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佐々木恵雲さん(写真右)と藤本蓮風さん(同左)=奈良市「藤本漢祥院」

 鍼の知恵を語る「蓮風の玉手箱」は、僧侶で医師の佐々木恵雲さんと、鍼灸学術団体「北辰会」代表で鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談(第2弾)の2回目をお届けします。前回は親子2代で浄土真宗の寺の住職で医師の佐々木さんは寺が嫌で嫌でしかたなかったという、お話でした。では、なぜ結局、住職を継がれたのか…。今回はそんな話題を交えながら、蓮風さんが鍼の世界に入った理由の一端も語られます。おふたりに共通するキーワードは「運命」のようです。(「産経関西」岡崎秀俊)

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 佐々木 父親も医師だし「ドクターになれ」というプレッシャーもあったんでしょうね。だから、大学は医学部に入りましたが、大学に入ってから、本当に寺が嫌で…。寺は継ぎたくなかった。

 蓮風 もっぱらドクターでいこうと。

 佐々木 ええ。だけども、得度だけはしてくれと言われましてね。

 蓮風 おじいちゃんがですか。

 佐々木 父親も母親も。

 蓮風 檀家さんもいらっしゃいますからね。

 佐々木 それで得度して僧侶にはなったんですが、実際ずっと医学一本でほとんど家にも帰りませんでした。それが、40歳前ごろですかね、父親の身体の具合悪くなりましてね、いわゆる認知症がちょっと出て来たんです。

 蓮風 認知症が…。その時は、お父上はおいくつぐらいですかね。

 佐々木 70歳はすぎてましたね。ちょっとお寺の仕事が…「法務」という言い方をしますが、それができない。

 蓮風 嫌でもやらなければ仕方ない。

 佐々木 やらざるを得ない。それで大学の医学部を非常勤になったんですね。その時ちょうどたまたま西本願寺の診療所に…。

 蓮風 西本願寺の「あそか診療所」ですね。

 佐々木 そこに勤めることになったのです。ちょうどその変わり目の時、先生の所(奈良市の「藤本漢祥院」)に僕、初診で参ったんです。

 蓮風 ああそうですか。治療に来られたんですね。ちょうどその頃なんですね。


 佐々木 大学辞めて、ちょうど39歳の時でした。
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 蓮風 先生も長く、漢祥院に通われているんですね。

 佐々木 15年です。

 蓮風 うちの患者さんの“主”みたいな感じになってきている(笑)。今の話を聞いていて私の中に非常に共感が産まれました。うちも先祖伝来、浄土真宗で、その教えが根底に流れています。そういう発想の原点みたいなものが一緒で、そういう点でも以前から共感していたんですけれども、そういうわけなんですね。

 佐々木 まあ独特の生い立ちですね。

 蓮風 どちらかというと、お医者さんになって、それだけで終わろうとしたけれど逃げられなかった、極端に言ったら。

 佐々木 先生がおっしゃるように根底に仏教といいますか、浄土真宗があったんでしょうね。それが自分でも…。

 蓮風 それはね、僕も抵抗しました。鍼医者みたいに薄暗い世界は嫌いやと言ってね。一回は抵抗するんですわ。しかし、色んな大学を受けようと思ったんですがね、そこで僕は運命があるんやったら、これはもう、ひとつ諦めて…断念じゃなしに明らかにするという意味での諦める。18、19歳の時に、悟ったというか、やるんやったら一流になりたい。もう極端な話が、父親が「おまえはこういうふうにやれ」っていうから、反抗したんですよ。あんたに学んでばっかりいたらあんたを乗り超えることでけへんから一流一派を立てるんやって。そういう反感でやったんですが、先生もそういう所を通っておられるわけですね。

 佐々木 父親に対する反発というか対抗意識というのはずっとありましたね。一応職業としては同じ医師と僧侶ですからね。性格もタイプも考え方も全く違いましたけれども、非常に意識はしていました。反発していましたね。

 蓮風 分かりました。非常にめったにない状況の中でドクターとお坊さんをやっておられる。お医者さんをめざしたのは、やっぱり、おじいちゃんのおやりになったお布施の行とか、それからお父さんの影響もあるんですか。

 佐々木 あるでしょうね。そういう風にしむけられたかも分かりませんね。

 蓮風 そうですね。運命と言えば運命ですね。

 佐々木 運命と言えば運命ですね。〈続く