蓮風の玉手箱

このサイトは、2011年8月7日~2015年8月29日までの間、産経関西web上において連載された「蓮風の玉手箱」を復刻したものです。鍼灸師・藤本蓮風と、藤本漢祥院の患者さんでもある学識者や医師との対談の中で、東洋医学、健康、体や心にまつわる様々な話題や問題提起が繰り広げられています。カテゴリー欄をクリックすると1から順に読むことができます。 (※現在すべての対談を公開しておりませんが随時不定期にて更新させていただます・製作担当)

カテゴリ: 吉祥院病院在宅医療部長・沢田勉さんとの対話


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初回公開日 2013.11.16

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沢田勉さん=奈良市学園北「藤本漢祥院」

 鍼(はり)の力を探求する「蓮風の玉手箱」は今回から、公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談が始まります。いつもなら新しいゲストが登場される際には略歴を掲載するのですが、今回は“ネタバレ”になりますので、それは次回以降にします。これまで、このコーナーにご登場いただいた、お医者さんはユニークな方ばかりでしたが、沢田さんも興味深い経歴をお持ちです。文字から超然とした、というか、飄々とした、というか、そのどちらでもないような…そんな語り口が少しでも伝われば、と思います。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 先生との対談を楽しみにしておりました。というのも、鍼灸師におなりになってからドクターに、またその間、別の大学で哲学を学ばれたのは聞いております。なぜこのようなキャリアをお持ちなのか、そもそも鍼灸をめざされたのは、なぜでしょうか。そこからお話いただきたいと思います。


 沢田 現在66歳ですし、かなり古いことになりますので、略歴を言いながら、お話ししてよろしいですか?

 蓮風 はい、どうぞ。

 沢田 ドクターになりたくて、医学部の受験をしたんです。でも落ちるんですよね(笑)。だんだん自信がなくなって…。たまたま知り合いの中に鍼灸の先生の息子がいたりとかですね、あとはそのころ、鍼灸というのは少しブームがあったんですね。北朝鮮でキム・ボンハン博士が経絡の実態を解明した(とされた)り…。そういうようなことがあってですね、浪人してだんだん疲れてきて…。

 蓮風 ああ、そこから始まるんですか。

 沢田 そうです。医者になれんかったら、なんか技術者になろうと、もうそれしか食べる方法はないですからね。そういうようなことで、じゃあ鍼灸師をやろうかということで、柳谷素霊先生の作った東洋鍼灸専門学校ってありますよね、東京新宿・歌舞伎町。華やかなネオンのところを通ってですね、学校自体はちょっとみすぼらしいんですけどね。そういうところに通っていたんですね。たしか20歳だったと思います。学校に入学して、3年で鍼灸の免状を取りました。

 蓮風 それでまず鍼灸師ですか。

 沢田 はい。そのころは、経絡治療が中心だったんですよ。

 蓮風 そうそう。

 沢田 本間祥白先生(故人、鍼灸師)のね、『経絡治療講話』とか、そういう本で、みんなで勉強会をやったりとか。

 蓮風 それは学生時代ですか。

 沢田 学生の時とか、その後もちょっとそういう勉強をしたりとか、あとは小野文恵先生(鍼灸師、故人)が近かったんですね。

 蓮風 はいはい「東方会」(=小野文恵氏が臨床家を育成するために1970年に設立)。

 沢田 その学校の先生をやっていたこともあって、で小野先生のところに出入りして、治療を受けていたこともあります。

 蓮風 それは学生時代からですか。

 沢田  学生の時と、卒業してから。そのお弟子さんがやっている診療所にお手伝いというか、入れてもらって、自分も鍼灸を少しやったりとか、ですから20代のころに蓮風先生の名前を知っているんですよ。

 蓮風 そうですか。東方会とはね、当時非常に親しかった時代がありました。

 沢田 僕そのころね、(勉強会などの)会場を作るからとか言われて、椅子を準備したりとか、そのようなことをやってですね、小野先生から「明日、藤本蓮風っていう若い先生が来るんだ」っていう話を聞いたことがあったんですね。で、藤本蓮風っていう先生は、そのころも有名な方で、打鍼を使うということを、小野先生からうかがっていたんですね。そういうようなこともあって実は藤本蓮風先生の名前は知っていたんです、20代で。こういう関係になるとは全く思わなかったですけど(笑)。でも、時代ですね。周りが学生運動が激しくなったりとか、そういう時代があったでしょ。

 蓮風 ありました。
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 沢田 で、そうするとね、なんかこう世の中が騒がしくて、私は何をすれば良いのだろうと、みんなそれぞれに思ったりとか、色んなことがあって、何かね、哲学志向になったんですよ、時代が。

 蓮風 はい、それで後年、哲学を。

 沢田 はい、哲学に走る人とかね、色々いたんです。私もどっちかというと、そういうのが面白そうだと思った。世界をどう見るかとかね、今ではそんなにないでしょ。そんなこと突然やり始めたら変じゃないかと思われるでしょ。そういう発想というか、考え方が結構あったんですよ。

 それから、そのころマルクス主義とかね、そういう勉強したりすると、エンゲルスがね、色々書いた中に、これから論理学っていうのは、形式論理学と弁証法だというふうに書いてあるんですよ。そうすると、若者の私としてはですね、

 蓮風 結局、唯物論的な哲学に興味をお持ちになったんですね。

 沢田 そういうことですね。大学に行ってないから教養がないのかも、という思いもあったんです。ある音楽会に行くとね、良い演奏だとか、みなさんが身近で感想を言ったりとか色々するじゃないですか。私は、今の曲の名前の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」って、どういう意味ですかって質問したんですよ、そしたら音楽家が、何だ知らんのかっていう感じでね、アイネはひとつだと、ドイツ語やと。クライネは小さいんだと、ナハトはナイト(夜)だと、ムジークはミュージックだと言われて、小夜曲という風にいいますと言われて…。自分は何も知らない、勉強し直さなければいけないという気持ちがありました。そういう哲学志向と勉強したいという気持ちがあって…。

 蓮風 そしたら、まず医者をめざして、そしてそれは一遍で入れないからということで、鍼灸師になっておいて、でその間に哲学をやったということですね。

 沢田 いやそんなうまい風にやってないです。その時は一生懸命なんですけど。やっぱり挫折なんですよ、自分がどうも医者になれそうにないとか、そういうことで技術の道を自分が生きるためにはしなければならないと考えて、それはそれで、切羽詰まった気持ちでやって、それなりに全力を尽くしたんですが、上手く行かないということが残念ながら多いということですね。そんなところで哲学をやったり。

 蓮風 なるほど。どうですか、それは鍼灸、東洋医学をやる上で何か役に立ちましたか。

 沢田 今になってみると、論理としてね、ああいう世界、先生がやっている「陰陽論」とか結局論理学の世界になってくるじゃないですか。

 蓮風 そうそう、ロジックですね。

 沢田 ロジックですよね。で、そういう物からいうと、もう色んな社会だろうと、学問だろうと、突き詰めて行くと論理学、論理とかそういうね、哲学の世界になって…。

 蓮風 知らん間にそういう世界に行っとったわけですね。

 沢田 そうですね、そういうのは当然だなっていう風に。

 蓮風 最初からそういうのを求めとったわけではないけど、結果的にはそうなったと。

 沢田 ええ。そういうことでしょうね。後では役に立ったと思います。その時は、ヘーゲルなんか勉強してて…。

 蓮風 意外とそういうことありますね。

 沢田 弁証法を勉強してて(教員が)原書を読めというんですね。で、そうすると、まずひたすらドイツ語なんですよ。必死になってドイツ語読むでしょ。で、1年間で薄い1冊が読めるか読めないかというようなことをやってるでしょ。そういうようなことがあって、ヘーゲルの言っていることは難解で、だんだん分からなくなってきた。

 研究者をめざすような気持ちだったのですが、指導教官が「沢田君、君の卒業論文を見たけれど、やっぱりやめなさい。君にはどうもこれは合わないよ」というんですよ。指導教官というのはその人を伸ばすというよりも、この人があまり才能が無いと思ったら、やめなさいというのも、どうも指導教官のお仕事らしくて…。指導教官からそんな風に言われたので、ああやっぱりあかんかと(笑)。

 蓮風 いや、先生の話を聞いていると僕とね4つしか違わないんですよね。

 沢田 そうですね。だから時代がちょっと合うんですね。

 蓮風 ある程度ね、時代的にはほぼ同じ時代に生きているんです。で、その当時はもうマルキストというか、左翼系のね、ああいうのが一つの若者の憧れで、東大紛争に見られるようにね、東大の塔を支配したのは、そういう前衛的な左翼がね。

 沢田 はっきり言うと暴力ですけどね。

 蓮風 マルクス、エンゲルス、ああいった思想家を勉強することが基本やったんですね。

 沢田 そうですね。

 蓮風 その中で先生は?

 沢田 いや僕はヘルメットかぶってゲバ棒を持ったことは一度もありません(笑)。

 蓮風 そういうことができる人じゃないから、先生は(笑)。わかりました。それで、そうこうしている内に、千葉大学の医学部にお入りになったんですか?

 沢田 大学に哲学の勉強しに入ったのが27歳です。それから千葉大学医学部に入学したのが35歳です。

 蓮風 そうですか。ずいぶん時間がかかりましたね。〈続く〉


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沢田勉さん(写真右)と藤本蓮風さん(同左)=奈良市「藤本漢祥院」

 鍼(はり)の力を探求する「蓮風の玉手箱」は公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談の2回目です。前回は鍼灸師の資格を取ってから大学で哲学を学び、35歳で医学部に入学した…というところまで話が進みました。今回は、その続き。蓮風さんが代表をつとめている鍼灸学術研究団体「北辰会」との関わりや首都圏から関西に移り住んできた理由などが語られます。遠回りに思えても人生に無駄はないという見本かもしれません。(「産経関西」編集担当)

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 沢田 友達が私の経歴を見るとね、「お前、何でこんな道草食ってんだ」って言うんですよ(笑)。

 蓮風 そうでしょうね。

 沢田 全くの道草好きというか、そういう人間なんだなと自分でも考えて思います。

 蓮風 なるほどね。それで結果としては、鍼灸師が先でドクターが後になるわけですけども、やっぱりドクターっていうのは、最初から憧れやから、鍼灸をやるにしても、とりあえず医師の資格をとっておこうということですかね。

 沢田 いや、そんなかっこうのいい戦略というのでは全くないですね。

 蓮風 あくまでも結果ですか。

 沢田 あくまで結果です。

 蓮風 そうですか。

 沢田 大学で哲学をやったけど、結局はモノにならない。でも、どうやって生きていこうか…?という問題があるわけです。元の鍼灸の仕事をやることも選択肢であったわけですよね。なんかね、物足りなかったんですよ。30歳を過ぎても何か物足りない、それだったら最初は医者になろうと思ったんだから、チャレンジしてみようかと…。で、受験勉強は何回もやってるもんですから違和感がなくて、頑張ってみようかっていうようなのがありました。

 蓮風 千葉大学の医学部でしたね、先生は。

 沢田 そうです。

 蓮風 千葉大学というのは、漢方・鍼灸にある程度興味を持っとった大学ですね。医学部の中でね。当時はそういう漢方・鍼灸に興味を持った医学部というのは少なかったですね。そういう中で選ばれたわけですか。

 沢田 そうです、はい。ありましたね、そういうのもありました。あとはまぁ、首都圏ですから、バイトもできるだろうとか、そういう打算もありましたしね。

 蓮風 なるほど。それから北辰会関東支部・初代支部長の中村順一君が肝臓病で亡くなるわけですけども、(北辰会の)みんなで手当てしながら、最後は沢田先生が勤務していた病院にお世話になったんです。だから沢田先生が主治医になられた。で、関東支部に在籍されておられたわけですけども、なぜ(関西の)本部に来られたのですか?

 沢田 関東では、埼玉協同病院という所で呼吸器を中心にした治療をしていたんです。何年か経って、東洋鍼灸専門学校時代の友達というか先輩から「たまに鍼灸の話を聴きに行ったらいいよ」という誘いがあって(北辰会とのつながりができた)。

 蓮風 それは誰ですか? お誘いしてくれたのは?

 沢田 ええー……。名前を忘れてしまいました(笑)。

 蓮風 そういうことを教えてくれる人がおったと。

 沢田 はい。それで、藤本蓮風という先生がいて、鍼灸をやっている先生の中で一番元気がいいと聞いたんです(笑)。

 蓮風 元気がいい(笑)。
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 沢田 実際に講演を聴きに行ったんですよ。

 蓮風 あっ、どこで?

 沢田 宇都宮(栃木県)だったか、あるいは群馬県のどっかですね。

 蓮風 ああ、はいはい。講習会をやりましたね、何回か。

 沢田 何回か行ったんですよ。で、その間にだんだんと、例えば(「北辰会」の)O先生だとかK先生だとか、そういう先生と面識ができたりとかして。

 蓮風 もうその時はドクターになっとった時ですか?

 沢田 もちろんあの、呼吸器科の仕事しながらちょっと悩んでたんですね。段々ね、医者の仕事がちょっとね、行き詰まるというか、同じ仕事ばかりしてるのが何か面白くない。たとえば若い人にも年寄りにも同じようにロキソニンとか、痛み止めを出してるじゃないですか。これで良いんだろうかとかね。

 (患者が)「痛い」って言って、凝(こ)ってるんだから揉(も)んでやればいいじゃないかと思うわけです。私は元々、鍼灸師でマッサージ師の免許もあるから触ってみたりするんですが…。なんか物足りないなというか、足りないものがあるなという感じがあったんですね。そのころ、友達の誘いで蓮風先生の講演を聴きに行ったりとかしたんですが、自分が知らんかったなと思って驚いたのは、内科の疾患をね、鍼灸で治してるという事ですよね。

 蓮風 それは藤本蓮風、それから「北辰会」を知ってからですか? それ以前にも鍼灸とは関わっておられたけれども。

 沢田 もちろん。それまではあんまり・・・。

 蓮風 これ非常に重要なことですね。

 沢田 藤本先生が内科の病気を治すと、「ああ、鍼灸ってそんな力があるのか!?」っていう(驚きがあった)。自分も鍼灸師やってたけど、実は、あんまりそういう考えで治療してたことがなかったし、また、そういう先輩も少なかったと思うんですよね。そういう事もあって、ちょっと違うものを見つけたという感じがありましたね。それがきっかけで、それから直接は中村先生の主治医になったりしたことで、中村先生に「こんなふうに年取ったけど、また鍼灸を再開してもなんとかなるもんやろか?」みたいなことを聞いたら、中村先生が「思い立ったが吉日だ」みたいな感じのお話とかがあったし、それから確か「お前ちゃんと勉強しろ」みたいなことで中医学の本を1冊もらったような気がするんですね。借りたって言っていいのか、亡くなったんで結局返してないので、いただいたって言っていいのか、よくわかりませんが、そういうこともありまして…。

 蓮風 初代支部長の中村順一君との出会いが、患者と主治医という関係であったけど、それを乗り越えて、鍼灸ということで非常に和んだ話ができたわけですね。

 沢田 そうですね、それはありましたね。医者は大抵、病院の寮に入るんですよ。で、何年かすると大体自分の持ち家を作ったりとか、要するに定住するっていうことを考えるんですね。そのころ、たまたま結婚してたもんですから、うちの嫁さんが京都に行きたいって…(笑)。

 蓮風 僕も初めて会って、ご挨拶いただいて、なんと若い嫁さんをもらったな、と思ってね(笑)。

 沢田 まぁ(私自身も)関西に行くのがいいなという気持ちもありましたね。それから、関東だと自分の仕事が固定してしまうんですよ。だいたい「呼吸器の沢田」っていう風になってしまう。で、鍼灸をやりたいから、どんな風な方法があるかっていうと、なかなか難しかったですね。そうすると、やっぱり環境変えて、場所も変えて一からやるほうがやっぱりいいのかなという気持ちがありまして。

 蓮風 そういうこともあったわけですね。

 沢田 それで、関西に行くという選択になったんです。はい。〈続く〉

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