蓮風の玉手箱

このサイトは、2011年8月7日~2015年8月29日までの間、産経関西web上において連載された「蓮風の玉手箱」を復刻したものです。鍼灸師・藤本蓮風と、藤本漢祥院の患者さんでもある学識者や医師との対談の中で、東洋医学、健康、体や心にまつわる様々な話題や問題提起が繰り広げられています。カテゴリー欄をクリックすると1から順に読むことができます。 (※現在すべての対談を公開しておりませんが随時不定期にて更新させていただます・製作担当)

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沢田勉さん=吉祥院病院(京都市南区)

 鍼(はり)の力を探る「蓮風の玉手箱」は公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談の5回目をお届けします。喘息(ぜんそく)の発作を繰り返し起こす女性に入院してもらったら発作がなくなったという沢田さんのエピソードで前回は終わっていました。家庭不和がストレスになって症状の原因になっていたらしいという話でした。今回は、その続きです。(「産経関西」編集担当)

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 沢田 ストレスが、きつい病気を引き起こすっていうのは、自分の体験として分かります。その時も、患者さん本人は自分の病気がなんでひどくなるのか、よう分からんかった。だんだん話してて「きっとストレスや」と思ったんです。「どう考えたってほかの原因がないんやから家にいること自体がストレスなんじゃないですか。何か心当たりある?」って聞いたら「うーん、やっぱり旦那かな」…みたいなことを言い始めるんですね。それで僕も納得したんですよ。

 蓮風 なるほど。

 沢田 ですから、その人の治療法は簡単。引き離すということが一番なんですね。ですから、そういう方向が、確かに効いていることは効いているんですよ。でも(西洋医学と東洋医学は)方向が違うじゃないですか?

 蓮風 そうですね。

 沢田 鍼灸って、患者さんの生活全体と、その中で病気が起こる理由がないだろうかという見方をするじゃないですか? 気管支がどうだとか、そういう(身体器官を個別に診る)理解や考え方はもちろんないですよね。でも、その方が実は治療として正しいですよね。

 蓮風 私が21歳で開業してまもなく、喘息の患者さんが来ましてね。発作が起こった状態で1日治らなくって苦労しました。これはなんとかせなあかんということで編み出したのが左の心兪(しんゆ/背中の左右にある経穴=ツボ=のひとつ)への鍼です。とりあえず呼吸困難がとれてくる。その当時は中医学もそこそこまだ勉強し始めてない時代で、今になって分かるのは「肝鬱」から起こった喘息の発作であって、その発作を解くのに「心」と「肝」の同源というのがありますね、臓腑学説に。その理論で説明できるという考えに至ったのです。

心肝の同源:東洋医学で言う「肝」と「心」は、肝は血を蔵し、心は血脉を主る、といった具合に、血の循環などに密接に関連している。それゆれ、肝の病理を主とする患者に対して、心の臓に関わる経穴を使って、肝の臓を調整することができる。またその逆(心の臓の病理であっても、肝の臓に関わる経穴を使って心の臓を調整する)も然りである。(北辰会)

 沢田 じゃあ先生は手探りで…。いわば本を見ているわけじゃなくて手探りで、このツボがきっと…。

 蓮風 そうです、その当時はもう学問も何もないですね。

 沢田 いいんじゃないかということで先生自身が…。

 蓮風 とりあえず効いたわけです。喘息の発作の多くは実喘※※ですけれども、そういうことを繰り返しやる中で、多くは効くことがわかった。ずーっと20年ぐらいたってからかな、やっとこれが、こういう理由で効いているんだなということがわかってきた。

 ※※実喘と虚喘:正気の弱りが主となって起こる喘息を「虚喘」と言い、正気の弱りはさほど顕著ではなく湿痰や水飲や邪熱などの邪気が主となって起こる喘息を「実喘」と言う。(北辰会)

 沢田 本当に実践から理論ですね。

 蓮風 まさしく実践ですわ。とにかく効けばいいんだと。それが、法則的に効くということになると、あるいはどういう条件の中で効くかということさえ分かっていれば、これはどういう理論が成り立つのかなと、いうわけ。そういう考えでずっとやってきたのが、左の心兪です。

 沢田 ああそうですか。
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 蓮風 まあそういう話から、だいぶん西洋医学と東洋医学の特徴、それから役割みたいなのが見えてくるわけですけれども。そういう中にあって、依然として西洋医学は西洋医学で必要なんだということだと僕も思うし、僕もそれは大事だと思います。東洋医学は常に全体の、先程の難聴の話でもそうやけども、身体全体のバランスがとれると治ってくるんだという、これは東洋医学の考え方やけれども、西洋医学はあくまでも耳が聴こえないと聴覚だけの問題にしてるんですね。

 でも、そのなかで西洋医学の一番いいところはというと、何になるんでしょうかね?

 沢田 体験的に言えば感染症の抗生剤ですよね。これは沢山の人にどっと使えるじゃないですか。鍼灸は沢山の人に一度にやれるわけがないですからね。それから救急蘇生するとか、どうにもならない時の心臓マッサージとか、救急救命とか。それに外科はどうしても現代医学には必要ですよね。あとはお年寄りでも脱水で死にそうな人にね、点滴をすると、確かに元気になったりという事があります。熱中症でもそうですけど。

 蓮風 いやいや。今、先生がおっしゃった西洋医学の特徴いうのは、実は徳川時代まで日本の正当医学やった漢方、鍼灸の医学が、西洋医学にとって代わられた大きな理由の一つなんですね。明治の時代、特に漢方鍼灸、まぁいうたら両方良いとこ残せば良いのに、漢方鍼灸を投げ捨てて西洋医学にいった、これの根本理由はね、私は軍人医学にあると思うんです。明治以前はやはり非常に近代化が遅れとって、これを克服して西洋列強に対応する、そのためには先ず富国強兵でしたな、あの時代は。そうすると、軍人医学というのに物凄く力点が置かれる。そうすると戦争やって、切ったり貼ったりしてやる医学、弾を取り出したり、お腹を開いたりしてやる医学は有利ですね。

 沢田 そうですね。

 蓮風 漢方にそれはないかと言うと、実はあることはあるんだけども、先程の話のように、一人ひとり丁寧にやるから間に合わない。それと伝染病が起こった場合には、これは西洋医学の方が上手いですね。

 沢田 そうですね、薬が効けばね。

 蓮風 うん、ある程度ね。〈続く〉



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沢田勉さんが勤務する吉祥院病院=京都市南区

 鍼(はり)の力を広める「蓮風の玉手箱」は公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談の4回目です。前回は60代に入ってから病気がちだった沢田さんが突発性難聴になり、蓮風さんの鍼や養生指導で回復したというエピソードが紹介されました。そこで「治る」というイメージも変わり、医者が患者になるというのは悪いことじゃない、と思ったということでした。今回は、そのお話の続きです。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 僕はよく冗談で言うんです。どの医者にかかってもいいけれども、あるいは鍼灸師にかかってもいいけれども、多少は病気するような先生にかかった方がいい、って…。あるいは今元気でも昔病気しとった先生にかかった方がいい。患者に対する優しさが違うんやっちゅうことを強調しています。冗談と言いましたが、真実なんですよね。

 沢田 本当ですね。

 蓮風 若い時は全然病気せんで元気で…というようなドクターにかかるとね、患者の気持ちがわからんのですよ。

 沢田 わかりません、それは無理ですね。

 蓮風 そういう意味ではいい勉強をなさった。それは鍼を通じて教えてもらったということでしょうかね。

 沢田 治るということの意味っていうのは、わかる部分があったんですよ。治るというのはいきなり治るんじゃない。身体が元気になって、その元気というのが末梢にいって(突発性難聴になっていた)耳に行ってそれで回復するんだという実感があるんですね。なぜだかというとね、耳が回復したころね、やたらにざわざわ耳鳴りがするんですね。ちょうど壊れたものが元に戻っていくようなね、なんかそういう感じがするんですよ。先生は「元に戻す」というでしょ。

 蓮風 元に戻すといいますね。

 沢田 今の医学では元に戻すことは非常に難しいんですよ。

 蓮風 はあ、そうですか。

 沢田 他のお医者さんに聞いたんですが、川に小石を投げるでしょ、波紋がたつ…。でもやっぱり、石は残るというんです。つまり、病気したらね、瘢痕(はんこん)とか、なんかそういう障害が残って当たり前なんだという考え方をするんですよ。でも、鍼灸は、蓮風先生もそうですけど、元に戻すと言うんですね。ちょうどフィルムをね、逆回しにするみたいに、その実感って、僕はわかります。

 蓮風 それも鍼灸の“お陰”ですね。

 沢田 そうなんですよね“お陰”さまという意味では。鍼灸というのはすごい面白い世界だなと思います。

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 蓮風 おもしろいですね。先生は呼吸器内科の医師として活動されてきました。その現場で西洋医学はどのように、また鍼灸医学はそれぞれどのように機能していくと思いますか。それぞれの特徴からお聞かせ下さい。

 沢田 西洋医学は私自身がやっている医学ですけれども、どうあれ私は鍼灸で治してもらって西洋医学をやっている。正直言って、どっちがえらいかというと東洋医学の方がえらいだろうなぁと、感覚的には思います。ただ西洋医学の弁護をするわけではありませんけれども、西洋医学は西洋医学で一生懸命病気を見つけたり、それから診断したり治療することでは頑張っているわけですね。

 蓮風 そうですね。まったくそうですね。

 沢田 ただ方向が違ってくるような気がするんですよね。つまり、例えば病気、私の専門は呼吸器系の病気ですけれども、喘息というのは、気管支壁の過度な緊張とかむくみとか…異常を受けて過剰に反応をして、気管支が閉じたりとかするんです。気管支鏡をみたことがあるんですね。本当にね、気管支鏡検査をしている間に喘息発作を起こした患者さんがいまして、見たら気管の枝が、閉じてるんですね。ないんですよね。こんなにちがうのか…。喘息の治療をするため、検査を途中でやめたことがあったくらい、それぐらい激しい変化をする。でもそこのね、変化のする場所を西洋医学は気管支の領域だけに考えるわけです。ですから、対処方法はあるんですよ。例えば、ステロイドを注入しますとそのむくみがとれるんですよ。そしたら通るでしょ。だから、治療になるんですよ。絶対治療になるんですよ。それから、メプチンという気管支を拡張させる薬もあるし、そうすると閉じたのが開くと。緊張してたのがとれる。そういう形で治療になるんですよ。

 でもね、例えば、それが繰り返し繰り返しでてくるのは、なぜだろうかという問題がありますよね。私の身近な患者さんでね、しょっちゅうそういう発作を起こす人がいたんですよ。一生懸命なんでやろう、この人の住まいがどこにあるんだろうか、ほこりとか多いとこじゃないだろうかとか、一生懸命アレルギーの原因の検査をしたりするわけですね。これは現代的な手法ですよね。ある時ね、ひどいから入院しましょうということでね、入院させたんですよ。そしたら、発作を起こさないんです。なんでやろうという風に思ったんです。だんだん分かってきたんですね。患者さん、女性なんですけど家庭の不和なんですよね。まあつまり、そういうこともあるということで理解してください…。

 蓮風 ありますな、ようけ。

 沢田 あるでしょ。そういう強いストレスが発作のひきがねになっているんですよね。こんなこと、どこの大学でも教えてくれません。

 蓮風 むしろそういう考え方こそ東洋医学なんですね。

 沢田 そうなんですよ。<続く>


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吉祥院病院内での沢田勉さん=京都市南区

 鍼(はり)の可能性を探る「蓮風の玉手箱」は公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談の3回目をお届けします。前回までの2回は紆余曲折という言葉でも表現し切れない沢田さんのご経歴の話が中心でした。今回は整理をする意味もあって、以下に略歴として、まとめました。(「産経関西」編集担当)

 さわだ・つとむ:医師、公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長。1947(昭和22)年、新潟県生まれ。同県立巻高校卒業。東洋鍼灸専門学校(東京都新宿区)で学び鍼灸師の資格を取得。74(同49)年、東京都立大学(当時)人文学部(哲学)に入学し79年に卒業。82年に35歳で千葉大学医学部に入学。卒業翌年の1989(平成元)年に医師免許取得、埼玉協同病院(川口市)などで呼吸器科医師として医療に従事。1998(同10)年から吉祥院病院(京都市南区)に勤務し現在に至る。

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 蓮風 先生の経歴や鍼灸師になってから医師になるまでの経緯はわかってきました。(北辰会関東支部から関西の)本部に来られて非常に真面目に学ばれ、週1回、私の治療を受けておられます。まぁ、昨夜もやりましたけど(笑)。こういう(状況の)中で、鍼灸とは、東洋医学とは何だと思われていますか? 医師というより患者の立場からお答えいただきたい。

 沢田 そうですね。私はね、治療してもらって。何かを盗んでやろうということはできない(笑)。

 蓮風 わかってる、わかってる。そういう人じゃない(笑)。

 沢田 私自身が病気で困って、蓮風先生にお願いしたいということで(治療を受けて)もう6年ぐらいになりますかね。60歳を過ぎてからだんだん病気がちになってきたんですよ。たとえば、朝起きたら、いきなり左足が痛い。足を引きずって整形外科行くと、「これ、脊柱管狭窄症の疑い強いね」というようなこと言われて、自分でどうにもならん(笑)。現代医学って不便ですよね。痛み止めを飲んでも別に患部が良くなるわけじゃないじゃないですか。痛みを止めるっていうだけですよね。で、完全な治療は、手術で狭窄したところを取り除くというのが根治療法だというわけですよね。まぁ、そういうご託宣になるわけです。それは困ると…。

 そう簡単にメスを入れたくないということもあったし、あと私は難聴もあったんですよ。突発性難聴が、右をやってそれから1年経ってから左まで難聴になって、そうすると聴こえないんですよね。それもいきなり起きてくるんですよ。そうすると、昨日と今日では世界が変わって、世の中って、こんなに静かなものかというサイレントの世界ですよね。これはえらいこっちゃと…。なんでかというと聴診が…患者さんの呼吸器の聴診ができない。これはちょっと僕も青ざめてしまいまして、藁(わら)にもすがるという感じで、ステロイドの治療法とか1週間集中して…。

 蓮風 ひと通りやるわな、西洋医学は。

 沢田 もちろんやります。なぜかというと、短期で治るケースが結構あるんですよ。ただあの、突発性難聴ってのは1カ月、2カ月と経ってしまうと治らないケースのほうが多くなるんですよ。

 蓮風 よくありますね。

 沢田 僕も焦ったんですね。で、ステロイドを1週間使ったけど治らない。通院してもなかなか治らないということもあって、蓮風先生に相談しました。その時、先生から言われたことがいくつかあってね。「君の身体はとっても疲れている。疲れている人にとっては治療しても効果が十分に出ない。ちょっと生活を考えてみてくれないか」というのが、そのひとつ。

 そのころ60代になってもまだ当直とかやってたんです。病院に宿泊して夜中に患者が来るのを診たりとかね。ある程度の稼ぎになるもんですから、ついついそういうとこ夢中になってやる。そういうことやってたのは僕も反省してね、生活をとにかく改めようと。それから(蓮風さんが診療している)「藤本漢祥院」の(養生指導の)メニューを取り入れたり、朝晩ゆっくりと手ぶらで散歩しなさいとか、言われたことをやってみたり(笑)。

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 蓮風 先生はそういうこと忠実に守りますもんね。真面目やから。

 沢田 割とやったんですよ(笑)。真面目というか、もうそれしか…(笑)。それから、病気ってね、その時自分で思ったのは、苦しんで、なんとか治したいという焦りってね、マイナスなんですね、やっぱり。で、すぐ治るわけじゃないし(回復に)長くかかるし、補聴器も使うと患者の呼吸音も聞こえる事もわかったし「ああ、なんとか仕事ができる」と思い始めてからちょっと気持ちが変わったんですよ。ちょっと楽天的というか、気にしなくなってきた。

 そういうことがあって、12月の終わりごろに難聴になって、全く聴こえなくなって、6カ月経って7月ごろですか、京都の桂川の土手をね、いいお天気なんでぶらぶら歩いて、その時はもちろん仕事以外は補聴器は外してるんですね。で、(病院の寮に)帰って来るとなんかうるさいんですね。ハッと気がついたんですね。あれ、ひょっとして回復しているかもしれないという。でも1週間ね、誰にも言わなかったです。またそんなこと言ってはしゃいでいたら、翌日聞こえなかったらとんでもない話だと。だから1週間は先生にも言わなくて…。

 それからね、その時回復してもあまりうれしくなかったんですよ、諦めていたんですから、あまり気にしないという感じだったから。万歳みたいな気持ちは全然なかったんですね。1週間ぐらい経ってからじわじわと喜びがでてきて、それから蓮風先生にもお話して、「先生、僕の耳は回復しました。」って、嬉しそうに言うと、先生は、「僕もそろそろ回復するんじゃないかと思っていたよ」と簡単におっしゃられて。そういう風なことがありましてね。病気って治すものだし、治るものなんだと思っているけれども自分がいざ患者になった時に、治るというのはすごい感激でしたね。

 蓮風 それはやっぱり先生、大きいですね。

 沢田 大きいですね。だから医者が患者になるっていうのは悪いことじゃないです。<続く>


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沢田勉さん(写真右)と藤本蓮風さん(同左)=奈良市「藤本漢祥院」

 鍼(はり)の力を探求する「蓮風の玉手箱」は公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談の2回目です。前回は鍼灸師の資格を取ってから大学で哲学を学び、35歳で医学部に入学した…というところまで話が進みました。今回は、その続き。蓮風さんが代表をつとめている鍼灸学術研究団体「北辰会」との関わりや首都圏から関西に移り住んできた理由などが語られます。遠回りに思えても人生に無駄はないという見本かもしれません。(「産経関西」編集担当)

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 沢田 友達が私の経歴を見るとね、「お前、何でこんな道草食ってんだ」って言うんですよ(笑)。

 蓮風 そうでしょうね。

 沢田 全くの道草好きというか、そういう人間なんだなと自分でも考えて思います。

 蓮風 なるほどね。それで結果としては、鍼灸師が先でドクターが後になるわけですけども、やっぱりドクターっていうのは、最初から憧れやから、鍼灸をやるにしても、とりあえず医師の資格をとっておこうということですかね。

 沢田 いや、そんなかっこうのいい戦略というのでは全くないですね。

 蓮風 あくまでも結果ですか。

 沢田 あくまで結果です。

 蓮風 そうですか。

 沢田 大学で哲学をやったけど、結局はモノにならない。でも、どうやって生きていこうか…?という問題があるわけです。元の鍼灸の仕事をやることも選択肢であったわけですよね。なんかね、物足りなかったんですよ。30歳を過ぎても何か物足りない、それだったら最初は医者になろうと思ったんだから、チャレンジしてみようかと…。で、受験勉強は何回もやってるもんですから違和感がなくて、頑張ってみようかっていうようなのがありました。

 蓮風 千葉大学の医学部でしたね、先生は。

 沢田 そうです。

 蓮風 千葉大学というのは、漢方・鍼灸にある程度興味を持っとった大学ですね。医学部の中でね。当時はそういう漢方・鍼灸に興味を持った医学部というのは少なかったですね。そういう中で選ばれたわけですか。

 沢田 そうです、はい。ありましたね、そういうのもありました。あとはまぁ、首都圏ですから、バイトもできるだろうとか、そういう打算もありましたしね。

 蓮風 なるほど。それから北辰会関東支部・初代支部長の中村順一君が肝臓病で亡くなるわけですけども、(北辰会の)みんなで手当てしながら、最後は沢田先生が勤務していた病院にお世話になったんです。だから沢田先生が主治医になられた。で、関東支部に在籍されておられたわけですけども、なぜ(関西の)本部に来られたのですか?

 沢田 関東では、埼玉協同病院という所で呼吸器を中心にした治療をしていたんです。何年か経って、東洋鍼灸専門学校時代の友達というか先輩から「たまに鍼灸の話を聴きに行ったらいいよ」という誘いがあって(北辰会とのつながりができた)。

 蓮風 それは誰ですか? お誘いしてくれたのは?

 沢田 ええー……。名前を忘れてしまいました(笑)。

 蓮風 そういうことを教えてくれる人がおったと。

 沢田 はい。それで、藤本蓮風という先生がいて、鍼灸をやっている先生の中で一番元気がいいと聞いたんです(笑)。

 蓮風 元気がいい(笑)。
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 沢田 実際に講演を聴きに行ったんですよ。

 蓮風 あっ、どこで?

 沢田 宇都宮(栃木県)だったか、あるいは群馬県のどっかですね。

 蓮風 ああ、はいはい。講習会をやりましたね、何回か。

 沢田 何回か行ったんですよ。で、その間にだんだんと、例えば(「北辰会」の)O先生だとかK先生だとか、そういう先生と面識ができたりとかして。

 蓮風 もうその時はドクターになっとった時ですか?

 沢田 もちろんあの、呼吸器科の仕事しながらちょっと悩んでたんですね。段々ね、医者の仕事がちょっとね、行き詰まるというか、同じ仕事ばかりしてるのが何か面白くない。たとえば若い人にも年寄りにも同じようにロキソニンとか、痛み止めを出してるじゃないですか。これで良いんだろうかとかね。

 (患者が)「痛い」って言って、凝(こ)ってるんだから揉(も)んでやればいいじゃないかと思うわけです。私は元々、鍼灸師でマッサージ師の免許もあるから触ってみたりするんですが…。なんか物足りないなというか、足りないものがあるなという感じがあったんですね。そのころ、友達の誘いで蓮風先生の講演を聴きに行ったりとかしたんですが、自分が知らんかったなと思って驚いたのは、内科の疾患をね、鍼灸で治してるという事ですよね。

 蓮風 それは藤本蓮風、それから「北辰会」を知ってからですか? それ以前にも鍼灸とは関わっておられたけれども。

 沢田 もちろん。それまではあんまり・・・。

 蓮風 これ非常に重要なことですね。

 沢田 藤本先生が内科の病気を治すと、「ああ、鍼灸ってそんな力があるのか!?」っていう(驚きがあった)。自分も鍼灸師やってたけど、実は、あんまりそういう考えで治療してたことがなかったし、また、そういう先輩も少なかったと思うんですよね。そういう事もあって、ちょっと違うものを見つけたという感じがありましたね。それがきっかけで、それから直接は中村先生の主治医になったりしたことで、中村先生に「こんなふうに年取ったけど、また鍼灸を再開してもなんとかなるもんやろか?」みたいなことを聞いたら、中村先生が「思い立ったが吉日だ」みたいな感じのお話とかがあったし、それから確か「お前ちゃんと勉強しろ」みたいなことで中医学の本を1冊もらったような気がするんですね。借りたって言っていいのか、亡くなったんで結局返してないので、いただいたって言っていいのか、よくわかりませんが、そういうこともありまして…。

 蓮風 初代支部長の中村順一君との出会いが、患者と主治医という関係であったけど、それを乗り越えて、鍼灸ということで非常に和んだ話ができたわけですね。

 沢田 そうですね、それはありましたね。医者は大抵、病院の寮に入るんですよ。で、何年かすると大体自分の持ち家を作ったりとか、要するに定住するっていうことを考えるんですね。そのころ、たまたま結婚してたもんですから、うちの嫁さんが京都に行きたいって…(笑)。

 蓮風 僕も初めて会って、ご挨拶いただいて、なんと若い嫁さんをもらったな、と思ってね(笑)。

 沢田 まぁ(私自身も)関西に行くのがいいなという気持ちもありましたね。それから、関東だと自分の仕事が固定してしまうんですよ。だいたい「呼吸器の沢田」っていう風になってしまう。で、鍼灸をやりたいから、どんな風な方法があるかっていうと、なかなか難しかったですね。そうすると、やっぱり環境変えて、場所も変えて一からやるほうがやっぱりいいのかなという気持ちがありまして。

 蓮風 そういうこともあったわけですね。

 沢田 それで、関西に行くという選択になったんです。はい。〈続く〉


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初回公開日 2013.11.16

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沢田勉さん=奈良市学園北「藤本漢祥院」

 鍼(はり)の力を探求する「蓮風の玉手箱」は今回から、公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談が始まります。いつもなら新しいゲストが登場される際には略歴を掲載するのですが、今回は“ネタバレ”になりますので、それは次回以降にします。これまで、このコーナーにご登場いただいた、お医者さんはユニークな方ばかりでしたが、沢田さんも興味深い経歴をお持ちです。文字から超然とした、というか、飄々とした、というか、そのどちらでもないような…そんな語り口が少しでも伝われば、と思います。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 先生との対談を楽しみにしておりました。というのも、鍼灸師におなりになってからドクターに、またその間、別の大学で哲学を学ばれたのは聞いております。なぜこのようなキャリアをお持ちなのか、そもそも鍼灸をめざされたのは、なぜでしょうか。そこからお話いただきたいと思います。


 沢田 現在66歳ですし、かなり古いことになりますので、略歴を言いながら、お話ししてよろしいですか?

 蓮風 はい、どうぞ。

 沢田 ドクターになりたくて、医学部の受験をしたんです。でも落ちるんですよね(笑)。だんだん自信がなくなって…。たまたま知り合いの中に鍼灸の先生の息子がいたりとかですね、あとはそのころ、鍼灸というのは少しブームがあったんですね。北朝鮮でキム・ボンハン博士が経絡の実態を解明した(とされた)り…。そういうようなことがあってですね、浪人してだんだん疲れてきて…。

 蓮風 ああ、そこから始まるんですか。

 沢田 そうです。医者になれんかったら、なんか技術者になろうと、もうそれしか食べる方法はないですからね。そういうようなことで、じゃあ鍼灸師をやろうかということで、柳谷素霊先生の作った東洋鍼灸専門学校ってありますよね、東京新宿・歌舞伎町。華やかなネオンのところを通ってですね、学校自体はちょっとみすぼらしいんですけどね。そういうところに通っていたんですね。たしか20歳だったと思います。学校に入学して、3年で鍼灸の免状を取りました。

 蓮風 それでまず鍼灸師ですか。

 沢田 はい。そのころは、経絡治療が中心だったんですよ。

 蓮風 そうそう。

 沢田 本間祥白先生(故人、鍼灸師)のね、『経絡治療講話』とか、そういう本で、みんなで勉強会をやったりとか。

 蓮風 それは学生時代ですか。

 沢田 学生の時とか、その後もちょっとそういう勉強をしたりとか、あとは小野文恵先生(鍼灸師、故人)が近かったんですね。

 蓮風 はいはい「東方会」(=小野文恵氏が臨床家を育成するために1970年に設立)。

 沢田 その学校の先生をやっていたこともあって、で小野先生のところに出入りして、治療を受けていたこともあります。

 蓮風 それは学生時代からですか。

 沢田  学生の時と、卒業してから。そのお弟子さんがやっている診療所にお手伝いというか、入れてもらって、自分も鍼灸を少しやったりとか、ですから20代のころに蓮風先生の名前を知っているんですよ。

 蓮風 そうですか。東方会とはね、当時非常に親しかった時代がありました。

 沢田 僕そのころね、(勉強会などの)会場を作るからとか言われて、椅子を準備したりとか、そのようなことをやってですね、小野先生から「明日、藤本蓮風っていう若い先生が来るんだ」っていう話を聞いたことがあったんですね。で、藤本蓮風っていう先生は、そのころも有名な方で、打鍼を使うということを、小野先生からうかがっていたんですね。そういうようなこともあって実は藤本蓮風先生の名前は知っていたんです、20代で。こういう関係になるとは全く思わなかったですけど(笑)。でも、時代ですね。周りが学生運動が激しくなったりとか、そういう時代があったでしょ。

 蓮風 ありました。
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 沢田 で、そうするとね、なんかこう世の中が騒がしくて、私は何をすれば良いのだろうと、みんなそれぞれに思ったりとか、色んなことがあって、何かね、哲学志向になったんですよ、時代が。

 蓮風 はい、それで後年、哲学を。

 沢田 はい、哲学に走る人とかね、色々いたんです。私もどっちかというと、そういうのが面白そうだと思った。世界をどう見るかとかね、今ではそんなにないでしょ。そんなこと突然やり始めたら変じゃないかと思われるでしょ。そういう発想というか、考え方が結構あったんですよ。

 それから、そのころマルクス主義とかね、そういう勉強したりすると、エンゲルスがね、色々書いた中に、これから論理学っていうのは、形式論理学と弁証法だというふうに書いてあるんですよ。そうすると、若者の私としてはですね、

 蓮風 結局、唯物論的な哲学に興味をお持ちになったんですね。

 沢田 そういうことですね。大学に行ってないから教養がないのかも、という思いもあったんです。ある音楽会に行くとね、良い演奏だとか、みなさんが身近で感想を言ったりとか色々するじゃないですか。私は、今の曲の名前の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」って、どういう意味ですかって質問したんですよ、そしたら音楽家が、何だ知らんのかっていう感じでね、アイネはひとつだと、ドイツ語やと。クライネは小さいんだと、ナハトはナイト(夜)だと、ムジークはミュージックだと言われて、小夜曲という風にいいますと言われて…。自分は何も知らない、勉強し直さなければいけないという気持ちがありました。そういう哲学志向と勉強したいという気持ちがあって…。

 蓮風 そしたら、まず医者をめざして、そしてそれは一遍で入れないからということで、鍼灸師になっておいて、でその間に哲学をやったということですね。

 沢田 いやそんなうまい風にやってないです。その時は一生懸命なんですけど。やっぱり挫折なんですよ、自分がどうも医者になれそうにないとか、そういうことで技術の道を自分が生きるためにはしなければならないと考えて、それはそれで、切羽詰まった気持ちでやって、それなりに全力を尽くしたんですが、上手く行かないということが残念ながら多いということですね。そんなところで哲学をやったり。

 蓮風 なるほど。どうですか、それは鍼灸、東洋医学をやる上で何か役に立ちましたか。

 沢田 今になってみると、論理としてね、ああいう世界、先生がやっている「陰陽論」とか結局論理学の世界になってくるじゃないですか。

 蓮風 そうそう、ロジックですね。

 沢田 ロジックですよね。で、そういう物からいうと、もう色んな社会だろうと、学問だろうと、突き詰めて行くと論理学、論理とかそういうね、哲学の世界になって…。

 蓮風 知らん間にそういう世界に行っとったわけですね。

 沢田 そうですね、そういうのは当然だなっていう風に。

 蓮風 最初からそういうのを求めとったわけではないけど、結果的にはそうなったと。

 沢田 ええ。そういうことでしょうね。後では役に立ったと思います。その時は、ヘーゲルなんか勉強してて…。

 蓮風 意外とそういうことありますね。

 沢田 弁証法を勉強してて(教員が)原書を読めというんですね。で、そうすると、まずひたすらドイツ語なんですよ。必死になってドイツ語読むでしょ。で、1年間で薄い1冊が読めるか読めないかというようなことをやってるでしょ。そういうようなことがあって、ヘーゲルの言っていることは難解で、だんだん分からなくなってきた。

 研究者をめざすような気持ちだったのですが、指導教官が「沢田君、君の卒業論文を見たけれど、やっぱりやめなさい。君にはどうもこれは合わないよ」というんですよ。指導教官というのはその人を伸ばすというよりも、この人があまり才能が無いと思ったら、やめなさいというのも、どうも指導教官のお仕事らしくて…。指導教官からそんな風に言われたので、ああやっぱりあかんかと(笑)。

 蓮風 いや、先生の話を聞いていると僕とね4つしか違わないんですよね。

 沢田 そうですね。だから時代がちょっと合うんですね。

 蓮風 ある程度ね、時代的にはほぼ同じ時代に生きているんです。で、その当時はもうマルキストというか、左翼系のね、ああいうのが一つの若者の憧れで、東大紛争に見られるようにね、東大の塔を支配したのは、そういう前衛的な左翼がね。

 沢田 はっきり言うと暴力ですけどね。

 蓮風 マルクス、エンゲルス、ああいった思想家を勉強することが基本やったんですね。

 沢田 そうですね。

 蓮風 その中で先生は?

 沢田 いや僕はヘルメットかぶってゲバ棒を持ったことは一度もありません(笑)。

 蓮風 そういうことができる人じゃないから、先生は(笑)。わかりました。それで、そうこうしている内に、千葉大学の医学部にお入りになったんですか?

 沢田 大学に哲学の勉強しに入ったのが27歳です。それから千葉大学医学部に入学したのが35歳です。

 蓮風 そうですか。ずいぶん時間がかかりましたね。〈続く〉

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