談笑する藤本蓮風さん(写真左)と、ひこ・田中さん=藤本漢祥院(奈良市学園北)
2013(平成25)年、第1回目の「蓮風の玉手箱」をお届けします。児童文学作家のひこ・田中さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談の続きです。疲れたときに「物語」という逃げ場がなくなると、生きることがしんどくなる、という前回の田中さんの言葉を受けた蓮風さんの言葉から始まります。では今年もよろしくお願いします。(「産経関西」編集担当)
蓮風 ひこ・田中先生の本質を表してるような感じで…(笑)。逃げ込む場所というのは、一つのポケットとしてあっていいんだけど、多くは、しんどいというのはやっぱり、心というより身体がいたんでる。身体の歪みがあると、心でなんぼ正そうとしてもしんどい。その場合に一つのポケットとして、物語に逃げ込むのはいいということは私は納得できる。その根本には身体ですよ。身体が弱いと、どうしても精神的に弱くなる。
だから、身体を丈夫にする。それから、丈夫にするためにどうしたらいいか、という養生法を説きます。食べ物は、こうあるべきだ、運動はこうあるべきだって…。どうしても性格の問題もあるんでしょうけどね。一方、やはり物語の場合は、必ず帰ってこないかんわけで(笑)。それが自由にできればいいんだけれど、できなければやっぱりこの変な方向にまた行きますよね。ちょうど脱法ドラッグで現実にないことが自分に起こってきてるような状況なわけですから、だから逃げっていうのは所詮は逃げなんであって、私は医学として完璧にその人の「心・身体・魂のバランスをとる、そして、そのバランスをとる場合の基本はやっぱり身体にある」という考え方ですね。うん。
田中 それはそうだと思いますね。物語は、書物という形なり、テレビドラマなりアニメなり、いろんなもので提供されていますけれど、そこにある機能というものは当然、限定的なものなんですよね。いま藤本先生がおっしゃったようなことというのは、もっと広がりのある世界すべての話ですから、当然、おっしゃるとおりだと思うんですよね。
身体から自然までを視野に入れて考えた場合なんですが、今「節電節電」と言われるように、私たちは、電気という汎用性のあるエネルギーに身を任せすぎてしまっています。それは、個人電力消費の話と言うよりも、産業が電力を使って作る製品の話であり、その商品を買うことが個々人の幸せだとコマーシャルやドラマなどで欲望をあおり立ててきた資本構造の話でもあります。
先ほどの近代とつなげてみますと、近代的な考え方は個が大事だからということで、人より優位に立つためや、他人に自分の存在を認めてもらうために、いい車、いいスマートフォン、いい家と買っていく、買い換えていくシステムを導いてきたのです。実際それで、近代資本主義社会は発展してきたわけですけども、その方向いうのは、どういう方向だったかというと、脱自然なんですよね。自然からいかに逃げていくか、もしくは抜けていくか、もしくは勝っていくか。
田中 征服していく、という形の進化の仕方をしてきたわけですよね。そのある種の果てを私たちは、日本人は現在見ている。じゃあソローのように自然に返れと言われても、これはできない。児童文学の世界でも、子供たちはもっと自然の中で遊ばせなければいけないとか、子供を自然に戻そうとかいう人がいました。でも、今の日本で平地の緑のあるところに子供全部を返そうとしたって無理です。脱自然で来てしまったこと自体は、痛みと反省を以て受け止めて行くしかないとは思いますが、だからといって自然に返ろうなんていうのは極端な話です。
蓮風 だからね、そこに自然に対する、ネイチャーに対する考え方がどうあるか。西洋の場合は人と自然をね、やっぱり対立的に見てますよ。だから東洋医学は自然の中から生まれて、相対的に独立したものを自然と共に、自然に生きるという、ひとつの考え方があるわけです。我々日本人は元々農耕民族ですから、もう自然の中におるのが当たり前なんであって、それから、はずれること自体おかしい。西洋の場合はもう完璧に対立、見るものと見られる側とがはっきり分かれてるでしょう。そこから自然に対する考え方が違うと思うんです。西洋的な意味で、自然と対立したものが自然に戻るいうのはもう無理だということになる。そこにも思想の回帰が東洋にあるように僕はむしろ思うんですよ。「気一元」という考え方自体がね。
だから本当の意味でこの、医学として存在する東洋医学は基本的には正しいと思うんですよ。私の弟子には、西洋医学のお医者さんもようけおりますけどね。基本はね、やっぱ東洋医学的に考えないとと思うんです。そりゃ、事故でけがをしたとか、折った切れたいうのは、そりゃつなぐしかないんですけどね。だけど一般の雑病というか、田中先生が言うようにこう、「しんどい」というような病気が多いわけですよ、いま。それを癒やす思想はやっぱり東洋思想だし、それを本当に身体の方から癒やすのは東洋医学だというふうに私は思うんですよ。もちろん選ぶのは勝手ですから(笑)。そこにね、東洋医学の落ち着く場所があるんじゃないですかねぇ。
児童文学も一つの物語で、癒やしながら助けてはくれるんだけども、東洋医学の場合はそのもう一つ人間としての根本的な問題をね、やってる。それを、まぁ極端に言えばまた、児童文学の世界はそれを活かされへんかいなというのが今日の提言。山彦海彦の話がありますよね。あれなんか中々良く出来てますよ。入れ替わったらどないなるか、全然だめやったと…(笑)。で、元に戻したらうまく生活できる。これが自然なんですよ。持ち場持ち場があるという教えを、たぶん持ってきてると思うんだけど、そういうことの中にネイチャー、自然があるんであって、単に山河だけを自然とするんじゃなく、本来の人間の気持ちの上での自然というようなものを考えるべきなんです。里山という発想ありますね。人間が開発したんだけど、自然との調和を図ってる。こういう発想もできるわけなんです。元々東洋医学はね、そういう意味で知られて欲しいから、この「蓮風の玉手箱」も開いてると、いう趣旨なんですよね。
田中 里山の発想はいいと思いますね。里山は、またブームになっていまして今、里山関係の本がたくさん読まれています。今のお話に関して少し述べますと、農耕民族だからというのは若干違うとは思うのです。例えば、狩猟民族と農耕民族を比べてみた時、どちらがより自然を破壊したかといえば、森林を壊し、そして耕し、人間が食べるための穀物を作っていくという意味では圧倒的に農耕民族なんですよね。
蓮風 まぁ、そうとも言いますね。
田中 狩猟民族は自然を守ります。なぜならそれが破壊されると、狩りの対象である野生動物が絶滅するからです。
蓮風 だけども、もとなるその自然とのバランスを常に考えながらやってますよ。焼き畑耕作にしても、単に焼いて灰にして肥やしを作るっちゅうことやなしに、順番を考えてます。今年はこっち、来年はあっち、で結局順番が回ったらまた元に戻るという。だから決してね、あの西洋がやったような自然を征服するという方向でのやり方でなしに、やっぱり大いなる大自然の下に私たちはやむなく生かしていただいてる、そして、あらゆる生き物を犠牲にしているという反省の下に生きてると思うんですよ。
田中 おっしゃる通りだと思います。自然破壊をしてきたから、自然とのバランスを図ろうとし始めたのです。ですから、農耕が自然で、西洋が…という分け方じゃなくて、農耕民族いうのはそういう風にして、自然をどんどん人間向きに、改良していきましたから、だから自然とのやりくりの付け方はよく知っているというふうな言い方をしたほうが、私は誤解がないと思うんですね。それこそ里山なんかそうですね。<続く>