蓮風の玉手箱

このサイトは、2011年8月7日~2015年8月29日までの間、産経関西web上において連載された「蓮風の玉手箱」を復刻したものです。鍼灸師・藤本蓮風と、藤本漢祥院の患者さんでもある学識者や医師との対談の中で、東洋医学、健康、体や心にまつわる様々な話題や問題提起が繰り広げられています。カテゴリー欄をクリックすると1から順に読むことができます。 (※現在すべての対談を公開しておりませんが随時不定期にて更新させていただます・製作担当)

2020年01月


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奈良・山添村の風景=2013年10月11日

 鍼(はり)の可能性を探る「蓮風の玉手箱」は、鍼灸学術研究会「北辰会」代表で鍼灸師の藤本蓮風さんと、医師で山添村国保東山診療所長の竹本喜典さんとの対談の9回目をお届けします。これまで8回にわたり、おふたりのやりとりをお伝えしてきて、医療に従事する人々は「病気」ではなく患者さんそのものと対峙することの大切さを再認識したように思います。みなさんはいかがですか。現代の医療現場では木を見て森を見ないような状態が普通になっていないでしょうか。これは患者の側にとっても大切なことで自分の病巣や痛みだけを考えるのではなく自身全体の見直しも必要のようです。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 50年も(鍼灸師を)やってると、相当いろんなものに当たります。夫婦喧嘩の仲裁に入ったり(笑)、袋だたきにあったり、ヤクザが殴り込みに来たりね…。もう命懸けの事がたくさんありましたね。でも、そういうことも含めて、全体として人間を見た場合に、人間というのは可愛い存在だなというふうに思えてきたんですよね。だから先生がおっしゃったように患者さんが痛みや病気に逃げ込んでいる場合もあるというのは、推察なさった通りだと思いますわ。

 竹本 いろんな人がいて、いろんな性格とか、生き方があって良いんですよね。病気であってもいい時期もあるんだと言うことが、少しは腑に落ちるようになりました。(患者の行動や発言に対して)怒らんでもようなったいうのは、その辺に理由があるのかなとは思います。

 蓮風 なるほどね。で、まぁどうですか? 端的に患者さんとはどんなもんやと、それから人とは何なのか、これから医者を志す人とか、鍼灸を志す人に「自分はこういうふうに思うけどどうだ!?」っていう話があったら、お伺いしたいんですが。

 竹本 僕ね、南方熊楠が大好きなんです。ちょっと読んだ本に、熊楠さんが、「因」があって「結果」があるんだけど、そこに「縁」がないと起こらないというような考え方を書いていたように思うんです。

 蓮風 要するにその、種があるから発芽するとは限らない。そこには一定の条件が…。

 竹本 そうそう。その「因」が結果に変化するための条件である「縁」というのが、別の因果から起こっている。因果同士が複雑に重なってそれぞれが「縁」となっているって言ってはるんです。結局、何が言いたいか言うたら、患者さんと診療で交わるというか、それが、その患者さんの「因果」でもあり、自分の中で自分のまた成長の「結果」にもつながるものだ、というふうなイメージ…。

 蓮風 それは仏教的にまとめると、「因・縁・果」ですね。つながりと、いうことなんですね。

 竹本 そうそう、そうなんです。患者さん一人一人を診るというのは、患者さんを良くするということでもあるんですけれども、自分がやっぱりひとつずつ変わっていくための、その一つ一つの「因果」の重なりというような考えで生きたいなと思っています。

 蓮風 そうですね。私もね、この鍼灸をやりだしたのが21歳。で、それまではね、もうしょっちゅう病気してた。もう病気だらけで、今から思うと自律神経失調症もあるし、胃潰瘍みたいなのもあって、血吐いてた。だから親父にしょっちゅう鍼してもらって、まぁ、それはそれで助かっとったんやけど、なかなか治らん。

 開業して半年ですわ、元気になってきた。今の話聞いてるとね、患者さんを治すと言いながら、実は自分が癒やされとった(笑)。医療というものの不思議さというんか、「因・縁・果」の関係で患者さんとの関わりの中で互いに「因」となり「縁」となり、そして「結果」を作っていく。なんかこれがね、すごい、医療のね、本質を言い当ててるように思うんですよ。うんうん、素晴らしい! 先生、お悟りを持っておられる!

 竹本 医療じゃなくても、そうなんだろうと。いや、そんな宗教家みたいに…(笑)。

 蓮風 いやいや、そういうことでしょうね。

 竹本 そうやって関われたらいいかなと思います。

 蓮風 そうですね(笑)。わかりました。で、もうだいぶ終わりに近づいてきたんやけど、医療やってて、何が楽しみで、何が幸せなんですかね?

 竹本  やっぱり元気になってもらって「ありがとう」とか「ああ、ようなったわ」って言って、喜んでもらうのは幸せですね。というのと、また釣りの話になりますけど、「してやったり、よっしゃー」みたいなのがすごく楽しいです。「あれ?なんで治ったんやろ?」みたいな…釣れてしまった大物みたいなのは面白くないです。一所懸命考えて、狙って釣った魚っていうのは、大物じゃなくてもうれしいものです。同じように、自分の組み立てとか自分の仮説がうまくいった治療っていうのが、ものすごく嬉しいです。
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 蓮風 なるほどね。僕は『鍼灸医学における実践から理論へ いかに弁証論治するのか』という本をシリーズで4冊書いてるんですけど、あれ、お読みになりました?

 竹本 もちろん読みました。

 蓮風 ああ、そうですか。「もちろん…」ですか(笑)。 あの中で私がひとつ言ってるのは、医療とは結局「苦痛に歪んだ顔を喜びに満ちた顔に変えることなんだ」っていうこと。要するに、痛みもあり、それから病気で苦しんでいる姿もあるんだけれど、それがホッと救われる。病気によって治らんやつもありますやん、ねぇ? だけど「先生にここまでやってもらったから嬉しい」って言われた時にもう、猛烈な喜びが起こってきますね。

 竹本 頼りにされて、喜んでもらったら嬉しいですね。

 蓮風 まぁ、究極は同じこと言ってるんだろうと思いますけれども、先生はそれを魚釣りに例えておられるわけで、大物は大物で面白いけれども、小物であっても良いんだと。

 竹本 そうですねやっぱり。遊びと同じにしたら悪いですけれども…。

 蓮風 結果的に、喜びを与えたということ。それが大であろうが小であろうが構わんのやと、いうことですよね。同じこと言っておられると思います。

 竹本 喜んでもらって、必要としてもらえるっていうことと、その過程が面白いということですね。

 蓮風 そうですね。だから、医療の中にそういう心情的な側面と、何とかして治そうといった時にそのメカを考える。それは、我々は「弁証論治」というんですけど、弁証論治がうまくいった時にやっぱりとても嬉しいですね。

 竹本 はい、嬉しいです。

 蓮風 で、うまくいかんこともあります。例えば私の娘がね、悪性リンパ腫で、もうホント苦労して…。結局、向こうへ逝っちゃったんだけど、その同じ悪性リンパ腫でね、徳島からきている50歳代の女性をほぼ治した段階に入ったんですよ。だから、敵(かたき)とったように思って、非常に自分では嬉しいわけです。不可能を可能にする喜びみたいな…。先生はどうですか?

 竹本 まだまだ遠いんですが(笑)。もちろん不可能を可能にしたいです。魔術でもええから治したいとも思います。でも現実はそうはなかなかいかないので。

 蓮風 それはこれからですわ。

 竹本  そうですね。積み上げていく中で、そこまで、たどり着けたらいいと思います。〈続く〉

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竹本喜典さんが所長をつとめる診療所がある山添村の一角

 鍼(はり)の可能性を探る「蓮風の玉手箱」をお届けします。医師で山添村国保東山診療所長の竹本喜典さんと、鍼灸学術研究会「北辰会」代表で鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談も終盤に入ってきました。毎回、読者としては「発見」があるのですが、8回目となる今回は特に興味深いことが語られています。先に“ネタばらし”をしてしまうと「治してはいけない病気がある」という考え方で、おふたりの意見が一致しています。意外な言葉ですよね。詳しくは本文で、ご覧ください。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 僻地で内科的な疾患ではどのようなものが多いですか? 高血圧の問題が出ましたけれども、他には?

 竹本 はい。色んな統計もあるんですけれども、やっぱり高血圧、糖尿病、高脂血症とか心不全とか慢性の肺疾患だとか、あとは整形外科的な問題とかいうのが多いんじゃないかと思います。

 蓮風 内科的な疾患というのはある程度限定されるわけですか?

 竹本 いや、そうではないんですけども、イメージよりはたぶん整形外科疾患が多いんじゃないかと思います。僕が整形外科というのももちろんあるんですけれども、ニーズとしては大きいです。

 蓮風 やっぱりこう農作業をする関係ですかね、生活環境とか。

 竹本 そうですね。(農作業をやっているので)ちょっとくらいは腰も痛くなるやろ、というのは、もちろんあるんですけれども、やっぱりあちこち痛くて辛がってはる人は多いと思います。

 蓮風 痛みですか。人間やから痛みはあるわけで、最も人間的な苦しみのひとつですね。苦しみというと宗教での救済も考えられますけど、先生は医学と宗教との問題には、どのような考えを持っておられますか。

 竹本 難しい質問なんです(笑)。もともと僕、宗教とか大っ嫌いだったんですよね。なんかこう、うまいこと人を束ねるために使うとるわと、そんな思いを昔は持っていたんですけど、今は必要なもんなんだろうと思っています。ただ頼ることで安心できて、うまいこと変われたり、安定したりする人が多くいると思います。自分の中での価値観とか倫理観みたいなものが、形となれば、ひとつの宗教なのかなと思ってます。

 宗教と痛み、苦痛がどうとは、あまり考えたことがなくて良い答えがありませんが、痛みがなぜ起こってくるかとか、それはメカニズムとしてじゃなくて、文脈的に考えるというんですかね。「こうこうこうやったから、こうならないと、しゃぁなかったんちゃうかぁ?」とか。「ブツブツがなんで顔にできるのかいうたら、それは外に見せなあかんから、できるのとちゃうかぁ?」とか(笑)。まぁ、なんかそういう物の捉え方みたいなのも、どっかではあってもいいのかなとか、そういう因果関係みたいなものをいろんな方面から考えてみたいなとは思います。全然宗教の話じゃないですけど(笑)。

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 蓮風 そういったことは結局のところ、病める人とは何か、患者さんとは何か、それから人とは何か、というところに関わってくると思うんですよね。ですから、まさに人さまざまで、もう色々ありますよね。極端な場合は、病気に逃げ込んだ方がその人の人生にとって楽なこともある。

 竹本 はい、治してはいけない病気があるってことですね?

 蓮風 そうそう「緩衝地帯」というかね。

 竹本 治らないんですよね、そういう人。

 蓮風 治しちゃいけない。で、そういう疾患に対してはどうですかね、先生だいぶ診られましたか? そういう人。

 竹本 引きこもっちゃう人とか、なんかいろんな理由があるんだろうというような人っていうのはありますし、確かにその人の一つの言い訳になってんのかなと思うこともあります。で、そういう人に対しては「そんなんやったらあかんやんか!」と、昔は思ってたと思いますし、今でもそう思っちゃう時もあります。だけども、そうじゃなくて、その人の生き方としての現時点での「形」かなというように思うようになりました。

 蓮風 そうですね、その「形」を病気として捉えるっていうことが必要か、どうかっていうことがありますね(笑)。生き方の「形」に向き合う場合は病気とは違うアプローチが大切になってきますけど、患者本人は病気ということで来るわけですし…。

 竹本 でも、それも含めて治したろと思うんですけど、まあ現実は難しいというか・・・。

 蓮風 難しい…。

 竹本 ちょっと目標として置いとこかっちゅー感じです。

 蓮風 そうそう。で、僕らも若い頃はね「コノやろ、なんだ、お前の考え方が間違っとるからそういうことになるんだー」いうようなことを常々思っとったけども、事実、そういう部分もあるんだけれども、しかし同時にね、こう幅広く人間を見つめた場合に、やっぱこういう苦痛があって、そこに逃げ込んでいるのが楽かなという人生訓みたいなね。人間理解においてそういう幅がないと、患者さんを本当の意味で救うことができない。

 私が宗教と医学の問題を取り上げた理由はそのあたりにあるんですよね。結局、病気も治さないかんけど、人間が救われないかんのですよね、それなりに安心立命が得られないといけない。医学的には、いろんな理屈はあるけど、救いとか、安心立命っていう部分には無縁ではいられないと思うんですわ。だからその部分は、単なる医学じゃなし、単なる宗教でもない、そういう部分がね、やっぱり患者さんを診る場合に大事やなというのがつくづく思うところなんですけども。

 竹本 なかなか、宗教家にはなれないですけど…(笑)。でも、段々そういうことを考えるようになったと思います。

 蓮風 そうですね。やがてそれがまた先生の人生を深くしていくし、医者としての深みも出てくると思うんですけれども。〈続く〉

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