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初回公開日 2013.11.16

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沢田勉さん=奈良市学園北「藤本漢祥院」

 鍼(はり)の力を探求する「蓮風の玉手箱」は今回から、公益社団法人京都保健会・吉祥院病院在宅医療部長の沢田勉さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんの対談が始まります。いつもなら新しいゲストが登場される際には略歴を掲載するのですが、今回は“ネタバレ”になりますので、それは次回以降にします。これまで、このコーナーにご登場いただいた、お医者さんはユニークな方ばかりでしたが、沢田さんも興味深い経歴をお持ちです。文字から超然とした、というか、飄々とした、というか、そのどちらでもないような…そんな語り口が少しでも伝われば、と思います。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 先生との対談を楽しみにしておりました。というのも、鍼灸師におなりになってからドクターに、またその間、別の大学で哲学を学ばれたのは聞いております。なぜこのようなキャリアをお持ちなのか、そもそも鍼灸をめざされたのは、なぜでしょうか。そこからお話いただきたいと思います。


 沢田 現在66歳ですし、かなり古いことになりますので、略歴を言いながら、お話ししてよろしいですか?

 蓮風 はい、どうぞ。

 沢田 ドクターになりたくて、医学部の受験をしたんです。でも落ちるんですよね(笑)。だんだん自信がなくなって…。たまたま知り合いの中に鍼灸の先生の息子がいたりとかですね、あとはそのころ、鍼灸というのは少しブームがあったんですね。北朝鮮でキム・ボンハン博士が経絡の実態を解明した(とされた)り…。そういうようなことがあってですね、浪人してだんだん疲れてきて…。

 蓮風 ああ、そこから始まるんですか。

 沢田 そうです。医者になれんかったら、なんか技術者になろうと、もうそれしか食べる方法はないですからね。そういうようなことで、じゃあ鍼灸師をやろうかということで、柳谷素霊先生の作った東洋鍼灸専門学校ってありますよね、東京新宿・歌舞伎町。華やかなネオンのところを通ってですね、学校自体はちょっとみすぼらしいんですけどね。そういうところに通っていたんですね。たしか20歳だったと思います。学校に入学して、3年で鍼灸の免状を取りました。

 蓮風 それでまず鍼灸師ですか。

 沢田 はい。そのころは、経絡治療が中心だったんですよ。

 蓮風 そうそう。

 沢田 本間祥白先生(故人、鍼灸師)のね、『経絡治療講話』とか、そういう本で、みんなで勉強会をやったりとか。

 蓮風 それは学生時代ですか。

 沢田 学生の時とか、その後もちょっとそういう勉強をしたりとか、あとは小野文恵先生(鍼灸師、故人)が近かったんですね。

 蓮風 はいはい「東方会」(=小野文恵氏が臨床家を育成するために1970年に設立)。

 沢田 その学校の先生をやっていたこともあって、で小野先生のところに出入りして、治療を受けていたこともあります。

 蓮風 それは学生時代からですか。

 沢田  学生の時と、卒業してから。そのお弟子さんがやっている診療所にお手伝いというか、入れてもらって、自分も鍼灸を少しやったりとか、ですから20代のころに蓮風先生の名前を知っているんですよ。

 蓮風 そうですか。東方会とはね、当時非常に親しかった時代がありました。

 沢田 僕そのころね、(勉強会などの)会場を作るからとか言われて、椅子を準備したりとか、そのようなことをやってですね、小野先生から「明日、藤本蓮風っていう若い先生が来るんだ」っていう話を聞いたことがあったんですね。で、藤本蓮風っていう先生は、そのころも有名な方で、打鍼を使うということを、小野先生からうかがっていたんですね。そういうようなこともあって実は藤本蓮風先生の名前は知っていたんです、20代で。こういう関係になるとは全く思わなかったですけど(笑)。でも、時代ですね。周りが学生運動が激しくなったりとか、そういう時代があったでしょ。

 蓮風 ありました。
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 沢田 で、そうするとね、なんかこう世の中が騒がしくて、私は何をすれば良いのだろうと、みんなそれぞれに思ったりとか、色んなことがあって、何かね、哲学志向になったんですよ、時代が。

 蓮風 はい、それで後年、哲学を。

 沢田 はい、哲学に走る人とかね、色々いたんです。私もどっちかというと、そういうのが面白そうだと思った。世界をどう見るかとかね、今ではそんなにないでしょ。そんなこと突然やり始めたら変じゃないかと思われるでしょ。そういう発想というか、考え方が結構あったんですよ。

 それから、そのころマルクス主義とかね、そういう勉強したりすると、エンゲルスがね、色々書いた中に、これから論理学っていうのは、形式論理学と弁証法だというふうに書いてあるんですよ。そうすると、若者の私としてはですね、

 蓮風 結局、唯物論的な哲学に興味をお持ちになったんですね。

 沢田 そういうことですね。大学に行ってないから教養がないのかも、という思いもあったんです。ある音楽会に行くとね、良い演奏だとか、みなさんが身近で感想を言ったりとか色々するじゃないですか。私は、今の曲の名前の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」って、どういう意味ですかって質問したんですよ、そしたら音楽家が、何だ知らんのかっていう感じでね、アイネはひとつだと、ドイツ語やと。クライネは小さいんだと、ナハトはナイト(夜)だと、ムジークはミュージックだと言われて、小夜曲という風にいいますと言われて…。自分は何も知らない、勉強し直さなければいけないという気持ちがありました。そういう哲学志向と勉強したいという気持ちがあって…。

 蓮風 そしたら、まず医者をめざして、そしてそれは一遍で入れないからということで、鍼灸師になっておいて、でその間に哲学をやったということですね。

 沢田 いやそんなうまい風にやってないです。その時は一生懸命なんですけど。やっぱり挫折なんですよ、自分がどうも医者になれそうにないとか、そういうことで技術の道を自分が生きるためにはしなければならないと考えて、それはそれで、切羽詰まった気持ちでやって、それなりに全力を尽くしたんですが、上手く行かないということが残念ながら多いということですね。そんなところで哲学をやったり。

 蓮風 なるほど。どうですか、それは鍼灸、東洋医学をやる上で何か役に立ちましたか。

 沢田 今になってみると、論理としてね、ああいう世界、先生がやっている「陰陽論」とか結局論理学の世界になってくるじゃないですか。

 蓮風 そうそう、ロジックですね。

 沢田 ロジックですよね。で、そういう物からいうと、もう色んな社会だろうと、学問だろうと、突き詰めて行くと論理学、論理とかそういうね、哲学の世界になって…。

 蓮風 知らん間にそういう世界に行っとったわけですね。

 沢田 そうですね、そういうのは当然だなっていう風に。

 蓮風 最初からそういうのを求めとったわけではないけど、結果的にはそうなったと。

 沢田 ええ。そういうことでしょうね。後では役に立ったと思います。その時は、ヘーゲルなんか勉強してて…。

 蓮風 意外とそういうことありますね。

 沢田 弁証法を勉強してて(教員が)原書を読めというんですね。で、そうすると、まずひたすらドイツ語なんですよ。必死になってドイツ語読むでしょ。で、1年間で薄い1冊が読めるか読めないかというようなことをやってるでしょ。そういうようなことがあって、ヘーゲルの言っていることは難解で、だんだん分からなくなってきた。

 研究者をめざすような気持ちだったのですが、指導教官が「沢田君、君の卒業論文を見たけれど、やっぱりやめなさい。君にはどうもこれは合わないよ」というんですよ。指導教官というのはその人を伸ばすというよりも、この人があまり才能が無いと思ったら、やめなさいというのも、どうも指導教官のお仕事らしくて…。指導教官からそんな風に言われたので、ああやっぱりあかんかと(笑)。

 蓮風 いや、先生の話を聞いていると僕とね4つしか違わないんですよね。

 沢田 そうですね。だから時代がちょっと合うんですね。

 蓮風 ある程度ね、時代的にはほぼ同じ時代に生きているんです。で、その当時はもうマルキストというか、左翼系のね、ああいうのが一つの若者の憧れで、東大紛争に見られるようにね、東大の塔を支配したのは、そういう前衛的な左翼がね。

 沢田 はっきり言うと暴力ですけどね。

 蓮風 マルクス、エンゲルス、ああいった思想家を勉強することが基本やったんですね。

 沢田 そうですね。

 蓮風 その中で先生は?

 沢田 いや僕はヘルメットかぶってゲバ棒を持ったことは一度もありません(笑)。

 蓮風 そういうことができる人じゃないから、先生は(笑)。わかりました。それで、そうこうしている内に、千葉大学の医学部にお入りになったんですか?

 沢田 大学に哲学の勉強しに入ったのが27歳です。それから千葉大学医学部に入学したのが35歳です。

 蓮風 そうですか。ずいぶん時間がかかりましたね。〈続く〉