あけましておめでとうございます。
新年第1回目の「蓮風の玉手箱」です。昨年は時代の大転換を予感させた1年でした。2012年はどんな年になるのでしょうか。予想通りのこと、想定外のこと…。さまざまな変化があるのは間違いありません。どのような事態にも対応できる心身の大切さを感じている人は多いはず。そんな方々の参考にしていただくため前回に引き続き、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんと九州大学大学院医学研究院教授(麻酔・蘇生学分野)の外須美夫さんの対談をお届けします。おふたりのお話をヒントにして、ご自身の心と体について考えて、時代の変化への備えに思いをめぐらせてはいかがでしょう。(「産経関西」編集担当)
外 (東洋医学は)漢方とか、アロマとか、いろいろな繋がりが出てくると思いますが、たとえばインドの伝統医療も。
蓮風 はいはい、アーユルヴェーダ医学。
外 インドはいわゆるアジア圏の一つだから、元々の仏教思想との繋がりもあるし、日本人に馴染みやすいというところもあるので、考え方は入りやすい。あと、インドにはヨガがあります。ヨガと医療がどこまで接点があるかどうかわかりませんけれど、人の心を自然と調和させていくという意味では、繋がりがあるような気がします。だから私は、統合医療はもしそれが患者にとって利用できるものであれば、自分のやり方でやればいい。ただし、金儲けのために使ったりするようではいけません。そんな怪しいものもあるので注意が必要です。
蓮風 それはもうねぇ、怪しげなものになっていきますね。ついでにもう一つ、先ほどの話にある一部のところが触れるんですけどね、あの、お釈迦様おられますね?あのインドの。あれを正確に言うと、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)というんです。釈迦牟尼仏の「牟尼」と言うのは、ヨガの行者という意味らしいです。したがって、ヨガの行を耐えてやってきたという形跡があるということを指摘すると思うんですよ。はい。
外 あぁ、なるほど。
蓮風 だから、先ほどの話とつながるんだけども、心の問題は体の修行…。
外 そう思いますよ。やっぱり、ブッダもある期間は本当に修行をして、やっぱりその修行があってこその悟りでしょう。
蓮風 最後はね、その修行をしているんですけど、その前提があるわけですね。私はね、最近、中国の老荘の『荘子』のね、あの、自然、老子と一緒に「無為自然」と言うんだけど、最初から無為自然じゃなしに、私は「練達自然」ということを言うんですよ。ははは。
外 練達?
蓮風 はい。
外 それはあまり聞いたことがない。
蓮風 この、体と心を練って練って、練り直す中で本来の自然があらわれる。これを練達自然と言う人がおりますよ。私、これは正しいと思う。だから、心の問題も、最初からねぇ無為自然で元に戻れっていってもできないですよ、簡単に。だから、最初元々は無為自然やったのに、こう、いろんな経験したり知識で、ひねくれてくる。そのひねくれたものを戻すには、こう、一定の修行なり、鍛錬が必要だと。
外 何かを越える。なるほどね。たぶん、荘子にせよ、老子にせよ、直観に至るまでに練達があったのじゃないですかね。
蓮風 そうなんです。ね、老子の場合は明らかに幼子の状態に戻れということを最初からいうんですね。直観からなんですけれど。この荘子の場合は、もう、論理を重ねて、ものすごい論理を重ねているんです。で、最終的にはやっぱり論理はだめだとやるんです。このねぇ哲学がすばらしいと、私はねぇ一時あれに凝ったんです。肩が凝った(笑)。
外 いやぁ、私も哲学とか思想が好きで本も読んできました。西洋的な哲学や思想を勉強しましたけれど、結局は老荘思想に行きつく。そういう思いがありますね。
蓮風 だから、我々東洋医学のバイブル『黄帝内経』『素問』『霊枢』、その中の『素問』の「上古天真論」という第一章に…。
外 それも、蓮風先生の『東洋医学の宇宙』に書いてありました。私も、『黄帝内経』とか一応名前は知っていましたし、訳書を買っているのですが、先生のこの本を読んで初めて老子の言葉がそこに載っているのだと気づかされました。
蓮風 東洋医学の中に入ってしまっとるわけです。
外 うん。そういうことなんだってびっくりしました。
蓮風 また『黄帝内経』の面白いのは、医学書であることはみんな知っているんだけれど、中国の宋の時代には医学書のみならず、哲学書として位置付けられています。もう『黄帝内経』自体が哲学思想書という位置付けの中で、思想が展開していくわけですよ。
外 そうなんです。
蓮風 だから、大変な思想、哲学が詰まったものが、東洋医学のバイブルであるということなんですよ。だから、人間いかにあるべきかとか、どういうふうに生きていかないかんか、全部説かれておるんですね。それが一番魅力だったんですよ。私は20代の時、嫌で嫌でしゃあなかった。鍼をやるのが。
外 そうですか。へぇ。
蓮風 先祖伝来のあれやから、おやじにねぇ、やれやれと言われとった。
外 やっぱりそうですか。
蓮風 せやけども、当時のね、今から40年前の東洋医学といったらね、あの、薄暗い裏通りでねぇ、蛍光灯が点いたり消えたりして、ぼやっとやっている、あの暗いイメージがねぇ、私は嫌いやった。もっと派手な世界が、そういう意味では、当時は西洋医学は派手に見えました。せやけどね、これをやむなくやらないかんときにねぇ、私は光り輝くねぇ医学にしたい、もっともっと本当にね、このすばらしいことに気づいてもらうように、この医学を作り上げるんだ。なんて野望をね、抱い思っとったんです。
外 それは『黄帝内経』を読んで?
蓮風 そういうこと。そこから、古代中国にはいろんな考え方があって、いろんなものの見方、考え方があるんだって、ものすごい良い勉強になりましたね。
外 そういうふうにね、輝いてくるところが血を引いていたのでしょう。やっぱり。
蓮風 先生は、人の体を治す場合に、西洋医学だけじゃなしに、こういう東洋医学を一緒に取り入れたらいいんじゃないかと。
外 そうですね。でも、お互いがお互いの長所を出し合えばいいのです。西洋医学は固まってしまうと、それ以外の医学を認めないですよね。
蓮風 一般的にはそうですよね。そういう意味では、先生のお考えっていうのはものすごい重要というか、患者さんのためだったら、多少手を汚しても構わないということですよね。
外 そうそう。私は大学病院にいますから、とにかく新しい西洋医学を追いかけるわけです。先進的な、先端的な医学を。
蓮風 ちょっと、私が口をはさむみたいやけれど、西洋医学が先端を求めるのはアメリカ医学ですか? ヨーロッパ医学ですか?
外 アメリカの方が中心だと思います。でも、もうアメリカもヨーロッパも境目がなくなっています。これからの医療は先進医療、先端医療という風にどんどんと前に進んでいきます。それはどういうことかというと、どんどん細かくなっていき、遺伝子を動かしたり、再生医療で臓器を作り替えたりします。もうそれは神の領域という世界に入り込もうとしているかもしれません。
蓮風 そうですね。遺伝子の操作とか。
外 それは、大きな危うさを秘めた医療です。試験管の中でしかできないようなことが、実際に行われるようになってくると、人間とは何かという根源的なところが問われてきます。どこかで歯止めがかかるべきだし、倫理性も問われなきゃいけないし、そういうところに、人間を全体的にみる東洋医学の力というのが必要ではないかと、私は思っています。
蓮風 なるほど。そういう中にも東洋医学の考え方が大事なんだと。
外 西洋医学の問題は、1カ所悪ければそこを何か治せばいいという考え方ですから、全体を見失うところがあると思います。
蓮風 ありますね。
外 そういう医学に対して誰かが見張りをしないといけません。
蓮風 その見張り人になるのは一体どういう世界なんでしょうね?
外 それは私たちがやらなきゃいけないのだと思います。だから大学にいながら、いつもこれでいいかという疑問を持ちながらやっていますよ。結局は、医学が医業になり、商業化して、商品化してしまう。資本主義社会の市場原理で動いています。そういうところまで行ってしまうと、結局目的が何かを失うでしょう。価値観が全然違う世界に入って行きます。
蓮風 病気を治すためじゃなしに、それを使うことによって儲かるから…。
外 これだけの市場があるからそういうところに医療を投資しようとします。
蓮風 かつて言われましたね、医療産業とかなんとかいう概念がありましたね。そういうもんと結びつくんでしょうかね?
外 正にそうだと思いますね。
蓮風 それで、あの、色々なお話をいただいたんだけれど、まあ、この間民族学者とお話ししたんですけど、西洋医学と東洋医学のあり方っていうのは、民族学、文化人類学がどういうふうに考えるかと言ったら、「等置」という考え方を出してきたんですよ。西洋医学も医学やし、東洋医学も医学やから、対等にこう、もう一つの医学もある。そこから、対等なんだという概念が確か民族学者の先生がおっしゃったと思ったのですが。この考え方どうですかね先生は?
外 うーん。等置という風に置かないでいいのかなと思いますが。
蓮風 おぉ、置かなくていい?
外 結局、適材適所というんですか。
蓮風 あのー、それぞれの長所を生かして。
外 及ばないところというか、西洋の力の進んだところもあります。その領域では、そちらで行くという風に私は思います。
蓮風 うん。
外 手術や腫瘍をとる治療では西洋医学的な治療が必要になると思います。そういうのを鍼でするのは難しい。東洋医学が力を発揮する場面は別の所にあると思っていますし、場所を選んでやればいい。そういう考え方で等置されるという事はあるかもしれません。
蓮風 そうですね。
外 あまり、等置だといって対等という形は、必要ないかと思います。
蓮風 それぞれこう、特徴がある。そういう意味ではまぁ、あぁ、等置という概念で置きかえることもできるかもしれんと。
外 えぇ。
蓮風 そういう感じですね。〈続く〉
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