
「鍼(はり)」の力を伝える「蓮風の玉手箱」は僧侶で医師の佐々木恵雲さんと鍼灸師の藤本蓮風さんの対談の6回目をお届けします。一連の対談では、いつも「生」と「死」が大きなテーマになっていますが、今回はおふたりがさらに具体的に「生」と「死」について語ります。しかし誰も経験したことのない「死」を語ることは可能なのか…。そんな疑問について考えるヒントがたくさん示されています。(「産経関西」編集担当)

佐々木 死というものの一番大事なところは、経験した人が一人もいないことですね。だって経験したらそのままその人は、いないわけですから。経験した人が一人でもおればですよ、死ぬことはそんなに苦しい事じゃないし、大変な事じゃなかったよと言ってくれたら安心なんですが、誰も経験したことがないので誰もわからないですよね。だからそこに根源的な死に対する不安が人間に生まれてくるんだと思うんです。他は病気にしても経験できますでしょ。例えば癌とかいろんな病気をした人の話を聞くとちょっと落ちつく。大丈夫やでと言ってくれるだけで。だけど死はさすがに誰も一人として経験したことがない。
蓮風 ただねぇ。亡くなる際にはねぇ形相に現れますなぁ。
佐々木 あー、わかります。
蓮風 ある本に書いたことがあるんですよね。もう肝臓癌(がん)の末期で、ずっと鍼を打ってきたんです。そしたら「危篤やから先生来てくれ」と言ってきた。「はいはい、行きますわ」と行って患者さんに「おい、どうよ」と聞いたら「先生、助けてぇ」というんです。「何かいなぁ?」と思ったら、そらもぅ周囲に亡くなると知らしたもんやから、危篤状態やゆうて、みんなヤイヤイゆうてお見舞いとかにやってくるわけです。「あれ(周り)がうるさいから静かにさせて」と言うんです。で、体を擦ってあげて「気分はどうですか」と聞くと、「ものすごく気持ちいいんですよ」と言うんですよ。
佐々木 それも非常にいい話ですね。
蓮風 ええ、僕はあれでね、やっぱりいい仕事やっとったなぁと思ってね。
佐々木 だからその、死ぬ間際というのは五感が非常に鋭敏なんですよね。で、特に、人間の五感の中で実は視覚は、ものすごく後に発達してきた新しい感覚ですけども、聴覚はものすごく原始的な感覚ですから、これがものすごく鋭敏になるんですね。だから、全部聞こえています。例えば、病室の外の廊下でも聞こえてる、だから今病院でも近くで話すのは絶対ダメで、もし話すならもっと離れた所で話す。
蓮風 それでね、先生。その後日談があるんです。亡くなった人は50歳代やけども、お母さんが70、うーん80歳近い、後で御礼に来て「あっー、申し訳なかったなぁ、亡くなったなぁ」と言ったら、「いや先生、あんな楽な死に方見たことない、何人かでくわしたけども、あんなに息子が楽に逝ったんやったら、死は怖くないかもしれない」とこう言いましたね。だから死というものは、確かに怖いけども、しかし、そこには生との延長線上にありますからなぁー。陰陽で言うと、繋がっているわけですから、患者さんのその表情とか身体の状態にやはり出てくる。
佐々木 なるほどね。

蓮風 だから西洋医学は、ああいう場合は多分ね、モルヒネで眠らせてしまうんですよ。眠らしたから痛み取れたかどうか…。それはそれこそ先生、死んで生き返った者に聞いてみないとわからんけども、とりあえず、西洋医学では、眠らせてしまおうとするんでしょ? あれがね、私、医療としては本当にどうかなあと思うんです。それは何でかというと、生命の輝きが出ようとしているのに、それをまぁ、ある意味で暗くしてしまう、そういうことから考えると、僕らがやっている、その身体と心のバランスをとって苦痛を無くしてあげる、おまけに医療人として触ってあげる、そこに安らかな死というものがあれば、これはやっぱりすごい事だなぁと思います。
佐々木 先生が仰ったように、生と死というのは、仏教でも言いますけど、表裏なんですね。だから生きている我々も医学的に言えば、この細胞がどんどん死んで入れ替わっていくわけで、生と死というのは、常にこう、生まれた時から表裏なんですね。先ほどの先生のお話でもありましたけれども、死をその最後の際の、そのポイントとして見てしまうとですね、死は怖いんですね。
蓮風 そうですね。
佐々木 今、仰ったように生と死というのは、表裏にあると、常に死は生の裏にあるんだというような考え方が非常に大事ですね。
蓮風 そうですね。先年ね、私、インドに行って、あのガンジス川、すごいドロドロした川に朝5時くらいに起きて沐浴に行ったんです。すごいですなぁ、もうーねぇー、ちょっとした服装で、ドボンと入ったんですね。その上では洗濯物をジャブジャブやってるし、その下ではまた排泄物を流したり、もう、すごいですわ。その中で一番興味を持ったのは、対岸を見ると煙が沢山上がっているんです。遺体を焼いているんですよ。焼いた思ったら、パァーと灰を川に流す、そして次の遺体を焼く、これまぁ、すごいですなぁ、インドの人の通訳は「いやいやお客さん、大丈夫ですよ、これまた生き戻ってきますから、今、仮の状態でこないなっとるだけですから」ってなことを平気で言うんですよ。ですから生と死が具体的に繋がった世界をね、インドの人たちはどうも持っている。生き返ってくるんだから全然心配ないんだと、で、ダァーと遺体の灰をね、川に流す。そして次の遺体を燃やす、というようなことが沢山ありました。現地で質問すると、生と死は実は繋がっているから必ず生きて戻ってくるという答えが返ってきたんです。転生と言いますか、転生というものを彼らは具体的に信じているわけですね。
佐々木 そうですね。
蓮風 日本人は観念的に知っているんだけどねぇ。
佐々木 日本人はやっぱり、その西洋的な影響もあるかもわかりませんけど、直線的な生と死の関係が多いですね。

蓮風 そうですね。
佐々木 生まれて、直線的に最後の終わりが死であると、そこで終わったら終わり、全て終わりという考え方が非常に多いです。ただインドの人たちは円環的といいますか。
蓮風 循環的ですね。
佐々木 循環的ですね。この考え方というのは、非常に大事ですよね。
蓮風 そうですね。東洋医学もやはり循環で捉えていますね。『荘子』の中にねぇ、人が生きるというのは、「気」が集まってきて、人を生ずる、「気」が散ったらあの世へ逝く、せやけど完璧に無くなったんじゃなしに、その「気」は次のまた生を作る元だとちゃんと説いとるんですね。
佐々木 うんうん、なるほどねぇ。
蓮風 農耕民族は季節の移り変わり…。必ず春が来て夏が来て冬が来たら、必ずまた春が来る、それを知っている訳ですね。人間の場合「生長化収蔵」というんですけども、生まれて成長してそして衰えていく、それがまた戻ってゆく。
佐々木 そうですね。仏教で言う生老病死は、直線的に生・老・病・死で終わってしまうんではなくて、こう、連なってるんです。死がまた生に繋がっていくんだよと、だから一つのサイクルであって、特別に何か死が悲しいものではないというんですね。そういった考え方があるんです。
蓮風 そうですね。陰陽についてちょっとまとめているんですけども、循環というものの考え方は、ものすごく大きいですね。ワトソンとクリックの二重螺旋構造を上から見るとねぇ、クルクル回っているだけなんですねぇ、だけど横から見ると螺旋状に展開していくわけなんです。そういうことを考えると循環という考え方も、ものすごく大事ですね。
佐々木 そうですねぇ。だから何かこうー、安定した形というのが循環なんでしょうね。一直線だとポキッと折れてしまう、鴨長明が言ったように、行く川の流れは絶えずしてという、水の流れる様の、水のあの柔らかさですよね。そういった循環という考え方というものは、ものすごく大きいものがあるんですよね。
蓮風 そうですよね。
佐々木 特に日本は水に恵まれてますから、農耕とも関係します。それがやっぱり、すごく感じ取るものがあるのかなぁと思います。
蓮風 鴨長明の話でいうと、水におけるやっぱり一つの移り変わり、無常感や循環というのは、やはりあるんですね。
佐々木 あるんですねぇ。今、先生が仰った無常は仏教では、最も大事と言われています。その無常とは、いわゆる無常感のように、寂しいなぁーというのと捉えがちですけども、そうじゃなくて、また戻ってゆくという前向きの考え方なんです。〈続く〉


蓮風 ただねぇ。亡くなる際にはねぇ形相に現れますなぁ。
佐々木 あー、わかります。
蓮風 ある本に書いたことがあるんですよね。もう肝臓癌(がん)の末期で、ずっと鍼を打ってきたんです。そしたら「危篤やから先生来てくれ」と言ってきた。「はいはい、行きますわ」と行って患者さんに「おい、どうよ」と聞いたら「先生、助けてぇ」というんです。「何かいなぁ?」と思ったら、そらもぅ周囲に亡くなると知らしたもんやから、危篤状態やゆうて、みんなヤイヤイゆうてお見舞いとかにやってくるわけです。「あれ(周り)がうるさいから静かにさせて」と言うんです。で、体を擦ってあげて「気分はどうですか」と聞くと、「ものすごく気持ちいいんですよ」と言うんですよ。
佐々木 それも非常にいい話ですね。
蓮風 ええ、僕はあれでね、やっぱりいい仕事やっとったなぁと思ってね。
佐々木 だからその、死ぬ間際というのは五感が非常に鋭敏なんですよね。で、特に、人間の五感の中で実は視覚は、ものすごく後に発達してきた新しい感覚ですけども、聴覚はものすごく原始的な感覚ですから、これがものすごく鋭敏になるんですね。だから、全部聞こえています。例えば、病室の外の廊下でも聞こえてる、だから今病院でも近くで話すのは絶対ダメで、もし話すならもっと離れた所で話す。
蓮風 それでね、先生。その後日談があるんです。亡くなった人は50歳代やけども、お母さんが70、うーん80歳近い、後で御礼に来て「あっー、申し訳なかったなぁ、亡くなったなぁ」と言ったら、「いや先生、あんな楽な死に方見たことない、何人かでくわしたけども、あんなに息子が楽に逝ったんやったら、死は怖くないかもしれない」とこう言いましたね。だから死というものは、確かに怖いけども、しかし、そこには生との延長線上にありますからなぁー。陰陽で言うと、繋がっているわけですから、患者さんのその表情とか身体の状態にやはり出てくる。
佐々木 なるほどね。


佐々木 先生が仰ったように、生と死というのは、仏教でも言いますけど、表裏なんですね。だから生きている我々も医学的に言えば、この細胞がどんどん死んで入れ替わっていくわけで、生と死というのは、常にこう、生まれた時から表裏なんですね。先ほどの先生のお話でもありましたけれども、死をその最後の際の、そのポイントとして見てしまうとですね、死は怖いんですね。
蓮風 そうですね。
佐々木 今、仰ったように生と死というのは、表裏にあると、常に死は生の裏にあるんだというような考え方が非常に大事ですね。
蓮風 そうですね。先年ね、私、インドに行って、あのガンジス川、すごいドロドロした川に朝5時くらいに起きて沐浴に行ったんです。すごいですなぁ、もうーねぇー、ちょっとした服装で、ドボンと入ったんですね。その上では洗濯物をジャブジャブやってるし、その下ではまた排泄物を流したり、もう、すごいですわ。その中で一番興味を持ったのは、対岸を見ると煙が沢山上がっているんです。遺体を焼いているんですよ。焼いた思ったら、パァーと灰を川に流す、そして次の遺体を焼く、これまぁ、すごいですなぁ、インドの人の通訳は「いやいやお客さん、大丈夫ですよ、これまた生き戻ってきますから、今、仮の状態でこないなっとるだけですから」ってなことを平気で言うんですよ。ですから生と死が具体的に繋がった世界をね、インドの人たちはどうも持っている。生き返ってくるんだから全然心配ないんだと、で、ダァーと遺体の灰をね、川に流す。そして次の遺体を燃やす、というようなことが沢山ありました。現地で質問すると、生と死は実は繋がっているから必ず生きて戻ってくるという答えが返ってきたんです。転生と言いますか、転生というものを彼らは具体的に信じているわけですね。
佐々木 そうですね。
蓮風 日本人は観念的に知っているんだけどねぇ。
佐々木 日本人はやっぱり、その西洋的な影響もあるかもわかりませんけど、直線的な生と死の関係が多いですね。

蓮風 そうですね。
佐々木 生まれて、直線的に最後の終わりが死であると、そこで終わったら終わり、全て終わりという考え方が非常に多いです。ただインドの人たちは円環的といいますか。
蓮風 循環的ですね。
佐々木 循環的ですね。この考え方というのは、非常に大事ですよね。
蓮風 そうですね。東洋医学もやはり循環で捉えていますね。『荘子』の中にねぇ、人が生きるというのは、「気」が集まってきて、人を生ずる、「気」が散ったらあの世へ逝く、せやけど完璧に無くなったんじゃなしに、その「気」は次のまた生を作る元だとちゃんと説いとるんですね。
佐々木 うんうん、なるほどねぇ。
蓮風 農耕民族は季節の移り変わり…。必ず春が来て夏が来て冬が来たら、必ずまた春が来る、それを知っている訳ですね。人間の場合「生長化収蔵」というんですけども、生まれて成長してそして衰えていく、それがまた戻ってゆく。
佐々木 そうですね。仏教で言う生老病死は、直線的に生・老・病・死で終わってしまうんではなくて、こう、連なってるんです。死がまた生に繋がっていくんだよと、だから一つのサイクルであって、特別に何か死が悲しいものではないというんですね。そういった考え方があるんです。
蓮風 そうですね。陰陽についてちょっとまとめているんですけども、循環というものの考え方は、ものすごく大きいですね。ワトソンとクリックの二重螺旋構造を上から見るとねぇ、クルクル回っているだけなんですねぇ、だけど横から見ると螺旋状に展開していくわけなんです。そういうことを考えると循環という考え方も、ものすごく大事ですね。
佐々木 そうですねぇ。だから何かこうー、安定した形というのが循環なんでしょうね。一直線だとポキッと折れてしまう、鴨長明が言ったように、行く川の流れは絶えずしてという、水の流れる様の、水のあの柔らかさですよね。そういった循環という考え方というものは、ものすごく大きいものがあるんですよね。
蓮風 そうですよね。
佐々木 特に日本は水に恵まれてますから、農耕とも関係します。それがやっぱり、すごく感じ取るものがあるのかなぁと思います。
蓮風 鴨長明の話でいうと、水におけるやっぱり一つの移り変わり、無常感や循環というのは、やはりあるんですね。
佐々木 あるんですねぇ。今、先生が仰った無常は仏教では、最も大事と言われています。その無常とは、いわゆる無常感のように、寂しいなぁーというのと捉えがちですけども、そうじゃなくて、また戻ってゆくという前向きの考え方なんです。〈続く〉















