医学ランキング
村井和さん=和歌山市吹屋町「和クリニック」
「鍼(はり)」の力を探る「蓮風の玉手箱」をお届けします。村井和・和クリニック院長と、鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談の8回目。おふたりのお話も終盤に近づいてきました。前回、鍼は単なる物理的刺激として効いているのではない、という「鍼の本質」に話題が及びました。蓮風さんは鍼を使わないでも「気」を動かすことができると話されましたが、村井さんはさらにもっと奥、突き詰めた部分に興味を持たれているようです。今回は、そんな質問から対談が始まります。(「産経関西」編集担当)
村井 (鍼による治療から)無駄なもんどんどん省いていったら、鍼がどうして効いているのか、どうやって治ってるのかっていう、本質的なとこに迫れるかもと思うんです。先生は(鍼)一本だけで治すとか、少数鍼で治すということをされてるんですけども、鍼が手元になければ、究極的には鍼というものが存在しなければ、どうなんだろうと、思うことがあります。
蓮風 非常に難しい問題ですね。爪をもんだり、爪楊枝でツボを刺激したりという療法がありますね。私は非常に危険な発想やと思うんです。プロがプロにそういうこと教えるのは別に構わんと思うけど、下手に素人が真似すると却って悪化しますよ。だから素人にあんまりそういうことを教えるのは良くないし、そういう本が沢山流布されていること自体が問題だと思う。「気」を動かすというようなことは、やっぱりプロでも中々難しい訳で、それを素人にここを押したり突いたりしたら良くなるよ、というようなことを言うのは、やっぱり非常に危険ですね。よく患者さんでね、「先生の鍼を受けてる時はええけど、来(こ)ん時はどこ突いたらエエ?」というようなこと聞いてくるんだけど、僕はいらわん方が良いと思う。
村井 私が聞きたかったのは鍼の代わりに何かすることがないかということではないんですけども…。鍼がどういうメカニズムで効いてるのか、身体にどのように作用して鍼が効いてるのかなって不思議に思うんです。
蓮風 これは僕の体験談なんやけど、親父がまだ若い頃で一緒に暮らしていたときのことです。深夜になってね、親父が起きて来て、僕の部屋へ来て「首と肩が詰まって息苦しい」と、言うた時に「中渚」(手の甲の小指と薬指の間を少し下がった部分)」と「臨泣」(足の甲の小指と薬指の間を少し下がった部分)を爪で押えてポンポンと叩いたら、一気に気が下りて治った。こういうことはあるんですね。
だから前にも言ったと思うけど、刺激の部分があるんです、「気を動かす」ということは全く無刺激でやる部分が中心やと思うんやけど、幾分その刺激に反応する部分がある。その最たるものが、お灸ですわ。お灸はもう熱いから嫌でも反応しますね。あれは刺激と言えば刺激です。ただそれをやっぱり素人に言うのには危険が相当伴うなと思います。下手に押さえると却って危ないです。
村井 以前、北辰会のシンポジウムで、先生がドクターに「生命」をどう思いますか、と聞かれました。「魂」だったかな…。東洋医学的には「魂」はどう定義されているのでしょうか。
蓮風 「北辰会」では人間は心と身体と魂という三方面から成り立っていて、それを統べるものが「気」というものだという風に考えているわけですけども。素人でもちょっと今日、元気がないなとか、元気だねという気配で感じる、非常に感覚的に生命を感じている部分がありますね。そういったことが尖鋭化されてくると東洋医学の専門的な生命の見方に繋がっていくという風に思います。
(中国最古の医書といわれる)『霊枢』の「本神篇」に、「両精相搏謂之神」とある。つまり要するに“精”という字は米偏に青と書く。お米を研いで、玄米を研いで精米にする事を“精”と言う。それから転じてあらゆるものをエキスという。「両精相搏つ」というのはお父さんのエキスとお母さんのエキスが相まって神を生ずる。そこから生命の根源の根源である神というものを生ずるということを言っておる。これも一つの東洋医学の生命観だと思いますね。
村井 生まれる時はそうなんですね。死んでいく時は、生命はどんなふうになっていってるって考えるんですか?
蓮風 それは『荘子』という本の中で、「気の集散」ということで説明されています。「気」が集まって初めて生命が生ずる。だから「気」が集まるというのは具体的にはお父さんのエキス、お母さんのエキスが集まって生命が生まれるということ。一方(死は)「気」が本来の姿である自然界の「気」に戻っていく、これを「散る」と言っている。『荘子』では「気の集散」によって生命を説明しております。
村井 ありがとうございます。あと「ツボって何なんですか?」って聞かれたら何て答えたらいいんでしょうか?
蓮風 「気」の流通するルートが人間の身体にはあります。これを「経絡」と言いますけども、流通するルートの中でのポイントですね。それがツボです。だからそこに「気」が溢(あふ)れておれば、いらない物を取り除く「瀉法」をやって鍼で散らすし、足らなければ「気」を身体の中から呼んでそこに集めてくる、これを「補法」という。鍼灸もそういう意味では非常に明解なメカニズムで効いているわけです。
ただこれを誤ると効かないし、かえって悪化します。事実、私は北辰会の会員を被験者にして症状などの悪化実験をやりましたね※ 。素人が下手にやるといかんというのをしきりに言うのはそういうことです。効くという事は悪化させることもできるということ。ちょうど薬が効くという事は転じれば毒になるというのと同じような意味を持つと思っていますね。
※悪化実験とは「天枢」という経穴を使っての実験。詳細は藤本蓮風ブログ「鍼狂人の独り言」第487回(2011年11月8日、「公開臨床」)を御覧ください。(北辰会)
村井 あと一つなんですけども。先生はいろいろな治療法を新しい難病の方が来られた時とかに、どんどん新しい治療法をひらめいて治療されていくんですけど、どのように心掛けてふだん勉強していったらいいんでしょうか?
蓮風 やっぱり毎日、自己否定というか、今までこれで良かったけれども、果たしてこれが最高のやり方かな?と(自問自答する)。ついこの間ね、これはきっかけが面白かった。子供でね、もう鍼を近づけただけで嫌がるんですよ。刺してもいないのにね。あぁこれは刺せないなと思う。手で鍼を隠してツボにかざしただけ。それがどんどん効きだしてね、発育不良の子供がわずかの間に物凄く良くなってきた。やっぱり「気」というものが動くからですね。刺激だけであれば絶対そういうことで効くわけはないのだけども、そういう奥深いものが段々ね、工夫すると出てくる、それが面白いんですね、楽しいんですね。
村井 今のやり方でいいのかなって事を常に反省しながらやっていくんでしょうか?
蓮風 そうですね。病気が治る方法があっても、もっと早く安全に確実に効く方法はないかという目的意識を常に持っとかんと、ダレてしまいますね。僕は、そういうことはものすごく嫌なんですわ。昨日より今日、今日より明日が絶対それなりに展開せんと生きている意味がないように思ってね。だから、そういう中から色々なビックリするような治療法を編み出すことも沢山あります。だからそれは心掛けの問題だと思う。実際、僕ほど色々な患者さんを診ていると、平凡な治療法じゃなかなか治らないようなケースに出会う。だから次の治療っていうものを考え出していくんだね。〈続く〉
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。