのがね。

 蓮風 そうですね。教える、というか伝承する、というのはやっぱり、人から人へ、そこへ真実が繋がった時に起こる現象でしょうね。<終>

 

 次回からは外国人への日本語教育の研究を続けてこられた関西外国語大学名誉教授の小山揚子さんと蓮風さんの対談をお届けします。

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