


蓮風 うん。
佐々木 何かの決め事にしたがってお参りに行くから仏道というのではなく。今生きていることのすべてが仏道である、というような観点って大事ですよね。
蓮風 私の考えでは(念仏をとなえることは)易行といいながら一番難しい行で、「信」と「行」…、信ずることと、行ずること、その「信」が非常に難しい。
佐々木 難しい。
蓮風 伝統的に、その師匠から弟子、弟子から弟子というように、熱みたいなものが伝わって、確たる信念みたいになってくる。よく考えると、僕は親父ほど仏教者ではないけども、ただそういうものは伝わっているんですね、今思うと。もう鍼に対する考え方、それから仏さんに対する考え方は、もう大変なものを植え付けられているんです。
佐々木 そうですね。
蓮風 親子やからもう、ずっと子供の頃から植え付けられているんですね。だから、これは私の課題なんやけどれど、「信」という問題をどういう風に患者さんの治療に持っていったらいいんだろう、と考えています。
佐々木 そうですね。だから、仰る通り難行中の難行ですよね。
蓮風 そうそう(笑)。
佐々木 まぁそれは、鈴木大拙という有名な仏教学者も言っている通りで、下手をすると抽象的、観念的になってしまいかねない。
蓮風 だからそれも含めてね、ええ師匠につかなあかんということにも繋がるんや。
佐々木 そうそう。だから人と人柄とか、言葉とか、姿勢とかですね、そういうもの含めたもんで、伝えていくものなのかもしれないですね。
蓮風 そうです、そうです。
佐々木 だから親鸞さんは自分が法然さんにだまされて地獄に堕ちても構わないと言っている。
蓮風 そうそう。
佐々木 その法然さんに対する思い、これは、もう、理屈無いんですね。たぶん人間的な魅力がもの凄くあったと思うんですね。
蓮風 だからそこら辺りが宗教の…。
佐々木 根本ですね。
蓮風 はい。で、親鸞さんもね、自分の息子である善鸞を義絶しとるんですよ。何でかというと本当の他力行と違うことを説いたということで、親子であの時代にね、鎌倉時代に親子の縁を切るっちゅうのは余程の事がないとできない。それはやっぱり大きな大きな人々を救わないかん、その為には真実でなくてはいかん、嘘があってはならんという大義があるから、そういう信念があるからやるんでしょうね。
佐々木 うん。だから教えというのが言葉で伝わるものもあるんでしょうけど、そのやはりその人間的な魅力で伝わってくるもんだと思いますね。
蓮風 それは宗教の大きな側面でしょうね。それは本読んだりなんやりでは出来ませんわ。


蓮風 そうですね。
佐々木 その人間的な魅力っていうのを伝えるっていうことは大事ですね。
蓮風 不思議なことにね、この鍼灸医の家はね、2代続かんて言うんですよ。
佐々木 うん。
蓮風 うち14代続いているんですよ。だからね、それぞれまぁ、個性的と言えば個性的で、何か持った人が生まれてくるんですね。
佐々木 そうですね。
蓮風 はい。本当不思議な家ですわ。だから亡くなってからやっぱり父のね、あのー、生きている間はもう無茶苦茶ケンカしました。
佐々木 うんうん。
蓮風 ほいで、夜遅くまで飲んでやるんですよ。そしたら両方の嫁さんが「まぁまぁそこまで」って(笑)。それがねぇ今思うと、素晴らしいことやった。
佐々木 そうですね。それでも幸せですね。
蓮風 父が僕に言うんですよ。「お前何年もやってないのに何、生意気なこと言うんや」って。そしたら僕は「あんた何十年やってその程度か」って(笑)。
佐々木 (笑)
蓮風 もう本当にね、取っ組み合いをする勢いでやった。そん中でね、やっぱりいい事教えてくれてますね。今思うと。その当時はなんだって思っとったけど、本当やっぱ亡くなってみんとわからんですな。
佐々木 そうそう。やっぱり亡くしてからっていうんですかね。僕も父親が亡くなりましたけど、亡くなってから父の有り難みが初めて分かったような気がします。だから父親と息子、娘にもあるんでしょうけど、そういう何かありますね。独特の繋がりっていうのがね。
蓮風 そうですね。教える、というか伝承する、というのはやっぱり、人から人へ、そこへ真実が繋がった時に起こる現象でしょうね。<終>
★次回からは外国人への日本語教育の研究を続けてこられた関西外国語大学名誉教授の小山揚子さんと蓮風さんの対談をお届けします。