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沢田勉さん(写真右)と藤本蓮風さん(同左)=奈良市「藤本漢祥院」
鍼(はり)の力を探求する「蓮風の玉手箱」は公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談の2回目です。前回は鍼灸師の資格を取ってから大学で哲学を学び、35歳で医学部に入学した…というところまで話が進みました。今回は、その続き。蓮風さんが代表をつとめている鍼灸学術研究団体「北辰会」との関わりや首都圏から関西に移り住んできた理由などが語られます。遠回りに思えても人生に無駄はないという見本かもしれません。(「産経関西」編集担当)
沢田 友達が私の経歴を見るとね、「お前、何でこんな道草食ってんだ」って言うんですよ(笑)。
蓮風 そうでしょうね。
沢田 全くの道草好きというか、そういう人間なんだなと自分でも考えて思います。
蓮風 なるほどね。それで結果としては、鍼灸師が先でドクターが後になるわけですけども、やっぱりドクターっていうのは、最初から憧れやから、鍼灸をやるにしても、とりあえず医師の資格をとっておこうということですかね。
沢田 いや、そんなかっこうのいい戦略というのでは全くないですね。
蓮風 あくまでも結果ですか。
沢田 あくまで結果です。
蓮風 そうですか。
沢田 大学で哲学をやったけど、結局はモノにならない。でも、どうやって生きていこうか…?という問題があるわけです。元の鍼灸の仕事をやることも選択肢であったわけですよね。なんかね、物足りなかったんですよ。30歳を過ぎても何か物足りない、それだったら最初は医者になろうと思ったんだから、チャレンジしてみようかと…。で、受験勉強は何回もやってるもんですから違和感がなくて、頑張ってみようかっていうようなのがありました。
蓮風 千葉大学の医学部でしたね、先生は。
沢田 そうです。
蓮風 千葉大学というのは、漢方・鍼灸にある程度興味を持っとった大学ですね。医学部の中でね。当時はそういう漢方・鍼灸に興味を持った医学部というのは少なかったですね。そういう中で選ばれたわけですか。
沢田 そうです、はい。ありましたね、そういうのもありました。あとはまぁ、首都圏ですから、バイトもできるだろうとか、そういう打算もありましたしね。
蓮風 なるほど。それから北辰会関東支部・初代支部長の中村順一君が肝臓病で亡くなるわけですけども、(北辰会の)みんなで手当てしながら、最後は沢田先生が勤務していた病院にお世話になったんです。だから沢田先生が主治医になられた。で、関東支部に在籍されておられたわけですけども、なぜ(関西の)本部に来られたのですか?
沢田 関東では、埼玉協同病院という所で呼吸器を中心にした治療をしていたんです。何年か経って、東洋鍼灸専門学校時代の友達というか先輩から「たまに鍼灸の話を聴きに行ったらいいよ」という誘いがあって(北辰会とのつながりができた)。
蓮風 それは誰ですか? お誘いしてくれたのは?
沢田 ええー……。名前を忘れてしまいました(笑)。
蓮風 そういうことを教えてくれる人がおったと。
沢田 はい。それで、藤本蓮風という先生がいて、鍼灸をやっている先生の中で一番元気がいいと聞いたんです(笑)。
蓮風 元気がいい(笑)。
沢田 実際に講演を聴きに行ったんですよ。
蓮風 あっ、どこで?
沢田 宇都宮(栃木県)だったか、あるいは群馬県のどっかですね。
蓮風 ああ、はいはい。講習会をやりましたね、何回か。
沢田 何回か行ったんですよ。で、その間にだんだんと、例えば(「北辰会」の)O先生だとかK先生だとか、そういう先生と面識ができたりとかして。
蓮風 もうその時はドクターになっとった時ですか?
沢田 もちろんあの、呼吸器科の仕事しながらちょっと悩んでたんですね。段々ね、医者の仕事がちょっとね、行き詰まるというか、同じ仕事ばかりしてるのが何か面白くない。たとえば若い人にも年寄りにも同じようにロキソニンとか、痛み止めを出してるじゃないですか。これで良いんだろうかとかね。
(患者が)「痛い」って言って、凝(こ)ってるんだから揉(も)んでやればいいじゃないかと思うわけです。私は元々、鍼灸師でマッサージ師の免許もあるから触ってみたりするんですが…。なんか物足りないなというか、足りないものがあるなという感じがあったんですね。そのころ、友達の誘いで蓮風先生の講演を聴きに行ったりとかしたんですが、自分が知らんかったなと思って驚いたのは、内科の疾患をね、鍼灸で治してるという事ですよね。
蓮風 それは藤本蓮風、それから「北辰会」を知ってからですか? それ以前にも鍼灸とは関わっておられたけれども。
沢田 もちろん。それまではあんまり・・・。
蓮風 これ非常に重要なことですね。
沢田 藤本先生が内科の病気を治すと、「ああ、鍼灸ってそんな力があるのか!?」っていう(驚きがあった)。自分も鍼灸師やってたけど、実は、あんまりそういう考えで治療してたことがなかったし、また、そういう先輩も少なかったと思うんですよね。そういう事もあって、ちょっと違うものを見つけたという感じがありましたね。それがきっかけで、それから直接は中村先生の主治医になったりしたことで、中村先生に「こんなふうに年取ったけど、また鍼灸を再開してもなんとかなるもんやろか?」みたいなことを聞いたら、中村先生が「思い立ったが吉日だ」みたいな感じのお話とかがあったし、それから確か「お前ちゃんと勉強しろ」みたいなことで中医学の本を1冊もらったような気がするんですね。借りたって言っていいのか、亡くなったんで結局返してないので、いただいたって言っていいのか、よくわかりませんが、そういうこともありまして…。
蓮風 初代支部長の中村順一君との出会いが、患者と主治医という関係であったけど、それを乗り越えて、鍼灸ということで非常に和んだ話ができたわけですね。
沢田 そうですね、それはありましたね。医者は大抵、病院の寮に入るんですよ。で、何年かすると大体自分の持ち家を作ったりとか、要するに定住するっていうことを考えるんですね。そのころ、たまたま結婚してたもんですから、うちの嫁さんが京都に行きたいって…(笑)。
蓮風 僕も初めて会って、ご挨拶いただいて、なんと若い嫁さんをもらったな、と思ってね(笑)。
沢田 まぁ(私自身も)関西に行くのがいいなという気持ちもありましたね。それから、関東だと自分の仕事が固定してしまうんですよ。だいたい「呼吸器の沢田」っていう風になってしまう。で、鍼灸をやりたいから、どんな風な方法があるかっていうと、なかなか難しかったですね。そうすると、やっぱり環境変えて、場所も変えて一からやるほうがやっぱりいいのかなという気持ちがありまして。
蓮風 そういうこともあったわけですね。
沢田 それで、関西に行くという選択になったんです。はい。〈続く〉