鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんと九州大学大学院医学研究院教授(麻酔・蘇生学分野)の外須美夫さんの対談は前回、風土を背景にした「アジア的身体感」という視点に話題がおよびました。今回は天体の動きや季節、文化と身体との関係が説かれています。大学という科学の最先端の現場で活動する外さんの口から西洋医学について「からくり」という言葉も出てきます。一般人の感覚からすると予想以上に私たちの身体は解明されていないような気がしました。身体って一筋縄ではいきませんね。おふたりの対談を読まれて、みなさんがどのような感想をお持ちになるのか…。とても興味があります。(「産経関西」編集担当)
外先生見出し4-1

外先生見出し4-2
外先生見出し4-3
 蓮風 私があえて医療を文化と言いたいのは、まぁ先生がおっしゃるようないろんな意味で家族とか、自然とか、それから文化とかいう事がみな影響するわけですけども、あえて我々臨床家の立場で言いますと、日本は一応こう明確な四季折々がございますねぇ。で中国も、中華の華中。中心部は、今は砂漠になってるんだけど、ほとんどはね、緑なす大地だったというのが学者の定説なんです。日本とよく似た気候なんです。だから身体が春の身体、春の心、夏の身体、夏の心、四季折々全部あるって言うんですよ。そうすると春に現れる「弦脈」だって自然界が春なんだから人間の身体も春の状態。これが正常。こういう文化的なものがね、まぁ言うたら西洋医学にあんまりないですよね。

 外 ないです。すべてがグローバル化していきますから。

 蓮風 はい。だからそこに緑なす大地の中で生活する人間はこの四季というのがもの凄い大事。特に農耕民族においては、いつ種を撒き、いつ肥やしをやって、いつ刈り取るか。だから暦が発達して、先生が今お持ちの様な陰陽論(『東洋医学の宇宙』)がでてくるというのが僕の考え方なんです。そういう考え方からすると、東洋医学ちゅうのは独特の文化を持ってるのはそういう農耕文化みたいなんが背景にあってね、だからこそ自然と一体の中に緑の変化もあるし、天空でいうと月の巡り、太陽の巡りがある。特に月の巡りは、私もこの間から魚釣りに凝っとるんですけども、潮の流れが変わるんですよ。大潮とか小潮とかね。で大潮の時ほど大きく潮が流れるから魚が動きやすい。したがって釣りやすいとかね。で、月が周期的に新月、満月と変化するわけやけど、それが実は人間で言うと男は陽、女は陰。陰体のその女性生理というのは月の巡りだからこれを月経という。という考え方がある。だから自然とこう一体になってる人間こそ本当の人間であり、健康な姿だと。こう考えてるわけですね。

 外 スーっとその考え方は私にも入ります。

 蓮風 そうでしょ。
外先生見出し3-4
 外 先生が書かれているように、農耕民族と狩猟民族の違いがあるのじゃないかと思います。そういうことはずっと長い歴史から積み重ねたものとしてあると思いますね。文化的なものとしてもずっと残っている。農耕民族は自然の脅威に従い、そしてその中で自然から得られた恵みによって生きている。だから自然の流れに従って自分の身体の中も流れているという考え方ですね。狩猟民族はどちらかというと、自然を支配しようとします。

 蓮風 そうですね。でこの間もそれを言っとったんですけどね、民族学者の先生と。まぁ言うたら緑なす大地にはもう食べ物はなんぼでもあるんですよ。水もあるしね。ところが砂漠においては、例えば先生見られたか知らんけど、「アラビアのロレンス」という映画ありましたね。

 外 ありましたね。

 蓮風 あれにあるように、水一つでも自分のものと他人のものを分けとるわけですよ。で、下手に自分のやつを他人がとったら殺してもいいという。極端に言えばね。だからその、緑なす大地の豊かな土地の中で生まれた文化と、砂漠に生まれる文化の違いがあるとするならば、今言うように、西洋医学の背景となっている文化っていうのも、やっぱりあるんじゃないかと、いうふうに僕は思うわけで、はい。

 外 うん。それは大きいと思いますね。ええ。私たちは自然の中にいるとほっとする感覚がありますね。

 蓮風 はいはい。まずね。

 外 私は山登り好きです。

 蓮風 山登りですか?

 外 はい。大学時代はワンダーフォーゲル部に入っていました。今も時々山の中に入るとほっとします。頂上を極めることが楽しいのではなくて、山の中に入って、樹木の間を歩むことが楽しい。その時に、私は自然と一体となっているという感覚があります。東洋医学もそうだと思うのですが、陰陽五行説、自分の体の中に自然があり、自然の中に体があるという、そういう考えですよね。

 蓮風 そうですね。だからこれを『天人合一』といいます。天と人は一つなんだと。だから、あの今、自然界が大荒れしていますがね、あれはやっぱり人間がいろいろなことをやって、天に向かって唾を吐いたと言う考え方もできるわけです。

 外 そうですね。

 蓮風 事実、古代中国においては、自分の政治がきちっと、政治家がきちんとやっておるかどうかは、自然の動きを見て、今俺は怒られている、間違った政治をやっている。で、うまく行っているときはその政治は正しかったと反省をしているのが事実あるんですよ。帝がね。

 外 今の日本はどうですかね。

 蓮風 そこまでね、自然に対してあの、畏敬の念というかね、はい。現代人はね、それがないから。

 外 それは、日本人の心も魂も西洋化されてしまった。なんでも自分の思い通りにできる、支配できるのだという、西洋化の流れがあります。

 蓮風 やっぱり、自然を征服する立場と、自然とともに一緒に生きるんだと。で、自然がなかったら生活できないんだというのは、やっぱり農耕民族だからですかね。結局。

 外 日本人は本当はどこかに身についていますよね。みんなの心の中にはあると思います
外先生見出し4-5
 蓮風 ちょっとまた話を変えましてですね。まあ、我々の方では、あの、鍼の効果があったかなかったか、この業界には西洋医学を意識して、西洋医学のご意見を伺わなくてはだめなんだと、そういう不思議な思想もあるんです。だから、その中には、ここにやったら効いたという、あの、いわゆる西洋医学でいうエビデンス(証拠)ですかね。ああいうことを絶対にやらないかんっていう発想をもった人たちがおるんですが、冷静にというか、客観的に見てどういうふうに思うのか…というか。

 外
 確かに西洋医学では、みんなを納得させるために、エビデンスっていうのが必要で、Evidence-based medicineという言葉が一般的になっています。ただ、よく考えてみると、統計処理の結果なのです。100人のうち、95人に効いたら、それはエビデンスとして認めましょうというような統計的処理なのですね。

 蓮風 確率論ですか?

 外 確率論です。だからいろんな条件をしっかり考えないといけません。結構まやかし的なこともエビデンスの中にはあるのですね。いくらエビデンスといってもそれは真実ではない。真実がどこにあるかは誰にもわからない。
外先生見出し4-6
 蓮風 そこらあたりを、先生にはしっかり言っていただきたい(笑)。と言うのはね、あの、わかるんですよ、明治以来劣等感をもってきたこの医学ですから。だけれども、西洋医学が認めるか認めないかという基準で、我々の医学をやっちゃだめなんだと。そうじゃなし、独自の基準があるんだという発想の中で本当の東洋医学があらわれるっていうのが我々の立場なんですけれど。

 外 今は世界中である治療法が認められるか、認められないかは、一流の雑誌にちゃんと掲載されるかどうかによっています。現場にいて、エビデンスも一流雑誌も、なんていうのでしょうか、いろいろなからくりがあるように思います。

 蓮風 からくりですか。

 外 はい。結局、真実を評価しているわけじゃなくて、査読委員や編集長が判断をするわけですね。そこには、いろんな思いが入ってきます。そして何年後かに、あの時はエビデンスがあると思ったけれども、覆されることがよくあります。みんなを納得させるのは、ある物質が見つかったとか、はっきりと目に見える形で証明することが大切ですが、エビデンスという言葉を聞いたときには、やっぱり疑う目も必要です。

 蓮風 疑い(笑)。

 外 真実との間には乖離があると思った方がいいです。

 蓮風 そうすると、我々の理解としては、エビデンスというのは一つの確率論、統計学であって、統計学をどういうふうに使うかによって、随分意味が変わってくるのだということでしょうかね?

 外 はい。五木寛之が、他力や親鸞の教えなどいろいろ本を書いていますが、「養生の実技」の中に、「全ての統計はフィクションである」と書いています。真実とは違うと彼は言っています。そして、自分の体を、体の声を一番信じると彼は言っています。結局、痛みを取るか取らないかは、その人が痛くないと言うかどうかですから。

 蓮風 そうそう。そういうことですね。

 外 痛みの原因があるにせよ、その人が痛くないと思えば痛みがないということになります。誰も、他人の痛みを見ることはできない。それはとくに大事なことで、痛みを可視化して、目に見えるようにしようとか、痛みを測定できるようにしようとか、血液を調べたり、MRIを撮ったりして、痛みを見つけようとしますが、そういうことと実際の痛みが一致するかというと、決してそういうことは言えません。

 蓮風 非常にすばらしいことを伺っているわけですけれど、我々もね、ある程度客観化っていうのは必要だと思うんですよ。だから、たとえば、ここが神経痛で痛いと、そして何回か治療して、先生大分痛みが取れたと。その時に言う、ペインスケールというか、あの、最初鍼をする前の痛みを数字の10とすると、いまいくつや?って患者に聞くと「2か3です」っていう。それじゃあ大方取れたと。この程度のことはやります。

 外 私たちもそれは行っています。

 蓮風 そうですか(笑)。なんか嬉しくなってきた。

 外 痛みの評価で世界共通なのは、VAS(Visual Analogue Scale)とか、NRS(Numeric Rating Scale)とかいう評価法ですけど、結局は0から10までのどこにあるかという方法です。それが今の共通の痛みの評価法です。

 蓮風 世界共通の方式をもう取っとったでってことですか?

 外 ええ、そうだと思います。患者さんにどれくらいの痛みですかと聞いて、10分の8ですって言ったら、これは大変な痛みだと思わなきゃいけない。10分の9だったら痛みでなにもできない状態に違いありません。ただし、10分の8と言っている人と比べて10分の4って言っている人の痛みが半分の痛みかといったらそれは違います。

 蓮風 違いますね。

 外 逆転することだってあります。それはしょうがないです。だから、10分の4の痛みに対しては治療を頑張って10分の2を目指しましょうとか、十分の二になったらよしとしようというような大まかな指標です。

 蓮風 先ほどの脊柱管狭窄による、間歇性跛行は10から2くらいにはすぐなります。で、次に、統合医療と西洋医学、統合医療と東洋医学についての先生のお考えを伺いたいのですが…。

 外 私も、元々西洋医学に染まって実践しながら、患者さんにいい医療があればなんでもやってあげたいという気持ちがあります。だからアンテナを張っていて、その中に統合医療があっても良いと思います。しかし、統合医療は余りに多くのものが含まれすぎて、医療と言えないものまで入っています。どこまでやるのか、どういう切り口でやるかといったいろいろ難しい側面がありますが、日本人としてアジアの東洋医学が統合医療の核になるべきじゃないかとも思っています。

 蓮風 そうですね。〈続く〉