蓮風の玉手箱

このサイトは、2011年8月7日~2015年8月29日までの間、産経関西web上において連載された「蓮風の玉手箱」を復刻したものです。鍼灸師・藤本蓮風と、藤本漢祥院の患者さんでもある学識者や医師との対談の中で、東洋医学、健康、体や心にまつわる様々な話題や問題提起が繰り広げられています。カテゴリー欄をクリックすると1から順に読むことができます。 (※現在すべての対談を公開しておりませんが随時不定期にて更新させていただます・製作担当)

タグ:薬師寺

薬師寺で執事をつとめる大谷徹奘さんと鍼灸師の藤本蓮風さんの対談も今回でひとまず最終回となります。「生」「老」「病」「死」などをめぐって、それぞれの立場から率直な考えが示され、宗教と医療の関係への見方が変わった方もいらっしゃるのではないでしょうか。大谷さんの口からは仏教への厳しい言葉も出ています。時代の岐路に立っているといわれる現代社会で、自分が所属する「場所」の在り方を否定するのも大切な試みかもしれません。現状に安住せず、あえて破壊することによって本来、組織や団体が持っていた「力」が再発見される可能性もあるからです。長い歴史を持った東洋医学も現在の医療体制のなかで本領が発揮できているのか、どうかを考えるヒントも与えてくれそうです。(「産経関西」編集担当) 

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 大谷 人間って言うのは、自分は死なないと思っている。自分は病にならないと思っている。で、いつ無常観を感じるかって言ったら、やっぱり死に出会った時です。

 蓮風 そうなんです。
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 大谷 その死に出会った時に、お坊さんが説法するようになった。それが葬儀の時のお坊さんの話だったのに、今は忙しい。火葬場の時間もあるからって、それをやめちゃったから、お坊さん達はもう、死んだ人だけを扱うっていう風に思われるようになってしまったんです。

 蓮風 葬式仏教。

 大谷 はい葬式仏教です。もう死人仏教かもしれません。

 蓮風 生きている人間こそが、非常に大事なんであって、人の命のありがたさ、そういったものに対する、洞察というんかな、この深い理解が今の世にも必要だと思います。だから私は、自分の仕事で鍼を持って、こういう風に捉まえるべきだと弟子や患者さんらに諭しているんです。

 大谷 うん。

 蓮風 それも僕の仕事やと思う。だから、鍼は苦痛を取るから、薬を持っていくのと一緒。でも苦痛を取っただけでいいのでしょうか。

 大谷 違います。

 蓮風 そうですよね。

 大谷 その昔はですね、先生。人間は例えば家族が病気になった、好きな人が病気になった時にですね、手が出せない訳ですよ。医学も発達していないし。だから祈ったんだと思いますけどね。今は違うと思うんですよ。僕は凄く沢山のお医者さんを知っているんですね。それは、なぜかって言うと、自分は医学的なことはできないけども、名医と呼ばれるような人が薬師寺には来るから(病の)悩みのある人には、その医師を紹介するんです。薬の代わりに。

 蓮風 なるほど。

 大谷 僕は自分の子供を誰も坊さんにしようとは思っていないんですね。何故かって言ったら、僕は、その宗教者は一代で、もし息子のうちの誰かが、大人になって坊さんなりたいって言ったら、良い先生につけて勉強させたらいいと思っているんです。やっぱりね、人間は肉親に弱い。

 蓮風 うん。

 大谷 特に、人の前に立って指導しなければならない者が、甘やかされて育つとですね、甘やかしたこと言っちゃう。やっぱり僕らでも、厳しいこと言われて先輩から殴られたからこそ、自分があると思っているんですよ。

 蓮風 うんうん。

 大谷 その時は凄く辛かったけれど…。自分が、育てたいと思うお弟子さんがあれば別に僕は自分のすべてをその人に投げてもいいと思っているんですね。

 蓮風 なるほどね。

 大谷 それこそですね、やっぱり血脈の世界だと思います。
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 蓮風 うちは14代も続いて来て、で、私のおじいさん、「てっぷう」っていうんですけど「鉄」の「風」と書いて、やはりこの名前の通りごっつい人なんですね。で、その息子が私の親父。穏やかな風、「和風」というんですよ。その息子が私(蓮風)です。代々同じことをやって、伝統の部分もあるけどね、僕の代で大きく変えているんですよ。

 大谷 そうですか。
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 蓮風 それは何故かというとね、ウチの親父はどっちかというと名人芸的な鍼を打っておった。それだけど、時代が変わったし、名人芸はその人間ひとりのものじゃないですか。

 大谷 そうですよね。

 蓮風 だけど、今の世の中に東洋医学を広めようと思えば、限りなく名人に近いものをたくさん育てるということが重要になってくる。粗製濫造で終わったらいかんわけやけども、ある程度の能力はある者を、こう出来るだけ名人に近づける、それが大事やと思う。というわけで私は独特の自分の医学を作り上げてきたんです。うちの親父はそれをちゃんと認めましたね。今、おっしゃっていることと、近いことだろうと思います。

 大谷 僕は今、仏教は凄く世間から距離があいてしまったと思っています。お寺には葬式の時しか行かないみたいな。または仏様を観光で見に行く。僕はそれを求めないんですよね。僕は弟子なんか無くてもいいと思っているんですよ。

 蓮風 うん。

 大谷 その代わり、自分の持っている精神性を講演で自分が大事だと思っていることを、どんどん、どんどん伝えていこうと思っているんですよ。それがキッカケで学ぶ人が出たらいいんです。

 蓮風 非常に大事なことだと思いますね。

 大谷 だから、最終的にはですね、坊さんだけが悟っても仕方ないんです。街を歩いている人達を皆幸せにすることが僕の務めであって、特殊な訓練をしたとか、特殊な場所にいたとかっていうんだったらば、それはですね、本当にストイックな人達の集まりでしか無いと思うんですよ。薬師寺でですね、座ってたらね、普通の人より良い生活できますよ。

 蓮風 うん。

 大谷 薬師寺のお坊様というだけで。だけど、僕は全然そんなこと望んでないんですね。

 蓮風 うん。それ、それが先生のいいところなんですよ。それもう手に出てますやん。

 大谷 そうですか。

 蓮風 もうとにかく人を救おうというその手というものがね、やっぱちゃんと出てますね。だから、もう先生の思いの通り。ただお身体を気をつけて頑張って頂きたい。今日はどうもありがとうございました。

 大谷 ありがとうございました。<終>

 

 

次回からは春日大社権宮司の岡本彰夫さんと蓮風さんの対談をお届けします。

 

薬師寺執事・大谷徹奘さんとの対話(5)

 「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」という説(?)があります。確かに緊張していても深く呼吸をすると不思議と落ち着くことがありますから「心」は身体の状態から影響を受けているのは確かなようです。お経では心より身体を先に置いて「身心」と書くということから話が広がった前回までの「蓮風の玉手箱」も腑に落ちます。今回も薬師寺執事の大谷徹奘さんと鍼灸師の藤本蓮風さんの対談をお届けします。身体が心に影響を与えるとともに心の状態も身体に反映されるという心身が一体である事実や、欲に向き合う方法など、本来の自分を自然に生きるコツが語られています。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 荘子の中に(なにも人為的に手を加えず自然のままという意の)「無為自然」というのがある。だけどね、実際は鍛錬して本当の自然に戻るんではないでしょうか。元々は仏さんの心で、仏さんの身体で生まれたんだけど、色々な経験をしてそれが垢になってなかなか取れない。本当に(自然に)戻る為にはやっぱり鍛錬せないかん。馬の障害競走に参加するため、この間から練習してるんです。もうかなり障害競走はやってないんです。本来1年どころか半年やってないと本当は馬で飛べないんです。ところが、やったら飛べる。考えたらね38年、馬に乗っている、この鍛錬がね、知らん間に「無為自然」を出してるんです。だから最初は形(かた)にはめなければいかんですよやっぱり。書道などでもよく「守・破・離」って言いますね。最初は形を「守れ」と。それから形に入って守ったら今度は「破れ」。そして最後は「離れろ」と。だからもう離れる段階で身体の解放をやればもっともっと大きいエネルギーを頂ける。だから私がね、ブログにいろんなこと書いてるけど、無駄なエネルギーを使うなというのが僕の一つの主張なんですがね。

 大谷 朝早く起きて仏さんの前行って祈るのは祈りじゃないですよ。これはね、おつとめ、役目ですよ。僕にとっては仕事です。僕は(祈りのことを)そういう風に思ってないんです。たとえば夜、自分が仏さんを描いて胸の前で手を合わせて、「今日一日ありがとうございました」って。それが祈りだと思います。坐禅何時間します。滝に何時間打たれます。朝早くから起きてますっていうのは、それは形の話であって…。
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 蓮風 だから、その形がいる時代もあるんですよ。

 大谷 そうなんです。

 蓮風 それを離れていくとね、今度は本当の自然な姿が出てくる。私もそういう事についてずいぶん考えたんですけども、やっぱりこう無理なく自然を起こそうとすればまず最初は形にはまる。それが一つの修行なんでしょうね。そこから良くなっていく。で、患者さんに鍼をして(患者さんの)気持ちが楽になったというのも、禅という言葉をよく使います。禅宗の禅ですね。だから坐禅も禅だけどね、(患者が横になって鍼治療を受けるので)"臥禅(がぜん)"という名前をつけた。それから私はよく散歩を患者さんにすすめる。これ“歩行禅”なんだ。だからそのとき必ず身体をゆったりと動かしなさい。あちこちの景色を見なさいと。「先生。せかせかと部屋の中で動いたらあきませんか」って聞くけど、それはダメ。心が動かん。だからゆったり歩いてあちこちの景色を見てるうちに心が移る。移ると一つの執着が取れてくる。そういうことを私は患者さんにすすめますし、自分も実行してます。

 大谷 歩行禅は、間違いなくあると思います。私もですね、時間があると歩くんですね。いつも考え事してるから下向いて歩いてるんですね。だけど時たま奈良なんかでも見るとこう山がグワーっとあるじゃないですか。30年もいてですね、奈良が山に囲まれてるなんて今頃気づくんですね。不必要なこともやってるんですけど、これっきゃないっていうとこへどんどんどんどん入り込んでしまって、結局自分で自分に詰め込んでいる。本当はもっと自由なのに。

 蓮風 だからね、それを私は患者さんに気づかせるんですよ、できるだけ。どうにもできないやつはやっぱり鍼をしてね、身体の方からほぐすと心もゆったりする。その時に、「よう寝ましたわ先生、鍼をしてもらって」っていう。「それ、今のあんたが本当の自分だよ。今までいろんなこと、くしゃくしゃくしゃくしゃやっとったやろ。今どうや」って言ったら「なんにもない」。それが本当の自分。それを忘れちゃいかんぞってよく弟子にも教えます。本当の姿にねぇ、戻すには、やっぱりいろいろ工夫が必要ですね。

 大谷 ですけどねぇ、僕思うんですけど、人間はねぇ、やっぱり欲が深くて…。今度の被災地でも、食べ物がない時にね、おにぎり持ってったらね、冷たいおにぎりでも泣いて喜んでくれたんですよ。その次なんて言ったかってね、「おにぎり冷たいなぁ」って言ったんですよ。僕の山形の知り合いの人がね、山形の芋煮を持って行ったんだそうです。そしたらね、山形の芋煮はしょうゆ味なんだって。そしたら向こう側の人の、太平洋側の人はみそ味だからみそ味にしてくれって言われたって。もう喜んでいながら文句言う。もう本当に…。
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 蓮風 それはありますね。私もね、子供の頃、家族がよく亡くなったんだけど、お葬式やって、形見分けがあるじゃないですか。ほんなら泣きながらね、えぇもん取ろうとする。「あっこれが本当やな」と思っとった。そやけどねぇ、それが本当の実体か言うたら違う。徳本上人の話=大谷徹奘さんとの対話(1)参照=のように、ほんとは清らかな心やったはずがだんだん変な汚れをつけてしまって…。だからその汚れを取るにはやっぱり修行とかね、鍛錬っていうのが…。

 大谷 いやだけど先生ね、世間がね、これだけ欲望的なことを推奨してるとね、よっぽど訓練してるか、よっぽど「もうこれでいいや」っていうとこまでいかないと、それ治まらないと思いますよ。もう持って持って持って持ちきれない。僕もですね、すごく太ってる。これは言い訳かもしれないけど職業病の一つだと思っています。毎日旅に出るでしょ。そうするとせっかく薬師寺から来てくれたって言って出してくださった会席を食べるわけですよ。もう超高級料理店に月に何度も行くようになったんですね。若い時は食べられる。またうまいし…。だけど今は、これを食べて病気になって命短くするなら「いや今日はちょっと、明日都合があってご飯食べられませんけど」って断って、夜おかゆさん一杯でもいいなって思うようになったのは、持ちきれなくなったから言えるようになったんであって。世間をみてみると、そうはいきません。一昨日も銀座ってとこ行ったらね、住職のお供で。そしたらですね、まぁ見事な洋服屋さんと見事な鞄屋さんと見事な時計屋さんのかたまりでしたよ。そりゃね、あんなとこ歩いてたらね、欲しくなりますよね。で、時計みたいなのを一個持ったらね、自分よりも長生するんですよ、時計の方が。

 蓮風 そうそう。
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 大谷 だけど私たちは、人よりちょっと変わったのを持って評価されたいという根本的な欲望を持っているから、借金してでも買おう、その借金を払うために自分の身を売ってでもみたいな行為になっていっちゃう。欲という字もですね「谷のように欠けている」からということだそうですけど、本当は(「欲」の)下に「心」がついたそうですね。

 蓮風 はいはい。

 大谷 だから心に栓をしない限り、欲は埋まらないっていつも言っているんです。これが感謝になるんだと思います。

 蓮風 そうですね。

 大谷 うん。で、「今日は凄い、だって本当だったらアフリカで飢えている人がいる中で俺こんなご飯食べられる」って言えるその喜び。私たちは高い方から削って自分を確認しますけど「ないよりもマシだ」って言って、その加算する思想に頭の中を持っていけば、感謝もその思いもポジティブになっていくと思うんです。両手が使えないと駄目だっていうのは、考え方がその先にあるんですね。だって僕にしてみたら両手がない人から比べたら片手、命が無い人からみたら命があるって言って、加点法で物事をとっていくと「わぁ良かった、これだけでもあったから」「わぁ良かった、死ななかった」っていう加点法になっていけば、まず喜びが出てくる。で、喜びが次は感謝で、感謝が出てくると敬いが出てくると思うんですね。
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 蓮風 そうですね。でね、あの、喜びも一つは形があると思うんですね。僕は笑顔ということを提唱している。で、笑っているとね、だんだん、だんだん、心がそのようになってくる。やっぱり「器」の方からのアプローチですね、だから僕の場合は笑う癖をつける、最初は作り笑いやけど、だんだんそれが自然になってくる。で、鏡を見る、あっ笑ってる。その笑った顔を他の人たちが見た時、やはり笑っている。

 大谷 そうですね。

 蓮風 下を向くというのはね、ロダンの「考える人」っていうのがありますね。

 大谷 はいはい。

 蓮風 あれは「考える」じゃない。迷っている姿やと思う。だから、必ず弟子達に下向いたらいかん、上を向いて。坂本九がせっかく教えてくれた「上を向いて歩こう」をやれっていうのですけどね。やっぱりね、心が暗いとだんだん下を向く。だから、それで大体、何考えているかわかるんですよ。

 大谷 僕も、子供達に言うんです。立たせてですね、「お前下向いてみ」って。「下向いた時にお前どの位の範囲が見える?」ってやるんですよ。「お前見える範囲、こっちだろ、あそこだろ。線で繋いでこの位だろ?」って。で「上向いてごらん」って。「もう枠にくくれない位広い範囲があるじゃない」って。「そんなちっこいところで迷わないで、もっと大きなとこ見た方がいいじゃねぇの?」っていつも言うんですね。

 蓮風 やっぱり心がなかなかこう外に出ないっているけれど、実際は形に出てますね。

 大谷 いや、出ますよ。出ます。人間は本当に。

 蓮風 で、「どうなんだ」って(弟子に)尋ねると「何もない」っていう、まずその目の動きを見ますね。それから目を瞑(つむ)らせるんです。何がわかるかというとね、異常に緊張したものは必ず瞼がピクピク動く。「あんたまた緊張したな」っていうと…。「してません」って。なかなか強情なんですよ。

 大谷 そうなんですよ。

 蓮風 素直にね、そう認めれば自分も楽になるんだけど、強情なんですわ。

 大谷 だって評価が下がってしまいますから。緊張していることが悪いって思っているから。だから嘘つくんですよ。

 蓮風 だけど、身体にはちゃんと出てきます。触れば、「お前、なんぼこれ嘘言うたかって、ちゃんと出てるんだから仕方がないだろ」って。

 大谷 昨日、僕、法話の旅から家に戻って来まして、夜たまたまテレビ見てたら、好きな人見ると瞳孔が開くっていうのをやってました。まさに人間の正直なところだと思いません? あの、女の人を見てですね、自分が好きだと思っている相手には瞳孔が開くってやってたんですよ(笑)。で、嘘ついても、そこは正直に動くって、本当そう思います。だから、お寺の境内を歩いている人を見ますとですね、わー、この人は悩みを持っている人なのか、今日はリラックスしている人なのかっていうのは、まずすぐわかりますよね。

 蓮風 東洋医学の場合、「脈診」っちゅうのがあります。

 大谷 はい。

 蓮風 脈診をやりながらね、質問するんですよ。で、嘘言った時、キッと脈が固くなる。 嘘発見機(笑)。

 大谷 そうですか。

 蓮風 ハッキリ出てきます。だから、これはねぇ、やっぱり、先ほど言うように心と身体が密接に繋がっていて身体を診れば、だいたい心の状態もわかる。 〈続く〉

薬師寺執事・大谷徹奘さんとの対話(6)

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 大谷 一時期、もの凄く頭痛がしまして、もう吐き気がするんですよ。

 
 蓮風 そりゃ、危ないね。

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 大谷 そう。で、医者行けって言われて(体内を画像化する)MRI(核磁気共鳴画像法)の検査を受けたんです。そしたら、MRIの台に乗って準備している間に、もうイビキかいて寝てたらしいんですよ。 で、MRIの機械にかかったのを覚えていないんです。そしたら、それを撮る先生が「いや、ここでイビキかいて寝る人はね、もう滅多におらんよ」って。だけど、それ見た途端に「あなたの頭痛いのはね、寝不足だってわかりました」って言われましたよ。だけどその位、肉体って正直なんだと思うんです。ですから、僕、ここに来させて頂いて、鍼を一番最初に打って頂いた時に、もの凄く調子が良かったんです。

 蓮風 あぁそうですか。

 大谷 身体に痛みが無ければ、神経を全部自分の思い通りに使えるじゃないですか。今(腰が)痛いんです。そうするとエネルギーが10あるうちの2くらいは腰に使っちゃいますもいんね。

 蓮風 そうでしょう。

 大谷 こっち(腰)を意識して夜、布団に入って休もうと思っているのに、痛いからどうしようかなって思って、休む時まで気を使って…。そして朝、目が覚めたときに「身体痛く無いかな?」って思って目が覚めるんですよ。

 蓮風 人間の中には四苦八苦といって、その四苦の、生老病死ということをお釈迦様は説いてらっしゃると思うんですけど、その中で言っている病の位置づけというか、同じ四苦の中でも、病をどういう風にみるか聞いてみたいのですが。

 大谷 あぁ、そうですか。ちょっと他の方々とはちょっと理解が違いますけど、得意中の説法の一つなんです。「命」という色紙を貰って、これをそのまま画鋲で貼る。

 蓮風 はい。

 大谷 確かにこれも意義があるんですけど。これをですね、額に入れるんです。

 蓮風 ほうほうほう。

 大谷 そうするとですね、大きく見えます。その四辺が生老病死だと思います。四苦八苦の「苦」というのは嫌なものと受け取りがちなわけですけど、これは「現実」とか「ありのまま」だと受け止めるということだと思います。この「生」はですね。ご存じのように、生きるということを言うんじゃなくて、お母さんの産道を出てくる時に、お母さんが苦しいように、子供も苦しいという「生」。で、私がこういう風に思っているんです。お釈迦様というのは人間観察をした時に「生まれた人は引き返せない」と…。これが「生」だと思います。その次に「老」は人間は、やっぱり使っていけば古くなってくる。で「病」はですね、故障する。そして最後は、壊れる。

 蓮風 そうですね。

 大谷 私は、そういう風に受け取っているんです。
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 蓮風 そこの前に、医学との関わり合いは出てくると思うんですよ。西洋医学ばっかりじゃなしに、こっち(東洋医学)もあるんだと気づいて、上手にやれば病が癒える部分はかなりある。

 大谷 仏教の勉強しててよくわかるんですけど、ちっちゃい時から心の訓練をして心の揺れ幅のことを知っていると、大人になってから悩まないでいい。それと一緒で先生は今、病気を治されておられるけども「人間というのは故障するものだよ。だけどちゃんとメンテナンスをしておけば」という予防医学という意味でも非常に重要だと思う。で、故障した時にまた治していけばいい。

 蓮風 それをね、東洋医学では「未病」というのですよ。「未だ病ならざるを治す」。わかりやすく言ったら、予防医学なんだけど、単なる予防じゃなしに、生命のこの小さい歪み。結局病気っちゅうのは、気の歪みですから、その大きい歪みを出来るだけ小さい歪みの間に手を打っておくと、大きい歪みが治る。大きく歪むとそれこそまさしく死の方へ行く。

 大谷 そうですね。

 蓮風 だから、そういうことにおける、その病の捉まえ方が大切。だからやっぱり、名医にかからないけません。
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 大谷 薬師寺にはお医者さんがたくさん来られます。うちのお師匠さん(故・高田好胤薬師寺第124世管主)は若い人がお医者さんになる時のお祝いに「病気を治す医者になるな、人を治す医者になれ」って書かれましたね。だから先生がおっしゃっている「病」の部分はね、身の世界の部分なんですよ、だけど先生がおっしゃっている「病」というのは、身と心の両方が非常に深く関わっている。

 蓮風 そういうこと、そういうことです。先生が最初におっしゃったように、医学と宗教っていうのは非常に大事な問題。いつも興味を持って来たんですけど、まさしく、微妙なところなんです。だから、本当の名医は宗教的なものをある程度持っていると思うんですよ。私は自分なりの宗教観を持って患者さんに接するんですけど、また、立派なお坊さん、宗教者にかかると、病気を治す部分もあるし、事実、まぁ、薬師寺って言ったら、薬師如来様がおられるわけで、薬師如来さんっていうのは、即、人の身体も治すということだろうと思います。もちろん心も治されるのだろうけども、ある意味で非常に深い関わりがある。

 大谷 お釈迦様の時代、坊さん達は物を所有することが禁じられていたんですね。許されていた物は何かっていうと、着物、ご飯を食べるお鉢、それからもうひとつ許されているものが薬だったんです。やっぱり薬を与えることによって、肉体的に苦しみを持っている人を救ってあげることは、お坊さんの役目の一つでもあったんですね。東南アジアなんかに行きますとですね、もうだんだん減ってますけども、臨終行儀って言って、もうすぐ死にそうな人の枕元で、死は苦しいものではない、悲しいものではないということをお坊さんが説くんですね。日本でも鎌倉時代…、法然上人の時代なんか、盛んにやられているんですけど。

 蓮風 そうですね。涅槃経というのか…。

 大谷 涅槃経もそうですね。

 蓮風 亡くなっていく人に…。

 大谷 説法する。

 蓮風 それはチベット仏教にはまだ残っている。

 大谷 はい、残っています。カンボジアとか、東南アジアはまだ残っています。

 蓮風 僕らの子供の頃はね、もう亡くなるっていうたらね、涅槃経をあげにくるお坊さんを見たことがありますよ。

 大谷 今はもう死んでから坊さん来るから、葬儀屋の手先みたいになっちゃってる。

 蓮風 はっはっはっ(笑)。

 大谷 坊さんは生きている間に、人を生かすためのものであって、先生が死人に鍼打ったって、何も変わらんというのと一緒で、死人にね、説法したってしゃあないですわ。<続く>


薬師寺執事の大谷徹奘さんと鍼灸師の藤本蓮風さんの対談をお届けしている「蓮風の玉手箱」は「死」についてのお話が続きます。とはいえ前回とは少し視点が違っています。誰もが一度は「死」について考えたことがあるはず。でも「死」という得体の知れないものに圧倒されて自分が生きていることを忘れていないでしょうか?「そんなことはない」という方が多いでしょうが、実は生きていることを当たり前に思って、忘れていることがあるのではないか…。今回は、そんなことを考えさせてくれる会話となっています。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 私は長女を悪性リンパ腫という病で亡くしました。こたえましたな。父母が亡くなったのもこたえたけれども、これは歳がいってから亡くなっておりますのでね…。

 大谷 逆縁だったんですね。

 蓮風 私は最後まで戦いましたよ。あっちこっちが痛いと言いましてね。鍼をやってやると、スヤスヤ眠って。そのおかげで、癌の痛みをある程度取ることが出来るようになった。「形(=器)」が無くなるというのは、特に自分のね、娘が亡くなったのは、それはこたえました。
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 大谷 そうですね。今回、僕、ずっと震災地に入ってまして、4月9日から入ってるんですが、もう30日以上入りました(2011年11月2日現在)。人の死が近かったでしょ。年寄りだけが死んだわけじゃない、子どもも死んだ。そうした時にですね。面白いですよ。衣(ころも)着ていくでしょ。そうするとですね、閉鎖されている所に行って「ご供養しに来ました」と言うと、どこでも入れたんです。

 蓮風 なるほど。

 大谷 師匠(高田好胤・薬師寺第124世管主)亡くした時に、僕、一緒に死のうと思ったんです。師匠好きだったから。昔から薬師寺には言い伝えがあって、優秀なお坊さんは必ずお供をつれていく、と言って、そのお師匠さんが一番愛していた弟子がお供で連れていかれるという勝手な伝えがあって。じゃあ、俺が一番愛されてたことにしようと(笑)。いやほんとにショックでショックで。で、そのショックが原因で、僕は病気になったんです。病気で入院してまして、そのベッドの上で、師匠が死んだことが悲しかったんですけれど、何が悲しいのかな、と思ったんです。そこで人間ってずるいなと思ったのは、逝ってしまった人が、逝ったことが悲しいんじゃなくて、その人から残された自分が悲しいんだと思ったんですね。

 蓮風 うーん。

 大谷 だからお師匠さん、逝っちゃったわけじゃないですか。それで一緒に逝きたいんだけれども、置いていかれたから、僕は、死って、親父が死んだ時もそうだったんですけれども、親父が逝ってしまったことも悲しいけれども、実は親父から置いていかれた自分が悲しいんじゃないかな、って思うようになったんです。残されたことは残されたことで意味があるから言葉悪いかもしれないけれど、先に逝った人の命を、ちゃんと自分の肥やしにして、お釈迦さんがご覧になった生老病死を自分の中で頂いて、そしてそれを自分の中で人の法を説く材料にして、また次の人たちのために、っていうふうに…。

 蓮風 それはとても大事な考えですね。

 大谷 死はものすごく人の肥やしになると僕は思ってるんです。被災地でも、もういっぱいいろんな死を見てきたんですよ。で、その死をいっぱい見て思ったことは、死を見れば見るほどに、強く生きようと思ったんです。

 蓮風 そうですか。

 大谷 いつ自分が死ぬかもしれない。いつ地震が来るかわからない。津波が来るかもしれない。いつ交通事故にあうかもしれない…。だからその刹那刹那を手を抜かずに生きなきゃいけない、っていうふうに極端に思うんです。そうすると、身体の酷使にいっちゃうんです。

 蓮風 そう、そこですね。
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 大谷 以前に、テレビだったか、お人に会ったか、「西洋医学と東洋医学の違いは」っていうのをどなたかから聞いたんですけど、その方が、ドブにボウフラが湧いたら薬を入れて殺す、これが西洋医学。東洋医学はボウフラが湧かないようにドブごときれいにしちゃうんだと、いう話を聞いたときに、ああこれが西洋の刹那主義と、我の教育だと思うんですよね。それに対して東洋の教育って「中今(なかいま)」教育=前回参照=だと思うんです。ですから、そういうのを見たときに、ああ東洋の考え方は実にすばらしいと思いました。ですから先生の本を読んでも、繰り返し治療する、ここ(=蓮風さんが治療している「藤本漢祥院」)に来たら、精神的には諦めないけど、仕事することは諦めて、とりあえず、ゆっくりしていきなさいと、そういう考え方が東洋の考え方かな、と思って。
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 蓮風 そうですね。生命の発露をあまり邪魔しないように、だからブログにも書いているんですけれども、「なにをやっても嬉しいな、楽しいな」と思えるように、いま書いてるブログは、最終的に笑顔になるということが要訣やと書いています。で、あのご存じですかね、ずいぶん古いですけれど、落語家に柳家金語楼という…方がいて非常に名人でした。テケテンテンテン…とお囃子が入って、ひょこひょこで出てきて、ツルツルの頭で、高座へ座る。で、じっとしてる。それだけで皆、笑う。しばらく金吾楼さん見とって、「まだ何にも話しておりませんが」と言うと、またドッと笑う。そういう笑いの名人がね、高野山の金剛峰寺へ行って、向こうの偉い方が「あんた、名人やから、何かひとこと書いてくれ」と墨と紙を出してきた。それで何を書いたかというと「怒りは迷い、笑いは悟り」。彼の笑いの中には、そういう無理のない、そして怒り自体が本来の生命の姿ではないという教えがあったと思いますねぇ。やはり一芸に秀でた方のお話というのはすごい。

 大谷 僕、薬師寺に30年お世話になってるんですけれどね。すっごく穏やかになってきましたね。ものすごく気性が激しかったんですね、もともと。もう負けん気は強いし、もう舞台の上に人がいたら、ぜんぶ落として自分だけひとり残る…みたいな(笑)。そんな性格だったんです。

 蓮風 ほう。

 大谷 今まったくそういうことがない。

 蓮風 それは衰えたのか、それともお悟りですかね。

 大谷 そうではなくて、我を通しても結局ツケしかこないというのを知ったからだと思います。

 蓮風 うーん、なるほどね。

 大谷 35(歳)の時に劇症肝炎やりましてね。

 蓮風 よう助かりましたな。あれ怖い病気ですよ。

 大谷 はい。もうあと3日って言われてましたから。入院したのが看護師さんの隣の部屋でしたもん。だからもういつ容態が変化してもおかしくない。その時にお医者さんがですね、しょっちゅう血採って検査した時に思ったんです。(医師は)「(数値が)50から100までの間はOKです。それよりも越えても低くてもダメですよ」と言ったんですが、人間はやっぱり生き物だからこう暴れる(=数値に揺れ幅がある)んでしょうね。その暴れ幅が小さくなって緩やかになっていって、最後この枠(=検査でいう正常値内)に収まっていく。で、ここですね、幅がないとダメなんです。これ一直線にはならない。感情はこれが出てるんじゃないか、と思うんですね。もう相手によってもコロコロと心が変わってくる。修行は、この揺れ幅をすごくゆったりさせていく。そして可能な限りこの許容範囲の、その命の鼓動の範囲の中に落とし込んでいくことじゃないかなと思うんですね。
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 蓮風 私もね、若い人を教育してるんですけども、まぁいろんなのがおりますなぁ。特にねぇ、私大学の講師もやってるんで行きますけど、ひどいですね。もうなんのために勉強に来とるんか全然わからない。こういう問題は先生どう思ってはりますか。

 大谷 一人一人はいい人ですよ。一人一人はいい人。だけどこの社会がおかしい。あのやっぱり朱に交われば紅くなるで、やっぱり今の日本民族がなぜこうなったかは、やっぱり日本民族の色があるんだと思うんですよ。申し訳ないですけど、戦争時代は戦争時代の色があったと思う。だからそういう国民性になった。戦後には戦後の、バブル期にはバブル期の国民の色があったんです。私達はそれを除いては生きていけないです。その環境の中に生きてる間は。今一番、日本民族に欠けているのは「敬い」だと思います。

 蓮風 そうです。

 大谷 これが日本人の一番悪くなったベースだと思います。「中今」の話で言いますと、やっぱり「我」の教育は「今」が一番賢い、「自分」が一番すばらしいっていう考え方だから他人を敬わないんです。

 蓮風 とんでもない錯覚なのに、錯覚に気づかないんですよなかなか。俺は偉いんだと。せやけどその偉さ自体も今おっしゃるようにですねぇ、先祖からいろんな伝わってきたものや、それから周囲の環境のおかげでなってる。それから自分達に教えてくれた師匠のおかげ。考えたら全部自分であるようで実際はないんですよねぇ。

 大谷 ないんです、ないんです。なにもないんです。

 蓮風 ないですよねぇ。

 大谷 お与え頂いたもの。例えば今日こうやって元気でいるんだってお与え頂いたもんですよね。私よく施設に行くんですけど、そうすると、脳梗塞で手が不自由とか、例えば交通事故で脚が不自由だって人がいると、俺達憐れだろ、みたいな顔する方がいたら僕は言うんですよ。「生きてんじゃん」って。この前の津波、生きたくても生きられなかった方がいる。いいじゃん片手くらいきかなくたって反対の手動くじゃんって。脚がなくなったって車椅子あるじゃんって。今日こうやってここまで来てるじゃない。それを喜ばないで欠けたとこだけガタガタ言ってそんなんおかしいよ。命に対する敬いが足らないよっていつも言います。

 蓮風 まったくそうですね。患者さんの中にも鍼でもって良くなっていっているのに次々と不平不満が出てくる方がいます。「あっちが痛いこっちが痛い」。終いにね、あんまり「あっち痛いこっち痛い」と言うから「それはあの世とこの世がね、引っ張り合いしてるんや。痛いの当たり前や」っちゅうようなことをね、まぁ親父ゆずりの冗談で言うんです。感謝というかね、素直に喜ばないかんのが喜べない人達が多すぎる。それはねぇ、やっぱり病気を作りますよ。患者さんを診る。で、いろいろな苦痛がある。それを取っていくわけですけども、「先生なんでこんだけ鍼が効くの?」って聞かれる。「あんたが生きてるからだよ」って…。「死んで冷たくなったら効かないんだよ」って言います。さっきの話で言うと、生きてること自体がありがたいことだ、という感謝の念がないんですね。だから生きてるということは本当に凄(すご)いことなんだけど、なかなか気づかない。

 大谷 思い通りが〇(まる)で思い通りでないことは×(バツ)だっていうそういう論理だから。最近ですね、子供にゲームやらせるとすごくよくわかるのは、簡単なゲームって子供は1回やったら次やらないんですよ。解けないゲームはしつこくやる。だから僕も人生はゲームみたいなもんだと思ってるから、解けないから面白いっていう風に思った方がいいんじゃないのって。学校で大学受験失敗した人が来るんですね。「落ちました」って。よかったなぁお前。今のお前では入れないっていうことを学校が教えてくれたんだよって。だけど彼は落とした学校が悪いって言いますから。足らない自分が悪いじゃなくて落としたお前が悪いって。これが逆恨み現象。今の無差別殺人は全部この逆恨み現象ですよ。自分は、例えば80点ないと評価されない。だけど60点。だけども評価されたい。そうすると評価しないお前が悪い。こんな社会は無くてもいい。そんな幸せそうにしてる奴はみんな死ねばいいんだっていうのが今の大量の無差別殺人の根本だと僕思います。秋葉原の通り魔殺人事件なんかはもうその典型だと思いますね。

 蓮風 だから自分の命をまず大事にする。自分の命に感謝できない者は他人の命に対しても軽率になりますね。  〈続く〉

  「鍼(はり)」を可能性を見つめる「蓮風の玉手箱」は今回も薬師寺執事の大谷徹奘さんと、鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談をお届けします。おふたりの話題は病気の原因から「自他」「生死」への視点へと及びます。健康を考えるという行為はとても深遠な思考活動なのだ、とあらためて感じる方も多いかもしれません。テレビや雑誌の「健康特集」ではなかなか得られない知恵もいっぱいですよ。(「産経関西」編集担当)

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 大谷 お釈迦様の考え方を見てますと、やっぱりものすごく医学のことについてもご存じだったと思うんですね。

 蓮風 「仏医経」というのがあるんです。私も少し見ましたけれど、非常に短い経典です。たぶん、いろいろお釈迦様も修行したうえで、やっぱり身体というものは大事だと気づいておられたと思うんです。
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 大谷 あの「倶舎論(くしゃろん)」という(仏教論書の)中にね、お母さんの中に受精してから子どもがどういうふうに育つか、ということが現代の医学書のように書いてあるんです。そしたらやっぱり身体が先なんですね。で、身体が育ってきて、脳が出来てきて、だんだん脳が大きくなっていく、というのが書かれてまして。そういう面で見ると、順番どおり、まず容れ物を頂いて、そこから内容が育っていく、という考え方だったんですね。

 蓮風 病気の大きな原因のひとつに、七情というのがあります。喜び、怒り、憂い、悲しみ、思い、驚き、恐れ、これがバランスを崩すと病気をする。この中で違和感があるのは、「喜びすぎる」ことですね。現代の世の中で、なかなか喜びすぎというのはないんですよ。だけども、昔の人はどうもあったみたいで。それこそ、博打で大当てして、喜びすぎて、笑いすぎて死んだというのがどうもあったみたいで、東洋医学的にはこういう分析をしているわけですけれども、こういう偏りについて、先生のお立場で、仏教のほうで、解決する方法は…。

 大谷 たくさんの人に会って、悩みを聞いたり、駅のベンチで人を見たりするのが好きなんです。そうするとですね、日本人は申し訳ないけれど、いま表情がありません。喜びも悲しみも、表情に出さない。もうほんとに冷たい顔をしている。たぶん、自分をさらけ出すことが、自分の評価を下げるように思ってしまうのでしょう。だからこうやって、たとえば面談で、2人で会っていても、なかなか本性が出てこないんです。私は、その人が、どういう心のコンディションなのか、言わせるようにしているんです。徹底的に言わせるんです。自分で言わせるんです。

 蓮風 僕らの場合はねぇ、これを身体の体表観察というんですけれど、手足の大事なツボ、背中、お腹、これを触ることによって、この人がどういう(七情の)傾きがあるかがわかるんです。ただ、その傾きをどういうふうに整えていけばいいかというと、もちろん病因病理を立てて、証を立てて、そして鍼をしていくわけなんですその場合に、なかなか心のクセというのは修正しにくいですよね。そういったことについて、「あんたはイライラしすぎやで」とか「ものにビクビクして、もう不安でしゃあないやろ。それは非常に身体に悪いから、自分を反省してやりなさい」と言うんですけどね。
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 大谷 僕はいつもこんな質問を説法を聞く人たちにするんです。「人はどんな時に腹が立つのか」。これ、学校ではされない質問ですよね。結論は簡単なんです。思い通りにならない時に腹が立つんです。先生の仰っている、たとえば、人はどんな時に、喜ぶのか、怒るのか、憂うのか、と。そしてこの「人」に「あなた」の名前を入れてください、と言うんですね。大谷徹奘がどんな時に喜ぶのか、怒るのか、憂うのか、と。その中で感じた時に「なんで?」「なんで腹立ってるの?」「なんでその人が憎いの?」「なんで殺したいほどなの?」と問うていくと、最終的に出てくるのが、「思い通りにならないから」という答えなんです。
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 蓮風 そうですねぇ。その思い通りにならないことも、その内面はもちろん最終的なものだけれども、いろんな要因がありますよね。親が愛してくれなかったとか、社会に出て会社でなかなか上下関係がうまくいかないとか、自分でどうにもならない部分もあるわけですよね。

 大谷 私は、お寺の修行があまりうまくいかなかったんですね。もうこの性格だから、ものすごくぶつかったんですね。高田(好胤)というお師匠さんはものすごく好きだったんです。で、高田にくっついていったら、そこが薬師寺だったんです、ま、言っちゃ悪いけれど。高田が他のお寺や企業の人だったら僕、そこに行ってたと思うんです。で、行きましたら、そこに兄弟子という人たちがいるんですよ。僕は望んでないんですが、いるんですわ、そこに(笑)。その人たちとぶつかるんです。そうすると、習おうという人に対しては人間って素直だから、自分のものさしの尺度の幅を変えるんです、価値観を。だけど自分の持っている価値観はなかなか変わらない。そうすると、人間は、「自分は○、相手は×」。これが基本中の基本だと思っているんです。これを修行の中で、「自分も○、相手も○」にしてみようと。いまはこれくらいまである程度わかっているんです。だけど、僕はいま、究極の目的は、「自分+相手=◎」にしようと。時に悪い人は「自分×、相手×」。これが一番やりにくい。それからもうひとつ、「自分×、相手○」、これもやりにくい。もう全部譲っちゃって、自分の意志じゃない人。これは救いにくい。

 蓮風 私もそう思います。

 大谷 で、私は自分の修行の中ですごく先輩達を否定してきた。その否定した、この○はなにかというと自分の価値観。だから、会社に嫌な人がいて、会社をやめたい人がいっぱい来るんです。辞めようかって相談に来るんです。その時に「おまえ、相手が悪いって言うけど、自分だけ突っ張ってるんじゃねぇの」って言います。それで自分のツッパリで、自分を喜怒哀楽させて、通じた時だけ良かったと。人間はゴリ押しして通そうとして通るときはたくさんありますよ。だけど、後から必ずツケが来る。後からはじかれるというツケが来るんですよ。

 蓮風 基本的にやっぱり何か感情が起こるというのは、その人の感情の欠けている部分だと思うんです。欲しかったものがない、という、あるものを喜ぶというのではなく、ないものが欲しいという人間のスタンスのようですね。ないものねだり、というは多いですねぇ。そこで、一番大事なことは、「死と生」の問題ですが、自分と相手を分けるということがもうすでにして問題だと思うのです。東洋医学では「気一元」というのがあるんです。

 大谷 気一元?

 蓮風 本にも書きましたが、もともと(生と死は)一つなんだという、それが分かれたんだと。ところが西洋の場合は、もう最初から分かれていて、分かれた中で仲良くしようという発想です。だから自分の所がやられたらいかんから、壁をつくる、鍵をかける、もうひとつ悪いのは、先生もいま仰ったように、心の鍵をかけてしまう。だけど東洋医学は、もともと一つだったものが分かれた。で、こっちの生と死の問題も、気というものが集まると「生」、これが散ると「死」という。荘子哲学ではこれを非常に重要視します。「千の風になって」という歌がありますが、あの発想に近いですね。だから生と死というのはひとつの変化過程なんであって、全く別物じゃない。

 それをホントに体感したのはインドに行ったときですわ。ガンジス川の流れるところに、朝早く起きて行くんです。行ったらもうすごい人で。川の中で洗濯してる人もおれば、沐浴する人もおるし。それからその洗濯ジャブジャブやってる後ろで、野菜を洗ってる人もいる。もうひとつ目を上げて川岸を見ると、火葬の煙がもうもうと上がっている。あの国では、死というのが当たり前みたいですね。その中でお釈迦様が生老病死ということもお説きになったと思うんですけれども。気という考え方からすると、自分と相手を分けるというのは基本的にはおかしいんですよね。

 大谷 おかしいですよね。

 蓮風 だからその根源にもし目覚めることができたならば、そういう問題は解除すると思うんです。大谷先生が仰ったように、おできが一つ出来ても、結果なんだと。それは必ず中から起こっているんだと。そういう考え方からすると、人間の身体はひとつの有機体で、つながっているわけなんです。我々の身体はバラバラなんだけれども実はもともとはつながっておったんだ、という発想がもしできるならば、これはまた変わった考え方になると思うんですよね。

 それと生と死の問題も、気の集散で説明しております。荘子という哲学者は面白いですねぇ。自分の嫁さんが亡くなっても盆を叩いて踊ったというんです。そしたら友人達が来て「おまえ、自分の嫁さんが亡くなったときくらい悲しんだらどうや」と。そしたら「いや、元の世界に戻ったんやからな、ほんとは喜ばないかんのや。それを喜べないのは、生と死を分けてるおまえの姿が間違いだ」と。こういう荘子の考え方がありますね。それは東洋医学の非常に重要なところだと思うんです。やっぱり有るものが無くなったら寂しいですよ。うちの親父なんか面白いですよ、骨董趣味がありましてね。お抹茶の道具を大事にするんです。で、人が壊したらものすごい怒るんですよ。自分が壊したらどうするかというと「あぁ、諸行無常や」(笑)。だけどそれで納得しますね。人が壊して怒るんだけれど、「あっ、怒って悪かったな。ほんとは壊れるんだ」と言いましたね。だからその、形あるものにこだわるのは、我々のまさしくこの器がそういうことを思わすんじゃないですかね。
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 大谷 僕はちょっと他の方々と違ってですね、独特の生死観を持ってまして、それをいま説いて歩いているんです。

 蓮風 ほう。

 大谷 たとえば、こうやって生きてますけれど、今日こうやって皆と仲良くいますけれど、あと50年も経てば、だれも居なくなります。世間の人たちがですね、「死んだらしまい」と言いますけれど。

 蓮風 そう言いますね。

 大谷 いやそれが僕の修行の目的のひとつだったんです。死んだらしまいだったら、生まれてこなくてもいいじゃないか、っていうのが僕の考え方なんです。僕が持っている一番の基本は、「生まれたものは必ず死ぬ」ということです。奈良を大和といいますが、1300年前に大和言葉というのを使っていて、その大和言葉で「現在」という言葉を「中今(なかいま)」と言うんです。私たちは現在のことを「今」しか使わないじゃないですか。そうすると、この「今」という字だけを見ますと、今さえ良ければいい、自分さえ良ければいい、という思想になってくるんです。

 だけど、「中」が上についているということは、「先(さき)」があって「後(あと)」があるということを考えたときに、私たちには先祖というものがあり、先祖があって私たちは生まれてきた。自分も死ぬ。そして死んだら今度は自分が先祖となって、子孫が存在してくる。その時に、この「中今」を生きる人たちがどういう生き方をするかだと思うのです。たとえば、先輩達の言うことをよく聞き、僕らの時代に拡幅させて次へ伝える。電柱の間を電線が延びて電気が伝わっていく。電気は放電していくから、前の電柱で電気が100だったものが次の電柱では80になっている。減っていく。その時に、次の電柱にトランスをつけて、拡幅をして100にして次に送っていくことが大事じゃないかなと。僕は「中今」しか生きられないですけれども、ちゃんと先輩方の長い命の流れの中にあって、自分がそういうものをしっかりと、時代的なものを合わせて、現代的にして、拡幅して伝えていく。だから先生も14代目でしたっけ…。

 蓮風 そうそう。

 大谷 先生のところの先輩方がずっとやってこられたことを先生が現代的にアレンジをして、それを強くして、これ(電柱)で強くして、80を120にして、でも構わないと思いますが、拡幅していく命ということを考えると、いまの自分を尽くすだけじゃなくて、未来のことを考えながら生きていく。自分の迷いは先輩方から答えをもらえばいい、っていう生死感をもって毎日修行しているんです。

 だからお師匠さんが死んで、お師匠さんが持っていたものを僕が絶やしてしまったら、ただの1本の電柱だけだったら、たぶん次に伝わらずに消えてしまうと思うんです。自分に与えられた役目というのは、次の人のためのことを考える。「今」という言葉だけを考えたら、快楽主義が出ちゃうし、死んだらしまい、という考えも出てきてしまうんで、自殺者も出ちゃう。この「中今」というのは「広辞苑」にも載っている、生きてる言葉なんですね。知らなかったんですけど。だからいま、中今を生ききる、ということを説法してるんです。それがわからないと、結局、僕もですね、先生もさきほど僕に身体を大事にと言ってくださったけれども、今さえ良ければいいと、人からの評価が欲しいから一生懸命走るわけですよ。認められたいというのは、どっかに媚びているから。だけど、少しでも良いものを育てていければ、エゴを超えて生きることができるので、エゴを超えて生きたときに、人間というのは、さきほど先生が仰った、皆がつながっている、自分は先祖とつながっているという、縦軸と横軸の命の連続性について理解することができると、人間はすごく静かになるし、優しくなれる気がするんです。〈続く〉

 鍼灸師の藤本蓮風さんが「鍼(はり)」の力をさまざまな角度から見つめる「蓮風の玉手箱」は前回に引き続き、薬師寺執事の大谷徹奘さんとの対談をお届けします。大谷さんの手のひらから、スキンシップにまつわる生き物の共通性に話題が広がっていきます。日本中を説法で飛び回っている大谷さんが、ユーモアたっぷりの法話で有名だった師匠の思い出を語り、後悔も告白。「器」としての「身体」の大切さをいろいろな視点から考えるヒントを提示してくださっています。(「産経関西」編集担当)

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 大谷 身体が元気ですとある程度までは引っ張ってこれるんですけれど、私は来年で数えで50にさせていただくんですが、40代前半まで疲れるって感じたことがなかったです。寝てもすぐ疲れはとれるし、夢もあるし、やりたいことに対しての熱意もあるし…。だけど、なんとなく50近くなってきて思うんです。親父が70歳で死んでいるんですね。…ということはあと僕が今までの生きてきた時間の4割しか生きられない。で、今までお寺に30年お世話になって、人生50年やらせていただいて、そうすると、あと20年なんてあっという間だろう、自分をじっとみると、極端に何も変化することはない。まぁ、大体この程度までなのかなぁ、って見えたり、責任感が出たりするんですね。どんどんどんどんですね、重たいものが乗っかってきちゃって、それを越えなきゃいけないと思うと、やっぱり身体を酷使してしまうのです。

 蓮風 それなんです。だから、先生は非常に素晴らしいことをやっているし、素晴らしい良い手をしてはる。私は手のひらでわかるんです。人を癒やす手なんです。あの、この間もね民族学の小山修三先生(国立民族学博物館名誉教授)が(オーストラリア先住民の)アボリジニにもヒーラーがおるんだとおっしゃったんです。

 大谷 ヒーラー?
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 蓮風 手をかざして、痛みを取ったり、病を治したりするんです。その手の写真を見せてもらって納得したんですが、大谷先生も良い手をしてらっしゃいます。理想像は仏様の手になればいいと弟子たちに言うんですがね。だから、やっぱりそういうふうに人々を救済なさるんであれば「器」も大事ですよ。ぜひ大事にしていただきたい。

 大谷 私は師匠の高田好胤(薬師寺第124世管主)に、あこがれて小僧になったんですけれど、晩年お師匠さんは、病気で倒れて亡くなるんです。僕はよく師匠のことを“とろろ昆布”って言っているんですよ。なぜかと言いますとね、東京のデパートで仕事をしたときに、北海道物産展ってのをやっていたんですね。たまたまそこを通ったときに、生まれて初めてとろろ昆布を作る実演ショーをやっていた。そうしたら(実演する人が)足袋を履いていて、その指のところに昆布を挟んで、ピンと引っ張って、大きな板のような包丁で、ザクザクザクザクと擦っていくんです。そうすると、下にですね、削られたとろろが出てきて、お母さんたちがね、とろろだけを見て「おいしそう」って言うんですが、その昆布はどんどん痩せていくんですね。で、最後に、たまたまなのかもしれないけれども、その時に昆布が僕の目の前でブチって切れたんですね。

 それを見たときにですね「うわー、うちの師匠と一緒だ」と思ったんですね。こうやって人に喜びを与えて、そのとろろ昆布を作り、人に喜びを与えている自分は身を削ってブチっと切れた。あの、マザーテレサさんが、ロウソクは人を照らし自分はとけていく、と言ったのと同じことをその時感じたんですね。(平成10年に)74歳で亡くなるんですけれど、今、お師匠さんが生きておられたらこの世情をどういうふうに思われるだろうか。もちろん戦争の経験もあるから、苦しみの中でどういうふうにあるべきかってのを、お師匠さんにお話ししてほしいので、生きてくださったらなって思うんですが…。
 
 僕はうちの師匠もね、頑固だったって思うんです。で、ある時ですね、身体の具合が悪くなったんです。60代の中頃だったと思いますけど、もうお寺は優秀なお坊さん達たくさんいるから、お師匠さんに、「もう引退なさって、法を説く、自分のことだけをおやりになったらどうでしょう?」って言っちゃったんですね。こんなこと、弟子が師匠に言ったらあかんのですけど
…。そしたらね、師匠は僕のこと怒ったことがないのに、その時だけはですね、「俺がやらないで誰がやるんだ!」って言って、烈火のごとく怒られたんですよ。お師匠さんに怒られたのはその時だけですよ。だけどその時に思ったのは、あの時、弟子としてもう少し食いついて、「お師匠さん、そうじゃなくて、長く使ってもらうことが大事ですよ」って言えなかったことを、未だに悔いを残しているんですね。

 蓮風 そうなんですね。ですから、あの私もね、ほぼ70に近いんです。68でね。この前もいちびって、若い人たちと一緒に馬の障害に出て行って、4位取ってきたんです。かなりレベル高いんですけどね。そういうことをやって楽しむ。そうして身体を鍛える。これがね、ものすごい大事ですね。今、先生も素晴らしい仕事しておられるから余計に思うんだけど、やっぱり身体を守られて、そこから輝きでる生命が人々を感動させると思うんですよ。

 大谷 這いつくばるようにして講座にいくんですよ。(「心を耕そう」をスローガンに法話行脚などをしていて)日本を1年間で大体6、7周して、講座数が最低でも200講座以上ありますので、多いときはガイダンスも含めると400くらいやるわけですよ。僕の乗っている車のニックネームは「霊柩車」って言うんです。乗ったとたんにもう死んでいるように、グーっと寝るわけですよ。それで、車が着いて扉が開いてお迎えの人がいると思うと、もう顔が変わったように出て行くんです。で、その人たちの喜んだ顔が、自分の喜びになってしまうんですね。

 蓮風 そこらあたりはね、我々も一緒なんです。ただ、やはり器ですから、これはやはりまさしく諸行無常でね、つぶれるもんですから、大切にして、長持ちして、その中でいい仕事ができれば最高じゃないですか。

 大谷 そうですね。本当に。僕は死ぬのはいつでも死ねると思うんですけど、死んだら終いだとは思ってないんです。でも、死んだら生きていることに幕が下りてしまうと思うんですね。ですからそういう意味では、僕は、親父が70歳、師匠が74歳、お釈迦さんが80歳、そこをライバル視して(笑)、身体のメンテナンスしたい。だから実は今回の震災(東日本大震災)がなければ、仕事量を3分の2くらいまで減らす予定でつとめてたんです。しかし、震災をいただいてしまったんで、まぁこれもお役目だからと思っています。

 蓮風 まぁ、それはそうなんですけどね。とにかく身体を大切にして、いい仕事をしてもらいたいです。
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 大谷 あの、病気をすると、さするってのがあるじゃないですか? 僕、この手の温もりってね、絶対にね、肉体に対してはどうかわかりませんけれど、精神に対してはものすごいと思います。僕は自殺志願者をずいぶん世話したんです。よく一緒に寝たんですね、一つの布団で、抱いて寝てやるんですよ。同じ部屋に寝ているんですけれど、最初は別に寝ているのだけど、「おい、こっち来い」ってクッと抱いてやるんです。そうするとですね、すっごく柔らかくなるんです。それまでの固かった身体が。

 蓮風 あのね、私はそれも少し経験しているんだけど、亡くなっていく人を何回かみたんです。何かしてあげたい、どうしたらいいかっていったらやっぱさすってますわ。そうするとね、安らかーな顔で向こう行きますね。最後はね、結局さすることなんです。我々はこれを「手当て」って言って、一番原初的な医学の形をとっている。その典型例が母親の行動ですね。医学の知識がないのだけれども、(子供を)さすってやる、抱いてやる、先生のおっしゃるとおりですわ。そしてね、もう一つ面白いのは、私はオーストラリアの馬を持っているんですよ。もともとは競馬場で走っていた馬です。その馬はものすごく素直なんですね。いわれを聞くとね、(オーストラリアでは)馬が生まれたときに思いっきり抱きしめるんだって。そうするとね、素直な馬になる。今の話、本当にすごいですね。

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 大谷 盲導犬のお手伝いをしたことがありまして、盲導犬も生まれたときに、人間に従順になるように人間にあずけて、絶対に怒らずにものすごくなでて、抱いてやるといい盲導犬になるっていう話を聞いたんですね。今の話と同じですね。

 蓮風 だから、生き物というのはそういう共通性がやっぱりあるんですよね。理屈じゃなしに。

 大谷 あの、人間を見てましてですね。裏切れない人を持っているか、持っていないかというところ、例えば家族は裏切っちゃいけない、この人は裏切っちゃいけないっていう人を持っている人と持っていない人ではね、全然人格が違うんです。そういう裏切れないっていう相手を持っている人は大事にされているんです。大事にされた人は人を大事にするんです。人から、さげすまれたり、相手にされなかった人が、やっぱり悪い方向へ行くんです。人間の心のことはよくわかりませんが、僕らは唯識という世界の専門の勉強をするんですけれども、人間の経験が自分の心の中に蓄積されて、その蓄積がその人の行動になるっていうのがあるんですけれども、まさに今の、さすってもらったり、抱いてもらったり、優しい言葉を言ってもらうと、心の中に優しさがあるから出てくるものが優しくなる。日本はたぶん、常にちっちゃいときから競争社会で、「だめじゃないか」っていう否定語の数の方が誉められた数より多いんだと思いますね。誉められた数と否定された数によって、人間の人格って変わると僕は思っているんです。

 蓮風 それは大事なことですね。だからねぇ、結局、さきほどの心と身体の問題からいうと、やはり、先生が仰るとおり(前回参照)「身心」のその「身」を先に置いたというのに私は非常に感動しますね。〈続く〉

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