蓮風の玉手箱

このサイトは、2011年8月7日~2015年8月29日までの間、産経関西web上において連載された「蓮風の玉手箱」を復刻したものです。鍼灸師・藤本蓮風と、藤本漢祥院の患者さんでもある学識者や医師との対談の中で、東洋医学、健康、体や心にまつわる様々な話題や問題提起が繰り広げられています。カテゴリー欄をクリックすると1から順に読むことができます。 (※現在すべての対談を公開しておりませんが随時不定期にて更新させていただます・製作担当)

カテゴリ: 児童文学作家、ひこ・田中さんとの対話


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初回公開日 2012.12.1

「鍼(はり)」の知恵を語る「蓮風の玉手箱」は、今回から児童文学作家、ひこ・田中さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんとの対談をお届けします。

 児童文学だけでなくゲームやアニメ、マンガなどにも造詣が深い田中さんですが、今回は鍼灸治療を受けている立場から医療に対する考えを語っていただいています。子供の文化の世界を見つめる作家の眼には、現代の医学はどのように映っているのでしょうか。また新しい鍼の世界が見えてきそうです。ちなみに文字にすると、少し厳しい応酬のような印象を受ける方もいらっしゃるかもしれませんが、実際はなごやかで、そうだからこそ、おふたりの思いが率直に表現できているようです。(「産経関西」編集担当)

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ひこ・田中(ひこたなか)児童文学作家、「児童文学書評」主宰。1953(昭和28)年、大阪府生まれ。同志社大学文学部卒業。90年『お引越し』で第1回椋鳩十児童文学賞、97年『ごめん』で第44回産経児童出版文化賞JR賞を受賞。それぞれ映画化もされた。その他の主な著書に『サンタさんたら、もう!』『ふしぎなふしぎな子どもの物語』『レッツとネコさん』など。

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 蓮風 「蓮風の玉手箱」へようこそいらっしゃいました。先生ご自身が鍼灸治療を受けられる前、東洋医学についてどのような印象をお持ちでしたか。そして実際治療を受けてその印象は変わりましたか。鍼灸治療を受けて何か発見などがありましたらお聞かせください。

 田中 私は何かの疾患を抱えて自分を律せなくなったら、しんどくない方向とか、快適な方向に押してくれるものなら、いいだけなんです。手を握ってくれるだけで元気になれるんだったら、手を握ってくれる人でもかまわない。

 蓮風 それはあれですか、たとえば脱法ドラッグというのがありますが、あれでも基本は変わらないということですか?

 田中 それが脱法という時点でダメですけれど、基本は変わらないでしょうね。ただし、病を抱えているというのは、自分で自分をうまく律せなくなっている状態だと思うんですよ。いま仰った脱法ドラッグは、より自分を律せなくなって、心地良くなっているだけですから、これは治療とはまったく逆の方向だと私は思います。
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 蓮風 しかし、それがもし合法的に出された場合、癌(がん)の末期とかにモルヒネを使いますけれど、あれは有効ですか。

 田中 それは有効だと思います。自分自身が治癒の方向へ向かおうということを自分自身で放棄することはあると思います。つまり、これ以上治療を続けることが自分にとって快適でないと思うことって人にはあると。

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 蓮風 …と同時に、それには副作用がありますよね。それを認めたうえでですか、その場合は。

 田中 もちろんです。副作用のない薬は…、治療も含めて、ないと思っています。病というものは、基本的には、ほとんどの病がバランスを崩すことですから、そのバランスを戻すにあたって、たとえばマイナスになっているものをプラスにする場合、別の部分がマイナスになる場合はあると思うんですよね。

 蓮風 それは副作用と言わないんじゃないですか。

 田中 それは藤本先生の言葉で仰っていただいていいんですけれど。

 蓮風 私が思うには、癌で亡くなる方多いでしょう。その場合に、食べれんようになる。それを無理に周辺の者が栄養をつけさせようとする。ところが食べられんかったら食べられんままに放っておくと何が起こるかというと、身体のシステムがうまく働いて、モルヒネ様の物質を出すように脳を刺激するといわれている。だから、癌だからといって、さわらんほうが、自然死に近いことが起こる、ということを言う人もおるわけですよ。

 僕の経験でも、肝臓癌、ある種の肝臓癌ですが、西洋医学じゃなしに、東洋医学で治療しようということでやりましてね。いよいよダメな時に「先生、どうしようか」って電話がかかってきたので往診に行ったんです。「どうですか」と訊くと、「気持ちがいいんですよ。すごく気持ちがいい。今までにないくらいに気持ちがいい」と言う。薬はほとんど使っていない。「ただ先生ね、周辺の者がうるさい。集まってきて、危ないからと騒ぐから、僕はもうあれがうるさくて仕方がない。静かにしてくれ」と言う。そんな実例があるんですよ。

 田中 とてもよくわかります。

 蓮風 東洋医学というのは、どっちかと言うと、何もせん医療ですよ。いま、あなたが仰ったように、バランスの崩れを治すんだけれども、自然に治ろうという修復過程の中で少し援助するだけです。極端に言ったら医療の中で一番弱いと思う。だけどそれが、いま言った事例のように、まれにでも自然死を招来できるのであれば、これはやっぱり医療をもう一回考え直さなければいかんことだし、僕はここにこそ東洋医学のチャンスがあるのでは、いうふうに思うわけですが。
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 田中 いまのお話でもそうなんですけれども、自分自身でバランスが取れなくなっている状態の人が病人ですよね。その場合、ポンと押してあげることはあると思うんですよね、その傾きを元に戻すというか…。その押し方の違いみたいなものが、それこそ西洋医学、東洋医学と色々あるわけでしょうけれども、押し方さえ、患者である自分にとって的確であれば、西洋、東洋を、私は問わない。どれでもかまわない。

 逆に西洋だ、東洋だと言われるほうが、患者のほうはどっちがええのやろうと迷ってしまうので、患者の側だけの気持ちで言えば、あんまり西洋、東洋で強調されるのは非常にキツイ。ただでさえ疲れている時にどっちがええねんと言われるのは、ちょっと失礼な言い方かもしれませんが、迷惑というような気がします。

 そこは単に治療法なり、歴史の違いとして受け止めておくほうがいいのであって、もちろん今、西洋医学と言われているものが、東洋医学をなかなか受け入れないのは馬鹿げたことだと思いますし、逆に、東洋医学の方が、もし、そうは東洋医学の方の人はほとんど仰っておりませんが、西洋医学よりも、いいんだともし仰るならば、それも馬鹿馬鹿しい話だなと、つまり患者の側から見てですよ、そういうふうに考えます。

 蓮風 でもね、我々のほうはアクティブに行動する方ですよね。そうすると、僕は50年間やってるわけで、相応の経験を持っているわけです。その中から見たら明らかにこっちの方が安全に治るよ、というのはあるわけです。これは患者さんに対してひとつの親切であるし、やっぱり見解を言うべきだと思うんですよね。それを迷惑だと言われると困るんだけれど…。

 田中 それを迷惑と言っているのじゃなくて、どっちかを取れと言われるのが迷惑なんです。

 蓮風 それは選ぶのはまったく患者さんの自由です。それはもう基本的に趣味の問題で、私の基本的な考え方は、西洋医学も必要なんです。場合によっては必要です。だけど、多くは必要でない場合が多い、という見解で。だからそれを知らない患者さんは、ほとんど西洋医学に育てられているんですよ。

 田中 あ、それはそうですね。仰ることは、よくわかります。

 蓮風 だからそういうところの間違いを、或いは、より一層その人が楽になる方法を考えてあげるのが僕の仕事と、こういうふうに思うわけです。<続く>


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ひこ・田中さん(写真右)と藤本蓮風さん(同左)=奈良市学園北の藤本漢祥院

 「鍼(はり)」の知恵を語る「蓮風の玉手箱」は児童文学作家、ひこ・田中さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんとの対談の2回目をお届けします。前回は田中さんが鍼灸治療を受けた印象から話が展開しました。今回は西洋医学と東洋医学の違いについて質問された田中さんの意見から口火が切られます。おふたりの見解の相違が浮き彫りになります。真剣な討論を楽しんでください。(「産経関西」編集担当)

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 田中 2番目の質問としてご用意いただいた「西洋医学と東洋医学の違いは何でしょうか」というところに移ります。東洋医学と西洋医学と言うからややこしくなる、と私は思っているんです。東洋医学と近代医学だと思うんですよね、西洋医学ではなくて。というのは、もちろん藤本先生はご存じだと思いますが、近代医学以前の西洋でも行われていた多くの治療も、薬草を使うなど、今、東洋医学で行われているような治療に非常に似ています。

 蓮風 手段としては似たところがありますね。

 田中 そういうものが、もちろん西洋、東洋限らず、それこそアフリカも南米も、あらゆる地域で人はそういう治療方法をどんどん開発してきた。もちろんその中でも文字が早く発達した中国はより先端的に医学書を記し残し、知識と知恵を広めてきた。

 一方西洋では、近代という時代が訪れることによって、西洋にあった今の東洋医学的なもの、人の身体も含めた自然全体をとらえて、その中でのバランスをどう取るかみたいな形の治療方法はしだいに排除されていく過程がある。どんな病かを特定し、分析して、それにどういう治療をすれば良いかを当てはめて、近代医学へと体系化されていく。たとえば産婆という存在は医学の場では女から遠ざけられるかたちとなり、近代医学がその場所に収まりました。女が再び治療の場に戻るには女医の出現を待たなければならなかった。そうして近代医学は独占権を得るわけです。

 疾患を見つけて、分析して、というやり方は、どんどん細部へこだわっていくしかないわけですよね。そのため近代医学は、それぞれの専門家に細分化せざるを得なくなっていったと思うんですよ。

 ただ、ひとつの疾患をその場で治せたように見えても、なんらかのマイナス面が生じる可能性があるわけですから、どんどん色んな種類のマイナスが重なってくる危険性が出てくる。それが今、近代医学がぶち当たっている壁だと思います。日本でもなかなか普及しませんけれども、「ホームドクター制度」(の必要性)を盛んに言い始めていますよね。

 蓮風 プライマリ・ケア。

 田中 そうですね。あれは単純に言えば、ひとりの患者さんをとりあえず全体のことを把握している医者。何かあったら、そこに行って話す。で、そのお医者さんに手に余るものがあれば、専門医でもいいし、東洋医学でももちろん構わないのですけど、割り振るということですよね。その仕事をする医者というものの必要性というものをようやく最近、気づき始めた。

 蓮風 そうですね、あれは1970年代、アメリカで興ってますけどね。

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 田中 日本ではまだこれからですよね。ちょっと話は外れるんですが、このことは保険医療制度に対してもものすごく重要なことだと私は思ってるんですよね。というのは、ホームドクター制度があれば、「その程度の風邪やったら薬屋行って、何系の薬買ったらええよ」と、それで済む場合も、内科医へ行って血液検査したり体温測ったり、そして薬を出してもらったりするから、医者の数が足らなくなり、過重労働になる、ということになっていますよね。ホームドクター制度がもっと普及すれば、医療費も、医者の労働量も減ると思うんですよね。

 蓮風 今の話について言うと、かなり乱暴な所があるんで、ひとつずつそれをひっくり返そうというのが私の目論見なんですが(笑)。真剣に討論することであなたの医療観が生まれると思うので。

 田中 はい、ご教示ください。

 蓮風 まずね、東洋医学と西洋医学、基本的にはそう違いはないのだと理解されていたということですね。で、西洋医学はいま、近代医学として、科学の様相を持ってきた。そのためには分析的になって、最終的にはプライマリ・ケアの方向に向かったという、お話なんですけれど、まず一番最初に言いたいのは、東洋医学と西洋医学はやっぱり根本的に違うということ。何が違うかというと、医学が発生した場所が違う。そしてその社会を規定する哲学思想がやっぱり違うんだね。特に古代中国2500年くらい前には、百家争鳴といわれるくらいで、様々な思想が出てきている。その中で覇者となった哲学思想が東洋医学の根幹をなすわけなんです。

 たとえば「陰陽五行」とかね、気の哲学とか。そういうわけで、ひとつの個性を持った医学を展開する。仰ったように分析する医学とはまったく違う。強いて言えば分析かもしれないが、分析らしきことを通じて常にトータルな意識に持っていく。西洋医学の場合は分析を通じて更に分析していく。だからその反省としてプライマリ・ケアになっていると思うんだけれども、そこが全然まず違うということですね。

 それと、人というものをどういうふうに見つめるか、ということ。人はやっぱり人から生まれているけれども、しかし大自然の子供だという考え方。これが古代中国医学、そして現代に伝わる東洋医学の基本だと思うんです。だから自然の中から生まれて、自然と共に生きる。しかし独立しながら、最終的にはやっぱり自然の中に生きていく、というね、こういう屈折した人間像というものを東洋医学は持っていると思うんですよね。

 そういう中で見ると、近代医学というのはやはりサイエンスです。サイエンスだけれども、じゃあ今、トップクラスのサイエンスを西洋医学が使っているかというと、全然使っていないのではないでしょうか。古典物理学的な世界で収まっていると思うんですよね。ある対象物と、観察する側がまったく常に客観的に同じ状態だという前提です。絶対的に客観性がそこにはあるはずだという(暗黙の)認知のもとに対象物を見ている、だから「客観的に分析できるんだ」という立場だと思うのです。しかし、高等な現代の物理学とか量子力学からすると、もう見る側が対象物を見ることによって対象物自体が変わる、という発想がありますね。 こういうことが近代科学には欠けているのではないでしょうか、それを入れると客観性がなくなるから。

 蓮風さんからの「註」:量子力学の世界で「あの月はその人が見ている時にしか存在しない」とたとえられる。あらゆる物質(観察の対象物)は、電子や量子など小さな小さな要素から構成されているが、それらは常に運動変化しており、"実在"していない可能性もある。その時、その場で、その人が見た(観察した)モノと、別の時に別の位置から別の人が見た同じモノ(対象物)は、全く完全に同じモノではなく、別のモノの可能性がある、あるいは、そのモノは(その時点では)存在しないと観察されるかもしれない、ということ。
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 蓮風 要するに、考え方が違うという話ですね。だから西洋医学が近代化したところで東洋医学とは一緒にならないわけです。それから薬屋と医者の話をなさったんやけど、私もほとんど似た意見なんですよ。

 田中 はい。

 蓮風 だけども、医者がおってはじめて薬屋があるという話はこれ、当たり前のことなんで。日本の漢方でも、あるいは中国でもそうやったけども、薬屋というのはおったんです。で、医者もおった。だけども薬を使うのが医者なんであって、薬が先行して患者に与えるわけじゃない。虫に噛まれたから、薬欲しいといったらそりゃ、やるだろうけれども、基本的には西洋医学では病名診断、東洋医学では証の診断というのがなくなったら(投薬は)あり得ないことなんですよね。そういうようなことを考えていくと、薬屋と医者とはやっぱり違う。もちろん簡単なやつは、今仰るようにプライマリ・ケアの医者がやればいいんだけれども、ちょっと複雑で病気らしいということになると、薬屋では出来ません。

 田中 出来ませんね。

 蓮風 もともと薬という言葉の語源を言いますと、「くする」という言葉。「くすぐる」という言葉がありますが、身体触ってね、だから昔は「薬師(くすし)」と言ったんですね。それを医者と呼んだんだけど。結果的には医者と薬屋は違うということですね。もうひとつぐらいあったと思うんですけれど、まぁぼつぼつお話しながら…。

 田中 私のほうは素人ですので、どんどんそういう話をしてくださいね。<続く>

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『サンタさんたら、もう!』
作:ひこ・田中、絵:小林万希子(
WAVE出版/1,365円)

 「鍼(はり)」の知恵を語る「蓮風の玉手箱」は児童文学作家、ひこ・田中さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんとの対談の続きをお届けします。3回目となる今回は東洋医学の根本原理といわれる「気一元」から話が始まります。万物は元々ひとつ所から発生したもので、それゆえ万物は個別でありながら、すべてつながって一つである、とする思想です。映画にもなった田中さんの『お引越し』にもからめて、このテーマが展開されていきますが、もう12月も半ば、クリスマスも近づいてきました。田中さんの近著に、ちょっととぼけたサンタクロースが登場する『サンタさんたら、もう!』という作品があります。田中さんのファンはもちろん、田中さんに興味を持たれた方は、お読みなってはいかがでしょうか。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 現代社会では他者とつながることに困難さを感じている人はとても多い。東洋医学はあくまでも、すべてのものは一つのものだという考え方。全然別個のものやけど仲良くせないかんという立場とは違うと思うんですね。だから先生の『お引越し』も、家族崩壊“その後”をテーマとし、子どもの目を通して深い洞察をしておられますが、現代、とくに「3.11」以後“絆(きずな)”が声高に叫ばれる日本で“他者とつながる”ことついて、ご意見をお聞かせください。個と個、個と社会、個と世界が、いかにつながっていくか、という問いに対して、「気一元」の東洋哲学思想は、ひとつの解となり得るか、ということなんですけれど。

 田中 「ひとつの解となり得る。」は「解」でしょう。私はそう思いますが、ただ…。

 蓮風 気一元と個と個、個と社会、個と世界、どういうふうにお考えでしょうか。

 田中 ただ、今というか、近代以降の社会が個というものをつなぐ方向ではなくて、より自我を強め、バラバラに切り離していく方向に進んできたのは確かなんですね。近代のシステムは、資本主義もそうですけれども、たとえば血縁や地縁にこだわればこだわるほど、経済効率は悪くなるんですよ。

 蓮風 はい。

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 田中 近代そのものは、個人がそれぞれ別個であり、個性があり、それが大事だということを、あらゆるメディアを通して伝えてきたわけです。これは個人の側にとっても、あながち悪い話ではありません。なぜなら個々人が大事にされ、個々人の権利が認められ保障されていくのですから。と同時に、私たちは個性を競うために、ブランド品を身につけたり、それから一生懸命、本当に好きかは別として趣味を色々必死で持ったり、私は誰でもない私であることを証明しないと認められないとも思うようになりました。ところがそれは、血縁や地縁を希薄にすることでもあった。

 だけど、じゃあ元に戻せるかというと、それは無理だと思うんですよね。西洋でいう中世なり近世、日本だったら江戸時代くらいに戻った生活の中で私たちが地縁・血縁を強く持って生きていくのかというと、それは難しいと思うんですよね。「3.11」以降、急に絆という言葉が世間に流布して、まるでお祭りのように高揚して語られましたけども、これまで絆に価値を見出してなかったことの証しにも思えます。

 蓮風 そういうこと、そういうこと。

 田中 この不況で、日本では「過去に戻れ」という人たちもたくさん台頭してきてはいますけれども、それは却ってマイナスだと思います。いま、バラバラになった中で、つまり地縁も血縁もない我々一人ひとりが、昔の地縁・血縁と違う形で温かく、どうつながっていけるかということを考える時期に私は来ていると思うのです。
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 蓮風 そういうことから言うとね、児童文学の存在理由とつながりがあるように思えるんですが。

 田中 そうですね…。たとえばここで私が以前から知っていた産経新聞の方が「産経関西」の担当で、(また別の縁で)藤本先生と私が会っていますが、偶然めぐり合い、地縁でも血縁でも何でもなくて、自然につながっていって、そこで心地良い関係をもっているのであれば、それは親であったり故郷の先輩である人よりももしかしたらずっと自分にとっては大事であったり、いざという時に役に立つつながりであるのではと思うんですよ。

 いま子供たちは一人で不安なものですから、友達が欲しくてしょうがないんですよね。ところが、スマートフォンや携帯にも象徴されますように、彼ら自身は生で相対して濃密な時を人と過ごす機会がどんどんなくなってきていますから、薄くていいから、とりあえずたくさんの友達を欲しいんですよね。小中学生にお話する機会がある時、「友達なんか生涯に1人、多くて2人あったらええんやよ」いう話をします。「今、もしいなかっても、いつか大学生になった時に見つかるかもしれんし、3年になったら見つかるかもしれへん。自分は友達がいないからダメな子供やと思わんほうがええよ。今は君にとって友達は必要ないのかもしれないしね」というんです。実際、1人あったら安心やないですか、何かあった時に理由も聞かずに「来てくれ」言うたら来てくれる人が1人おれば…。

 蓮風 まぁ、そうですね。

 田中 そんな中で子供の本を考えるとすると、昔話などは、元々、子供向けじゃないんですよね。普通の人々が知恵を伝達するための物語だったわけです。例えば有名な「赤ずきん」だったら、若いおねえちゃんはひとりで森の中歩いたらあかんよっていう事を面白おかしくわかるように伝えるためだから…。実際の原話だと2種類あるんですけど、原話のひとつだと狼に食べられて終わりなんです。もうひとつの原話だとこれの方が古いみたいなんですけど、女の子が自分ひとりの知恵で狼から逃げ出すという話がある。

 ところがグリムの頃になると、女の子を猟師が救い出すようになってくる。子供はちゃんと大人が守りますよという話に。「白雪姫」の場合だと、初版では実母が娘を殺そうとするのですが、近代社会の倫理としては、これはあかんということで、継母に書き替えられる。そういう価値観を踏まえた上で、子供向けの近代小説を書く人達が現れてくるわけです。もちろん、それは書いたからといって売れなければ職が成り立たないわけですから、わざわざ子供専用の本を買って読ませたいという考えの親が出現してきたということです。子供は守られる存在だから、できるだけ幸せであって欲しい。そのためには現実もある程度オブラートにくるんで見せたい。
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 田中 そうして、子供に対して大人の邪悪な部分を見せてはいけないとか、死というものを書いてはいけないとか、親が愛情が失われて喧嘩をして離婚するなんてことは書いてはいけないというようなタブーがずっと続いてきたのが1970年代までです。先ほど、ホームドクターがアメリカで70年代からとおっしゃっていました。その辺りが多分、それまでの近代の価値観があちこちに崩れ始めた時期だと思いますが、子供の本の中にもそうした兆候が現れてきます。

 たとえば人間は死ぬということを子供に隠すというのはおかしいとか、両親が離婚をするのを隠すというのはおかしい、それをなんでも隠すのではなくて事実をちゃんと子供を信頼して伝えることで子供達がすくすくと育っていく方向を探るべきじゃないかという考えに徐々に変わってくるのです。ドラマは何かの危機や事件がないと始まらないですが、保護者に守られているだけでは、ドラマを起こしようがありません。そこで、かつては親が亡くなった孤児なんて設定があったのです。ご存じかもしれませんが「赤毛のアン」や「小公女」「ハイジ」などが有名ですね。それが70年以降実際に離婚率が高まったこともあって…。アメリカの場合70年の最初の頃の調査では10歳くらいまでの子供で親の離婚を体験していない子供は5割を切ったんです。逆に言えば半分以上の子供は親の離婚を経験している状態だった。日本の場合家庭内離婚が多いですからそんなに比率は高くないですが。

 蓮風 それはなかなか複雑。

 田中 そういうこともあって隠さなくなり、70年ごろから新しい児童文学が出てきたんですね。日本でも『お引越し』なんかよりも13年前に今江祥智さんが『優しさごっこ』という作品で初めて親が離婚していく子供の話を書いたんですけども、それに続くものがなかなか現れなくて、それで90年に私が『お引越し』を書いたのですが。

 とにかく、そうして70年以降の子供の話はしだいにタブーがなくなってきます。大人の本との違いは使われている言葉、つまり設定している子供が中学生だったら中学生にもわかる言い回し、小学生であれば小学生にもわかる言い回しくらいになってきました。8歳の子供の物語の中でも凄く刹那的な事を考えている大人が登場することだってあるわけでしょ。でもそれを刹那的であるとは書けないじゃないですか。そこをどう表現するのかというのが70年以降の児童文学作家の困難と努力なんです。ただその違いを除けば大人の本と子供の本が扱う素材はほとんど同じようになってきました。違うのは、大人になることを否定したり、死を肯定したりはしない点だけです。もうすでに大人になった作家が、大人になる道筋を閉ざすようなことを書くのはフェアではありませんから。そういう最低限のことはあるんですけども、素材的にはそんなに変わりなく書いてきているんですね。

 「私たちは今、一人一人バラバラであることは認めよう。けれど、そこでどう繋がっていくかが大事なんだ」といったメッセージもそこで行われています。そうするとそこには東洋医学でも先程からおっしゃられているような表裏とか全体が繋がっている問題も含めて子供の本の中にも入ってきやすいようにはなってきていると思います。<続く>

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ひこ・田中さん(写真右)と藤本蓮風さん=藤本漢祥院(奈良市学園北)


 「鍼(はり)」の知恵を語る「蓮風の玉手箱」も始まってから2回目の年の瀬を迎えています。児童文学作家、ひこ・田中さんと、鍼灸師で北辰会代表の藤本蓮風さんとの対談の4回目をお届けします。今回は児童文学執筆の“舞台裏”も明らかになります。前回に続いて東洋医学の根本原理といわれる「気一元」が主要なテーマです。年の瀬の慌ただしさもピークを迎えるころですが、この対談を読んでご自分の身体のことも考えてくださいね。(「産経関西」編集担当)

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 蓮風 児童文学を通じて大人が、どうすれば心の安らぎを得られるか、そういう考えは児童文学にはあるんですか? というのはね、『お引越し』でもわかるように女の子の話ですね、子供の目線でずっといくわけです。そういうことをできること自体凄いなと私は思うんです。これはどういうワケなんでしょうかね?

 田中 どういうワケといいますと?

 蓮風 子供の視線で常にいけるということは子供の視線を持っておられるということだと思うのですが…。

 田中 実際は嘘なんですよ。子供心があるとしても自分が知っている子供、つまり自分の子供時代しか知らないんです。それは普遍的な子供ではありませんし、現代の子供でもありません。それを子供の本を書く人間はよく分かっています。分かっているから、日ごろから、子供だったらどう考えるんだろうか、どう感じるのだろうか、現代の子供の考え方感じ方は自分が子供だったときとどう違うのだろうかといった思考を重ねていて、物語を作るときにそのファクターを入れるんです。だから大人の文学よりひと手間多いんですよね。

 わかりやすい例で言いますと、藤本先生にお渡しした私の『レッツ』という幼年向けの3作ありますが、まずどういう作業したかというと、たとえば、2作目の『レッツのふみだい』は4歳児のレッツくんが、自分の背の高さで何が見えるかとかを調べていく物語なのですが、書く前に彼の背の高さまでしゃがんで、何度も何度も部屋の中を歩き回りました。外へ出ても、公園などでしゃがんでみる。そうすると、大人の目の高さでは気づかないことがたくさん分かってくる。空が思いの外広く見えるとか、机の裏がよく見えるといった風に。普通の大人は、馬鹿馬鹿しいし意味がないし、腰が痛くなるので、そんなことはやりませんけれど(笑)。そうして得た新しい発見を、今度は4歳児の言葉や思考方法にトレースしていきます。こんなことを言うと物語の神秘性が失われますかね(笑)。

 蓮風 面白いことを思い出したけども、古い患者がおるんですよ。もうおっさんになっておりますがね、何十年かぶりに会うと先生小さくなったと言うんですよ。あの時確か凄い大きな先生だったのに小さくなったと言うんですよ。今の目線の問題ですよね。目線の問題というのは直接目で見る目線という意味でも重要ですね。

 田中 直接、見る目線だし、心の目線でもあるのですが、子供心を持っていると自分で思ってしまうのではなく、まずそこから始めて、子供心が見えるかどうかの可能性にかけてみます。他にも自分が小学校時代、中学校時代に過ごした場所へ時々出かけます。風景が、全く変わってしまったところは仕方がないにしろ、神社や寺など、子供時代に遊んだ場所はわずかでも残っています。なぜ出かけるかと言えば、自分が変わったことを確認するためです。

 蓮風 変わって見えますね。

 田中 それを知っていれば、たとえば子供と接する時でも子供側の目線とか考え方に少しでも配慮した接し方を私はできると思うんですよ。177センチの視線だけで考えて上から見ていてもダメで、やはり60センチの時があったというのを常に忘れないようにするということが凄く大事で。

 蓮風 それは言い方を変えると本来の人間の純真な部分の世界に戻ることに繋がりますか? また別ですか?

 田中 子供の心が純真だというのも近代から生まれてきた考えの大きな一つで、だから藤本先生も近代の人なんですね(笑)。

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 蓮風 だけどね、私もいくつか本を読んでいますが宗教家の考えが好きで、キリスト教関係も勉強したけど、特に仏教に非常に興味がある。うちの先代自体が仏教の信者で色々な事を教えてくれたんですね。前にも言ったけども、こう言ったんです。「幼子の しだいしだいに 知恵づきて 仏に遠くなるぞ 悲しき」。これはね、江戸の初期のころの坊さんの話なんですがね、宗教とか哲学の世界には時代に規定されない部分がかなりありますね。だからしきりに近代の考え方の背景に児童文学を入れるお話を頂いて、それはそれで面白いんだけども、必ずしもそれに規定されない部分があるんじゃないか。

 それと個と個の問題、個と家族の問題、個と社会の問題も私に言わせると、「気一元」ということからすると原因があって即結果じゃないという話ですね。わかりやすく言うとアサガオの種があるからといって芽生えるとは限らない。一定の条件があって芽生える。温度とか湿度とか、それから空気がないとダメですよ。すべて種があるから結果があるという考え方は実は西洋医学なんですよ。インフルエンザウィルスがあるからインフルエンザを発症するという発想なんですね。しかし種と成長を助長する条件というものを外して考えておるんですわ。それを東洋医学はやかましく言う。

 たとえばC型肝炎ウィルスが鍼で消えることはたくさんあるんですよ。鍼でC型肝炎ウィルスを殺したかというとそうではない。結果としてそうなるんです。体の中に免疫機構があってそれを排除しようとする力を鍼がたまたま引き出したという説明が正しいということですね。だからウィルスとか菌があるから病気になるという考えではないわけです。非結核性好酸菌症を鍼で治した例なんかも全く典型的な問題なんですね。そうすると己というものを考えた場合、己というのは絶対的な己、我というものがあるかっていうと、あらゆる条件が重なって己を作り出しているんです。ご両親も居れば、先祖からのDNAもあるだろうし、それから教育関係、宗教、哲学関連…。

 これも仏教寄りの一つの説明なんだけども、我があるように見えて実はないんだと。無我ですね。17世紀からの近代的な思考法っていうのは自分と他とを分けるところから始まっていく。常に鍵を持って歩いて自分のところに入られないように鍵を締めていく。そうじゃなしに東洋医学は2500年前から、元々(我々は)一つなんだと。この背景にはね、私は農耕民族の生活があると思う。農耕というのは一人では出来ませんよ。少なくとも狩猟はね、やろうと思えば一人でもできるけど、農耕は広範囲に皆の手がわたる。そこには、天には天の神、地には地の神、御日様、まんまんちゃん(仏様)とやっている。この多神教的な発想が実は気一元をもたらしたと思うんですよ。

 今はバラバラに見えているけど本当は一つなんだと。それが相互に影響したら個というものは成り立つ、個というものがあれば…。でも本当はないんだという発想が東洋医学には僕はあると思うんですよ。絆なんて言っているけども元々絆はなくていいんですよ、だって一つのものなんだから。これは先生を引っ掛けるような形に言っていると思うんですけどね。元々要らないんですよ。本来の自分に気づくということがね。だから本来の自己とは何かというと、子供心の中に原点があると思うんですよ。先程の話にも出てきたように、こういう世界が僕の憧れとしては児童文学の中にあってほしいし、ないといけないなという気もするんですがね。

 そういうわけで児童文学を何でもかんでも押し付けるわけではないけども何かそういうものがあったらいいなぁとは思うんですがいかがですか?

 田中 子供の本は先程言いましたように、作家たちが10歳なら10歳の子供にも世界が理解できるように物語を創るわけです。それは今、藤本先生がおっしゃったように、「今はバラバラに見えているけど本当は一つなんだ」ということにも通じます。つまり、大人から子供まで、子供から大人までが、バラバラの個としてありながら繋がってもいるってことを、子供に伝える作業です。

 蓮風 大変な事やな。<続く>

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「物語への逃避」の有効性を強調する、ひこ・田中さん

 今年最後の「蓮風の玉手箱」をお届けします。児童文学作家、ひこ・田中さんと、鍼灸師で「北辰会」代表の藤本蓮風さんとの対談の第5回目です。今回は児童文学の“効用”についてのお話が展開されます。2012年もさまざまなことがありました。課題が山積する時代のなかで、年末になって疲れが出てきた方もおいでなのでは? 「癒やされたいなぁ」と思っている大人は必読の対話かもしれません。(「産経関西」編集担当)

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 田中 大人の本は小学校1年生の子にはわからないが、子供の本は50歳の大人でもわかるんですよ。ですからさっきの絆じゃないですけども、異年齢の人たちが本というか物語を通じて、たとえば心の繋がりを求めようとしたときに児童文学というのは非常にいい媒介になるんですね。ですから、ここ10年15年大人が急速に児童文学を読み始めた理由というのは色んなことで疲れている中で最初は多分癒やしを探し始めたと思いますが、読んでみるとそういう甘い癒やしよりむしろ、同じ世界に生きていることを実感されているのではと感じています。

 先に「大人の本と子供の本が扱う素材はほとんど同じようになってきた」と申し上げましたが、色々悩んでいる大人たちが読むと力になる。悩んでいるっていうのは、これは藤本先生が専門なのですけども、自分の中でごちゃごちゃになって訳が分からなくなっているんですよね。なんとなくモヤモヤとどうしていいかわからないと思っている人というのは、訳が分からなくなって自分でそれを制御したり整備したりする力も気力もなくなっているかもしれないです。そうした場合、子供の本は子供達も理解できる非常にシンプルな言葉とシンプルな構造でその問題が書いてある訳ですよ。そうするとこんな所でこんがらがらなくてもいいじゃないかと。

 蓮風 スッキリしているから。

 田中 ええ。大人って、シンプルであったり単純であったりすることを言うのが恥ずかしいという悪い癖があるんですよね。大人だからもっと複雑に考えないといけないとかね。ところがほとんどの多くのことはこれも藤本先生が専門だと思いますが非常にシンプルなんですよ。そこで子供の本を読むとスっと抜けて見晴らしが良くなる経験を沢山の大人がし始めているんですよね。もちろん子供の本は子供のための本であって大人は盗み見しているだけです。この前私が藤本先生の講義=2012年6月、森ノ宮医療大学(鍼灸学科)特別講義=を聴講させていただいたみたいに。でも、私は聴かせていただきながら、自分が知らなかった世界や見方を得ることができました。だからもっと大人の方も子どもの本を読む機会をお作りになった方がいいと私は思います。

 蓮風 私の素人考えでは今の話と関係すると思うんですけども、仏教の中でも仏教童話っていうものが膨大にありますね。

 田中 ありますね。

 蓮風 あれは児童文学と呼んでいいんですか?

 田中 児童文学として書かれているものはたくさんあります。

ひこ5-5

 蓮風 そうですよね、仏教童話と言うんですよね。私が読んで一番感動したのは鬼子母神(きしもじん)の話。訶梨帝母(かりていも)ともいう。これはお釈迦さんの時代に凄い女がおって、それも子供を沢山持っている。ところがその鬼子母神は他所の子をさらっては食べてしまう。世の中を大いに騒がしていた。その時、お釈迦さんが直接説法するんではなくて、ある日彼女の何十人といる子供を一人隠してしまった。鬼子母神も夢中になって探す。最後にお釈迦さんが隠匿していることに気づいて、そして…。

 鬼子母神:「お釈迦さん、何であなたのような人を救う人がこんな事をするんですか?」
 釈迦:「そうか、これは悪い事か。」
 鬼子母神:「私にとっては悪い」
 釈迦:「そうだな、あなたにとっては悪い。だけどね、あなたあれだけ沢山子供がいるんだから一人くらい居なくてもいいじゃないか?」
 鬼子母神:「それはいかん!何十人おっても全部私の子供だ。」
 釈迦:「そうか、そこまでわかるか」
 鬼子母神:「わかります」
 釈迦:「じゃぁ、他所の家庭はそんなにお前みたいに子供を沢山産まないけども一人取られるとどれだけ悲しい思いをしているか、少しはわかるか?」

 そこで鬼子母神(訶梨帝母)は悟った。

 鬼子母神:「私はあらゆる子供たちの守り神なんだ」

 だから鬼の子の母の神(鬼子母神)、訶梨帝母になりますと言って成仏したといった話がね、非常に簡潔にまとめられているわけですけども。やっぱり児童文学に通じるものですよね?

 田中 そうですね。

 蓮風 非常にわかりやすく、とにかく自分がされて嫌なことは相手も嫌なんだと。だからそれには気をつけようという多分そういう教えを言っているんだと思うんだけれども。子供の頃に沢山読まされましてね。地獄極楽の絵が一番怖かった。わかりやすく言うっていうのは大事ですね。おっしゃたように大人だからって複雑なことがいいかっていうとそうではなくて意外と真実は単純な事なんであって。そういうことが児童文学でどんどん示されていって迷う人々を救うとするならばこれはやっぱり凄い事ですよね。むしろ大人の方がしっかり読んで子供に学ばなければいけないということですね。
ひこ5-6

 田中 児童文学作家たちが常に子供の側に立って書く姿勢を失わないことなんですよね。たとえば親とか、教育の側に立ってしまうとかになってしまうとそれはまずいので、あくまでも子供の側から物事を考えて語っていく。結構しんどいんですけどね(笑)。

 蓮風 フィクションというかファンタジックな世界。これは児童文学ではどのように位置づけるんですか?

 田中 ファンタジーですか?

 蓮風 ファンタジーやフィクション。

 田中 私は「人間は物語なしでは生きていけない」と思うのですね。だから絶対物語は手放さないでほしい。フィクションを自分の側に携えておいてほしい。なぜ、そう思うかと言うと、『お引越し』でもかなり現実的なことを現実に近い形で書いていますけども、そう書かれていても物語は嘘なんですよ。

 蓮風 本来は…。

 田中 はい、本来は。嘘である物語を携えるというのは、私達が今生きている世界と別の世界を横に常に置いておくということです。そうすると、しんどかった時はそこに逃げればいいんですよ。よく疲れたからといって逃げたりするのは卑怯だという人がいます。そういう人に限って単に元気なだけな気がしますけども(笑)。私はしんどいときは逃避していいと思うんですね。逃避して元気になったらまた帰ってきて「やぁっ」って言えばいいし、それを受け入れるような社会のシステムがあれば一番いい。

 蓮風 なるほど。

 田中 旅に出てしまうとかいうのは大変なことですけれども、日ごろ疲れた時に、今、当面抱えている問題から逃れたい時とかに、物語の中へ逃げ込むというのは非常に有効な作業だと思うんですよね。でも、物語というのはなんぼそこで遊んでいても、ほんでほっこりしてても残念ながら終わっちゃうんですよね(笑)。

 藤本 そうですね。

 田中 必ず戻って来れますから、読んでいる間はゆっくりとそこで休んで、好きな物語の中でどんな夢でも見て、リラックスして、そして戻ってくる。そうして物語を持っていないと、逃げる場所がなくなるから非常にしんどいと思うんですよね、生きることが。<続く>

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